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zoom RSS 薩摩藩邸跡(二本松) その4

<<   作成日時 : 2019/05/19 19:14   >>

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薩摩藩邸跡(二本松)(さつまはんていあと)その4 2010年1月17日訪問

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薩摩藩邸跡 京都市の駒札


 薩摩藩邸跡(二本松) その3では本題である薩摩藩二本松藩邸が、この地に作られるまでの経緯を見てきた。この項では小松、西郷、大久保の京都での寓居跡と藩邸の位置関係を確認しておく。

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小松帯刀寓居 近衛家御花畑邸 2018年3月18日撮影


 文久3年(1863)9月、薩摩藩は小松帯刀の宿舎として鹿苑院の借受けを相国寺に申し出ている。前述の「相国寺研究 四 幕末動乱の京都と相国寺」によれば、9月11日に借用願を出したようだ。小松は久光の3度目の上京に随行し、文久3年10月には京に入っている。久光を補佐し国是決定のための会議、すなわち参預会議体制の構築に尽力した。そのため朝廷、公家、幕府及び他藩の諸氏と談義を行うためには藩邸外に専用の屋敷が必要であったはずである。久光は文久4年(1864)4月18日に退京するが、帯刀は京に留まり脆弱になった公武合体派を支えると共に幕府からの出兵要請を断り禁裏警衛に徹した。久光からの帰藩命令を受けた帯刀は、元治元年7月19日に勃発した甲子戦争の決着を見届けた後、同年8月13日に京を出て帰国している。その後も帯刀は京と鹿児島を往復し、薩摩藩の政治活動を主導してきた。相国寺は鹿苑院を帯刀に貸し出したかについては調べることが出来なかった。また上記の笹部氏も帯刀が実際に鹿苑院を使用したことについては触れていない。ただし二本松藩邸と鹿苑院の位置関係をみると、藩邸内ではないもののほぼ藩邸に付属する施設なので、密談を行うには適していなかったようにも思える。

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小松帯刀寓居 近衛家御花畑邸 2018年3月18日撮影

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小松帯刀寓居 近衛家御花畑邸 2018年3月18日撮影
当時烏丸通は上立売通以北なかった


 これとは別に、2016年5月二本松藩邸の北約800メートル、上京区森之木町の地に小松帯刀の寓居した御花畑屋敷があったことが特定されている。これは薩摩藩と縁の深い近衛家が所有する屋敷で、原田良子のブログ「御花畑」の研究に掲載されている瀧家文書と御花畑御邸によれば、文久元年(1861)6月から翌2年(1862)9月にかけて、桜木邸(丸太町川端東入ル桜木町 現在の東山区東丸太町・天理教河原町大教会)の改修工事に伴い、御花畑屋敷も手が入れられたことが分る。すなわち、これ以前より近衛家は御花畑邸の敷地を所有し、敷地内には屋敷が存在していたことが分る。この改修工事は、桜木邸で暮らしていた近衛忠煕とその六女の信君を分け、桜木邸を信君の住居とし御花畑邸を忠煕の隠居のためにするものであった。しかし桜木邸の工事が完了した文久2年5月以降も、原田氏によれば忠煕は御花畑邸ではなく桜木邸に暮らしていたようだ。この文久2年(1862)の夏から薩長同盟が締結する慶応2年(1866)正月までの間に、薩摩藩は近衛家から御花畑邸を借り受け、小松帯刀の寓居としたのであろう。この御花畑邸は現在の地名では上京区森之木町、北区小山町そして北区上御霊上江町にまたがる1800坪に及ぶ敷地を有していた。御土居内ではあるものの鞍馬口通に面するなど賀茂六郷のひとつ小山郷に近い場所であった。当時は京の北の外れという印象が濃い場所でもあった。それは20年後に作製された地図・京都を見れば明白であろう。この時期、烏丸通は上立売通で突き当たり、寺之内通で東側に移った室町通が鞍馬口通に達していたことが分る。そしてこれが御花畑邸へのアクセス方法であったのであろう。この地には2017年に小松帯刀寓居跡・近衛家別邸御花畑御屋敷跡・薩長同盟所縁之地の碑が建立されている。

