南千住 回向院

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南千住 回向院(みなみせんじゅ えこういん) 2018年8月12日訪問

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南千住 回向院 本堂ピロティ下

 千住宿と小塚原の歴史について、南千住 小塚原から、その4までを使って記してきた。ようやく、ここからは本題である回向院について書いていく。
 回向院は浄土宗の寺院で山号を豊国山と称す。同寺の「史蹟 小塚原回向院 縁起(http://ekoin.fusow.net/303.html : リンク先が無くなりました )」によれば、寛文7年(1667)に本所回向院の住職弟誉義観上人が常行堂を創建したことに始まる。元々、本所回向院は万治年間(1658~61)頃より町奉行の下命で牢死者や行倒人などの埋葬を行ってきたため、境内が手狭になっていた。その打開策として新たな埋葬地をと分院の設立を願い出たということらしい。町奉行所は仕置場内に寺地を与えたので、回向院の元となる常行堂は刑場の中にあった。これは、2009年に荒川ふるさと文化館で開催された企画展示をまとめた「橋本左内と小塚原の仕置場」(荒川区教育委員会編 2009年刊)に掲載されている「浅草御仕置場絵図」によって確認できる。御仕置場の北東隅に「回向院下屋敷 庵主地所」と記されており、この時代の回向院の地所が間口11間、奥行27間程であったことが分る。また、回向院の裏手には「御自分仕置 腑分稽古様場所」という記述が見える。「御自分仕置」とは、諸藩の江戸藩邸内の家人から犯罪者を出した際の死罪執行場所である。藩邸内には牢屋はあっても仕置きを行う場所がないため、公儀の鈴ヶ森か小塚原の仕置場を拝借することとなる。ただ手続きが面倒であったため、牢屋内で毒を盛ってしまうことも多かったようだ。「腑分稽古様」は解剖や試し斬りが行われた場所である。
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南千住 回向院
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南千住 回向院 史蹟小塚原回向院

 回向院は、昭和48年(1973)に行われた旧国鉄踏切廃止、日光街道(コツ通り)のアンダーパス化及び拡幅工事に伴い、本堂をSRC造に建替えている。それ以前の回向院の様子は「杉田玄白と小塚原の仕置場」(荒川区教育委員会編 2008年刊)が掲載している昭和30(1955)の写真(83)で確認できるように、史跡であることを紹介する巨大な看板が入口脇に設置されていた。また門の両脇には現在も保存されている「史蹟小塚原回向院」と「明治維新殉難志士墓所」の木札が掲げてあった。
 新しく建替えた本堂の地上レベルは、ピロティとなり後方の墓地への参道となった。このピロティ下右手に観臓記念碑が設置されている。杉田玄白や前野良沢等がこの地で行われた刑死者の腑分けに立会い、「解体新書」の翻訳を始めたことを記念し、大正11年(1922)に奨進医会が本堂裏に建立している。この建立主である奨進医会は、明治25年(1892)医学者で医学史家あった富士川游等によって先人の偉業を顕彰して医道の昂揚を図らんとする目的で結成された私立奨進医会の流れを汲む。この会が結成された3月4日は杉田玄白等が小塚原観臓の記念日であり、以後毎年先哲追薦会が挙行された。私立奨進医会は大正4年(1915)1月に改組し、奨進医会に名称を改めている。そして昭和2年(1927)に現行の日本医史学会に改称している。大正11年(1922)に建立された碑は昭和25年(1945)2月25日の空襲(ミーティングハウス作戦)で被災したため、改めて昭和34年(1958)3月4日に日本医史学会、日本医学会、日本医師会の3会協同で再建している。設計は小諸の藤村記念館や東宮御所を手がけた谷口吉郎、そして緒方洪庵の曾孫で血清学者、医学史学者であった緒方富雄が碑文を書いている。この石碑の左下に設置された石板は、昭和49年(1974)10月26日に解体記念碑をこのピロティ下に移設した経緯と、その年が奇しくも解体新書出版の200年目にあたることを記している。

