京都御苑 桜町 その2

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京都御苑 桜町(きょうとぎょえん さくらまち)その2 2010年1月17日訪問

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京都御苑 桜町 紀氏遺蹟碑

2014年10月8日撮影

 京都御苑 桜町では、いくつかの地誌から、紀貫之邸は中御門北、万里小路東の左京一条四坊十二町、あるいは勘解由小路北、富小路東の左京一条四坊十四町にあったと考えられてきた。ここでは、紀氏遺蹟碑が残る仙洞御所の阿古瀬淵と紀貫之との関係についてみてゆく。
 紀氏遺蹟碑の建つ仙洞御所の地には、かつて豊臣秀吉の京都新城があったと考えられている。聚楽第破却後の豊臣家の京における拠点として、慶長2年(1597)4月末から京都新城の建設が始まっている。既に、京都御所 その3高台寺 その3でも書いた通りである。その位置は「言経卿記」(「大日本古記録 言経卿記 7」(東京大学史料編纂所編纂 年)の慶長2年4月26日の条には
太閤早朝ニ屋敷被替也云々、北土御門通ヨリ南ヘ六町、東ハ京極ヨリ西ヘ三町也云々、クイヲ打縄引也云々、」町屋悉相替也云々、


とある。つまり南北は土御門大路から大炊御門大路まで、東西は東京極大路から高倉小路に及ぶ広大な敷地であった。これは同年正月末に「三条坊門ヨリ四条坊門マデ四町、又西ハ東洞院ヨリ東へ四町也」と定めたものを、御所に隣接する地に変更している。さらに、その敷地内に住んでいた住民は全て移転させている。内藤昌氏が「豊臣家京都新城-武家地の建築 近世都市屏風の建築的研究-洛中洛外図・その6-」(昭和47年(1972)日本建築学会大会学術講演梗概集)で指摘するように、「史料纂集古記録編 48 義演准后日記 第1」(続群書類従完成会 1988年刊)慶長2年4月26日の条に下記のように記されている。

内裏ノ東、ワコゼカ池ト云所、太閤御所屋敷ニ御沙汰云々、伋三条御屋敷普請冣中ト云トモ被冣休了、町人迷惑、


また、「小槻孝亮宿禰日記」でも

太閤御屋敷之ハコ瀬カ池ヲ御城之中ニメ、今日御縄張有之


とあることから、阿古瀬淵は仙洞御所や京都新城が造営される前から存在していたことが分かる。黒川道祐が天和2年(1682)から貞享3年(1686)に記した「雍州府志」(「京都叢書 第3巻 近畿歴覧記 雍州府志」(光彩社 1968年刊行))の記述は下記の通り。

阿古是池 在後水尾院之御園 未知因何而号之也 一説婦人阿古是者宅地之池也 一説古東北院内之池水也


 元禄2年(1689)に狐松子によって刊行された「京羽二重織留大全」(「京都叢書 第6巻 京羽二重 京羽二重織留大全」(光彩社 1968年刊行))でも下記のように「雍州府志」をほぼ踏襲している。

阿古是池 後水尾院の御園にあり 何によってか此号ある事をしらず 一説阿古是と云ものゝ宅地の池なりと 又云いにしへ東北院内の池水なりと


 同時期の元禄3年(1690)刊行の「名所都鳥」(「京都叢書 第9巻 名所都鳥 堀川の水 都名所車 京内まいり」(光彩社 1968年刊行))ではもう少し詳しく記している。

阿古是池 又安古世我池とも書 愛宕郡 後水尾院の御園に有。むかし阿古是といへる女の庭の池なり。よって名づく。後水尾院の御宇。池に柳の大きなるありしを。景つくらんために切時。ふしぎや柳が根より血ながれ出。一尺あまりの蛇みへて行がたしらずなりき。柳をきりし人夫三人其夜の夢に。我は是阿古是が池にすむあるじなり。其柳をもって観音の像をつくれといひおはつて。形なし三人の夢一々かたり合せ。申次つたへて終に奏聞におよぶ。後に洛中名誉の仏工等におほせて。数の観音の像を彫ましむ。今其霊像諸国に有。ある書に弘法大師御作の弥陀の石像。此池よりあがりたまひ五条寺町。等善寺にありと云。


 やや下った正徳元年(1711)に白慧によって刊行された「山州名跡志 坤」(「京都叢書 第19巻 山州名跡志 坤」(光彩社 1968年刊行))では京都新城との関係を下記のように記している。

阿古世池 在今 仙洞御所 名義不考中比此地ニ秀吉公ノ別館アリ。政所公住セラル


 僧浄慧によって宝暦4年(1754)に刊行された「山城名跡巡行志」(「京都叢書 第10巻 山城名跡巡行志 京町鑑」(光彩社 1968年刊行))では、「河渠池井」という項目の中に御溝川や中河そして縣井とともに下記のように記されている。桜町御所とは桜町殿と呼ばれた仙洞御所のこと。

阿古瀬池 在桜町御所御庭


 大正5年(1916)に刊行された「京都坊目誌」(「京都叢書 第十三巻 京都坊目誌 首巻」(光彩社 1969年刊行))で、碓井小三郎は阿古瀬について自ら書くことはなかったが、仙洞御所の中で、桜町上皇撰による仙洞十景の中の「古池款冬 阿古瀬が淵の山吹を云ふ阿古瀬が淵。山州名跡志に載す」と大正4年(1915)に刊行された京都市編纂の「新撰京都名勝記」より「橋を過ぐれば別に一潭あり。奇岩巨石四周に礧砢たり。阿古瀬淵といふ。近時紀貫之古跡の碑を立つ。碑北に小渠を開き水を通して池に入る。渠を渡れば小丘あり。寿山といふ。鎮守の小祠あり。」

 以上の地誌を見ても、阿古瀬淵と紀貫之との関係に触れたものはないようだ。先の紀氏遺蹟碑は香川景樹の弟子となる渡辺忠秋が、師の「由縁の地をたづねて祠をたて」るという遺志を継いで明治8年(1875)に建立したものである。ただし、碑文の中でも、「千年のあとを今ここと定めんことはおぼつかなれど鴨長明の無名抄また拾昔抄など見合いて考ふればこの桜町の藐姑射の山の中なりけむかしとしばらく思ひ定め」と記した部分がこの地に碑を建てた理由であるようだ。
 公益財団法人・菊葉文化協会の公式HP仙洞御所の頁には、以下のように掲載している。できればその根拠となる出典を示して欲しい。


阿古瀬淵 Akosegafuchi
紀貫之の幼名「阿古久曽」に由来する。
It is said that one of the most famous poets of the Heian period (794-1191), Kino Tsurayuki (ca.868-945), lived in this area. The name of this pool originates from Kino's childhood name, " Akokuso". A monument to Kino's memory lies on the bank located at the other side of the stone bridge.


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京都御苑 桜町 阿古瀬淵

2014年10月8日撮影

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京都御苑 桜町 その2 のMarker List
MarkerNo名称緯度経度
赤●京都御苑 桜町35.0195135.7647
01左京一条四坊十二町
02左京一条四坊十四町
03仙洞御所 紀氏遺蹟碑35.0223135.7658
posted by Vinfo at 10:10Comment(0)TrackBack(0)

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