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大久保利通邸

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 大久保一蔵(利通)が幕末期に過ごした地には既に大久保利通旧邸の石碑が京都市教育会の手により昭和2年(1927)に建てられているので分りやすい。京都御所の石薬師御門を出た東、二本松藩邸の近くで交通の便が非常に良い場所でもある。既に大久保利通旧邸からその2その3と書いたので、ここでは詳しくは繰り返さない。大久保が石薬師通に邸宅を購入したのは薩長同盟が締結された慶応2年(1866)正月の後となる同年春頃と考えられる。「大久保利通文書」(「日本史籍協会叢書 大久保利通文書 1」(東京大学出版会 1927年発行 1983年覆刻)に所収されている西郷に宛てた大久保の書簡(93 西郷吉之助への書翰 慶応二年三月十九日)には、下記のように品川弥二郎についての事柄が記されている。

品川義今暫ク滞在いたし大抵模様相分候迄見合度与之事故其通いたし候様相答小生御長屋江召入置申候彼書面御一覧之筈趣意丈ヲ
朝廷江訴出度与之事ニ而實に可憐情實若戦之期ニ臨ミ候ハヽ如何様共計候様可有之与愚考仕併是ハ只今可論事ニも無之何れ其節ニ臨而之事ト相考申候間左様御聞置可被下候以上
三月十九日              一蔵

吉之助様


 品川は薩長同盟締結の直後、桂小五郎とともに帰藩している。そして山口を赴いた薩摩藩の黒田清隆と共に上京し、薩摩藩士と称して二本松の藩邸に入っている。その後、大久保の寓居に移ったとされている。大久保の「小生御長屋江召入置申候」とはこの事であろう。なお品川は京阪の事情を自藩に伝えると共に、長州の衷情を朝廷に哀訴していることが上記の書簡より分かる。このように慶応2年のかなり早い時期より、大久保の石薬師邸あるいは隣接する借家が長州藩士の京都滞在に供されていた。
 勝田孫弥著「甲東逸話」(富山房 1928年刊)には小松の御花畑邸に造った茶室を大久保が貰い受け、敷地内の奥庭、恐らく南側に移設した話も記されている。この御花畑邸の茶室とは慶応2年(1866)正月21日に締結された薩長同盟の密談が行われた場所とされている。勝田は小松が御花畑邸に茶室を建てたのを慶応2年頃と漠然と記しているが、これでは薩長同盟成立後の建物である可能性も出てくる。また大久保が小松より貰い受けた時期についての記述もない。

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大久保利通邸 2018年3月18日撮影
取り壊される前の状況(大久保利通邸跡に建てられた住宅)

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大久保利通邸 2018年3月18日撮影
取り壊される前の状況(大久保利通邸跡の西側に建てられた土蔵らしき建物)


 大久保利通の子にあたる大久保利武が「有待庵を繞る維新史談」という一文を遺している。これは昭和17年(1942)11月6日に貫道会員に対して茶室・有待庵の由来を説明した講演を基にしたものである。この講演の冒頭で利武は下記のように述べている。

この旧宅は私の父利通が、慶応二年の春から明治元年の六月まで、丁度二年半ばかり住まって居ったのであります。その頃時勢の変遷頗る急激に、王政維新に向って一大進展をなし、色々顕著なる歴史の出来事が起って来るのでありますが、またその間に隠れた事績も少なくないのであります。この旧宅及び茶室が、種々それに付き縁故由緒も存するのでありますので、そういうことから特に貫道会から御申し込みになり、且つ私にそれ等の事績に関したる維新史のお話をして呉れという牧野幹事から御依頼に預かったのであります。いろいろ御維新に関してのお話も多いのでありますけれども、今日はあの茶室に関したことと、それから錦の御旗の事について、東京から多少それ等に関した文書史料も携帯して居りますれば、重に薩長両藩に関したる維新の事績を申し上げたいと思うのであります。


 この大久保利通旧邸にあった茶室・有待庵は、前述の原田氏のブログによれば令和元年(2019)5月に残念ながら撤去されたようだ。大久保利通旧邸の石碑の周囲に作業シートを張られている写真を見かけたので石碑は今後も残るものと思われる。