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南千住 回向院 山門左手の吉展地蔵尊

 宝暦4年(1754)閏2月7日、山脇東洋は京都所司代の許可を得て死刑囚の腑分けに立会っている。これが官許による最初の人体解剖とされている。京の西土手で5人が斬首された後、4人の首は晒され4体の遺体は穴に投げ込まれた。しかし屈嘉と呼ばれる罪人1人だけは首を刎ねられた後に胴体が六角獄舎に戻された。獄舎の前庭に敷かれた筵の上で屠者によって胸腹部の観臓が行われた。東洋はこの観察記録を纏め、宝暦5年(1759)に「蔵志」と題して出版した。
 山脇東洋は宝永2年(1706)丹波国亀山の医家清水家に生まれている。享保11年(1726)に父の門下の法眼山脇家の養子となる。そして古方派の代表的な漢方医であった後藤艮山に学ぶ。古方派とは、唐以前の古典「傷寒論」や「金匱要略」に学び、理論よりも実践を重視する流派であった。これは後世派と呼ばれる唐や宋以降の書籍をよりどころにする流派に対抗する形で発展した。つまり後世派が思弁的な傾向に陥ったことによって生じた復古主義であった。東洋も始めは後世派を学んでいたが、古方派に転向し、延享3年(1746)に唐代の医学書「外台秘要方」を復刻している。
 長年、陰陽五行説に基づく人体、すなわち五臓六腑説に疑問を感じていた山脇東洋は、人体の構成を自らの目で確認する願望を持ち続けてきた。人の解剖が禁じられていた時代であったため、師の艮山より人間の内臓に似ているとされる川獺の解剖を勧められた。しかし川獺の解剖でも疑問を解くことの出来なかった東洋は、弟子の小杉玄適と伊藤友信、友人の原松庵と連名で京都所司代・酒井忠用に解剖の願いを提出している。小杉玄適等は若狭藩医で、酒井忠用は若狭小浜藩主であるという関係を利用したものである。所司代の許可を得て観臓に立ち会ったのが上記の宝暦4年閏2月7日のことであった。

 東洋が刊行した「蔵志」は乾坤の二冊で構成されている。紙総数82枚、本文6枚、浅沼佐盈の筆による付図が4葉そして東洋自身の図が1枚。巻の初めに儒者梁田蛻巌等の序文そして終わりには嗣子東門の後書きを収めている。解剖所見が簡単すぎることは東洋も認めるところであり、今後より正確なものが作られることを期待しているとも記されている。(「後の志士、之を琢し之を彫し、以て照乗の美を成すを得ば、則ち幸なることこれより甚だしきはなし」)ここで注目すべき点は、「臓志」の刊行が観臓から5年を経ていることであろう。これは解剖に対する批判を考えてのことであったが、やはり多くの反論が起こっている。「蔵志」が発表された宝暦9年(1764)、東洋と同派の古方派の吉益東洞は「医断」を刊行し解剖無用論を主張している。また佐野安貞も翌年に「非蔵志」を刊行している。「臓の臓たるは形像でなく神気を臓するからであり、神気が去り気が散ずれば臓はただ虚器である」と述べる。つまり内臓の所見が病態を表すことはないので解剖の必要性は全くないと、全面否定を行っている。これは当時の漢方医の一般的な考えでもあった。
 宝暦12年(1762)8月6日、往診に出かけた鷹司家で昼食をご馳走になった東洋は、すぐに中毒症状を発し2日後の同月8日朝に亡くなっている。享年58。遺骸は山脇家の菩提寺である深草の真宗院墓地に葬られた。

 山脇東洋の死後、不要論がある中でも人体解剖は続く。岡本喬著の「解剖事始め 山脇東洋の人と思想」(同成社 1988年刊)によれば、宝暦4年(1754)の東洋による解剖以降、同8年(1758)には萩で栗山孝庵と熊野玄宿、伏見で伊良子光顕、そして京で東洋の再度の解剖が行われている。翌9年(1759)には萩で栗山孝庵と熊野玄宿による2度目の解剖、さらに明和7年(1770)古河藩医の河口信任と荻野元凱が京の西郊で刑屍を解剖している。杉田玄白等の小塚原での観臓はこれに続くものであった。その後も同年12月25日には東洋の遺志を継いだ山脇東門が獄舎で女刑屍体を解剖し、「玉砕臓図」を作成している。東門は安永4年(1775)8月と同5年(1776)3月にも解剖を行い、「女人内景真図」と「男人内景真図」を作っている。なお山脇家の墓地のある京都誓願寺墓地には山脇社中解剖供養碑がある。この碑には東洋の観臓した屈嘉を始めとして男屍10体女屍4体、合わせて14体の戒名が記されている。上記の「解剖事始め」によれば、幕末までの100年間に40以上の解剖が行われたことが分る。

 さて話を小塚原で行われた観臓に話を戻す。明和8年(1771)3月4日に小塚原で行われた観臓に立ち会ったのは誰だったのか?玄白の「蘭学事始」を読むと観臓が行われるまでの経緯が分かる。先ず前日の夜に町奉行の曲渕甲斐守の家士・得能万兵衛という人物より「明日手医師何某といへる者、千住骨ヶ原にて腑分いたせるよしなり。御望みならばかのかたへ罷り越されよかし」という手紙が届く。自分もまた山脇東洋先生と同じく観臓に立ち会える機会を得て、手に入れたばかりの「和蘭解剖の書」と照らし見て漢方と蘭方の何れが正しいか確認しようと思い立った。