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西郷隆盛邸推定地 料亭・中熊 2016年3月5日撮影

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石薬師 黒田清隆寓居跡・紙商西村安兵衛邸 2018年3月18日撮影

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石薬師 黒田清隆寓居跡・紙商西村安兵衛邸 2018年3月18日撮影


 石薬師御門の大久保邸の近く、石薬師中筋の「中熊」という料亭の2階を西郷が間借りしていたことが、桐野作人氏の「さつま人国誌 幕末・明治編」(南日本新聞社 2009年刊)に記されている。大久保利通の三男・利武が地元の古老で紙商・丹波屋の西村安兵衛から聞いた話として「利武聞書」に記されているという。西村安兵衛宅は上京区寺町通今出川下ルにあり、その一部を改造しフレンチレストラン「エピス」として使用されている。この西村安兵衛宅にはやはり薩摩藩士の黒田了介(清隆)が下宿していた。西郷寓居の中熊が石薬師中筋のどこにあったかは不明である。勿論、石碑も駒札も残されていない。

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西郷隆盛邸推定地 料亭・中熊 2016年3月5日撮影

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西郷隆盛邸推定地 料亭・中熊 2016年3月5日撮影


 さらに二本松藩邸の近く塔之段に西郷の寓居があったとされている。薩長同盟締結の際、長州の桂小五郎に同行していた品川弥二郎から、中原邦平が後年になって聞き取った「品川弥二郎述懐談」によれば以下の通りである。

桂一行が京都についたのは慶応二年の正月八日で、直ぐに相国寺の近辺にあった西郷氏の邸宅に入つたのです。そこで木戸は始めて西郷に面会したのでありますが、その時木戸は頗ぶる詳細に薩長の経緯を述べ、長州の考へは、斯くくかやうであつて、一にも二にも朝廷へ対し奉つて勤皇の大義を展べようと致したのであるが、不幸にしてその意志が通ぜず、遂に朝敵の汚名を蒙むつたのは、まことに残念の至りであつたと、従来の行掛りを詳しく述べ、面と向つて随分薩州の嫌味を述べたさうです。

三四日西郷の邸に滞在して、我々は近衛公の小松別荘に移つたのであるが、四日経つても、五日経つても、大事な連合の話については、ついぞ口を切らない。薩摩側では、毎日のやうに御馳走をするばかり、こちらではそれを食べるばかりといふ始末である。


 上記の述懐は「大西郷全集 第三巻」(大西郷全集刊行会 1927年刊)に「【三】木戸・西郷の会盟(二)」として掲載され、「坂本竜馬全集 増補4訂版」(光風社出版 1988年刊)にも「五一 品川弥二郎述懐談(木戸、西郷の会盟)」として引用されている。この品川の述懐より二本松の藩邸に入った桂等は、先ず相国寺の近辺にあった西郷の邸宅に場所を移し会談を始めたことが分かる。この地にモ2018年11月23日、同志社女子大学東門前の二条家邸跡から北側に入った右手に「西郷隆盛邸跡、相国寺七重塔跡、湯川秀樹一家寓居跡」の石碑が建立されている。二本松藩邸の表門からわずか200メートルと石薬師御門の大久保邸や中熊よりさらに近い場所に居を移したと考えられる。

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西郷隆盛邸推定地 塔之壇 正面は幸神社 2016年3月5日撮影
西郷隆盛邸跡の石碑は1本西側の通に建立された


 最後に西郷隆盛の京における寓居としては、錦小路藩邸の近くにあった鍵直旅館が有名である。安政年間に京で政治活動を行った西郷は錦小路藩邸に近接する鍵直旅館を定宿としていたようだ。ちなみに2018年のNHK大河ドラマ「西郷どん」で、近藤春菜が演じた虎は鍵屋の仲居という設定であった。現在のところ石碑も駒札も設けられていない。

 以上のように小松帯刀、大久保利通そして西郷隆盛の3人が幕末の京都で過ごした痕跡を示す石碑がこの数年の間に揃ったということであろう。

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薩摩藩錦小路藩邸跡 2018年3月17日撮影


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