さて、かヽる幸を得しことを、独り見るべきことにあらず、朋友の内にも家業に厚き同志の人々へは知らせ遣はし、同じく視て業事の益には相互になしたきものと思ひ量りて、先づ同僚中川淳庵を初め、某誰と知らせ遣はせし中に、かの良沢へも知らせ越したり。


 玄白は中川淳庵を始めとして数人に声を掛け、その中には前野良沢も含まれていたということだ。この後、「蘭学事始」では翌日の観臓についての記述が続き、小塚原からの帰りの様子を、「帰路は、良沢、淳庵と、翁と。三人同行なり。」と記している。これ以外に当日の参集者についての記述がない。恐らく玄白は数名の同業者に声を掛け、その内の何人かは参加していたのだが、その氏名は明らかになっていないということである。

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南千住 回向院 本堂ピロティ下

 これに対して菊池寛の「蘭学事始」(「日本の文学 32 広津和郎 菊池寛」(中央公論社 1969年刊))では杉田玄白、前野良沢、中川淳庵、小杉玄適、嶺春泰、良円の6名の名前を挙げている。勿論、菊池の「蘭学事始」は創作を織り交えた小説である。そのため史実をどこまで踏まえているかの判断は読者に任されている。3月4日の早朝、待ち合わせの「浅草橋から蔵前を通って、広小路に出て、馬道から山谷町」の出口にある茶屋に玄白が到着した時には、既に玄適と良沢が火鉢を挟んで向かい合っていた。その後淳庵が現れ、小半刻して春泰と良円が連れ立って来ている。また観臓後、春泰と良円が遅れたため、玄白、良沢、淳庵そして玄適が腑分けの印象を語りながら、「ターヘル・アナトミア」の翻訳に着手することを誓ったとは纏めている。玄白の「蘭学事始」と比べると、明らかに小杉玄適の役割が菊池寛の創作となっていることが分る。玄適は前述のように山脇東洋の腑分けに立ち会った若狭藩医である。玄白と出身地と職業が同じ事から、この時期に江戸に居れば玄白より声を掛けられてもおかしくはない存在である。だから菊池は玄適を小塚原の腑分けにも参加させたのであろう。また春泰とは嶺春泰のことであると思われる。春泰は上野国高崎藩の藩医の家に延享3年(1746)に生まれている。宝暦12年(1762)に藩主の命によって江戸詰となっている。蘭学を志し前野良沢に付き、解体新書の翻訳にも従事している。オランダの内科診断学書を翻訳して「五液精要」と称したが、寛政5年(1793)に未完のまま後事を宇田川玄随に託して没している。玄白は翻訳作業に携わった人を「同臭の人」と称して、この他にも庄内藩医とも謂われている烏山松円、代々弘前藩医の四代目桐山正哲、そして最初より会合に加わっていた幕府奥医師の桂川甫周などの名前を挙げている。菊池が記した6人目の良円は、あるいは烏山松円の誤りかも知れない。
 また、吉村昭の「冬の鷹」(新潮社 1976年刊)は前野良沢を主人公にした小説である。吉村も小塚原の刑場に着く前に浅草三谷町の茶屋に集合している。これは玄白の「蘭学事始」の「浅草三谷町出口の茶屋」と一致している。吉村は良沢が茶屋に着いた後に、「杉田玄白と中川淳庵らがやってきた。」と記している。この後「一行」は刑場に向かうが、良沢、玄白、淳庵以外の人物の名前は腑分けから帰路を通じても現れない。吉村は「ターヘル・アナトミア」の翻訳に着手する話し合いが三人の間で行われる場面を下記のように記している。

刑場を出たかれらは、三谷道を出ると別れ、良沢は玄白、中川淳庵とともに連れ立って帰途についた。良沢は築地、玄白は日本橋、淳庵は麹町に住んでいて、帰る方向はほぼ同じであった。


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南千住 回向院

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南千住 回向院 のMarker List
MarkerNo名称緯度経度
赤●回向院35.7322139.7978
01泪橋35.7290139.7994
02延命寺35.7316139.7978
03円通寺35.7340139.7928
04素戔雄神社35.7371139.7960
05荒川ふるさと文化館35.7375139.7954
06千住大橋35.7393139.7973
07千住宿35.7505139.8028
08奥の細道矢立初めの地 荒川区35.7331139.7985
09奥の細道矢立初めの地 足立区35.7412139.7985

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