原了郭

原了郭(はらりょうかく) 2008/05/15訪問


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原了郭 既に店を閉めた後 2008年5月12日撮影



 四条大橋を渡り、八坂神社に向う四条通の北側、有名な一力茶屋の斜め向かいに原了郭の店舗がある。それほど間口の広くないビルの1階の片隅に入った店舗であるため、四条通を探しながら歩いても通り過ぎてしまうことがある。ビル名称が祇園了郭ビルとあるので、自社ビルなのかもしれない。実際に何回か四条通を東西に行き来した記憶がある。またこの店は木曜定休日なので、時々定休日に訪れ、店を見つけることが出来なかったのかもしれない。今回も訪問日が木曜日だったので、お土産は四条河原町の京都高島屋の地下売場で購入した。



 原了郭は香煎を専門に扱う店であり、それ以外に黒七味、粉山椒も製造している。御香煎と黒七味は株式会社原了郭の登録商標でもある。

香煎を辞書で調べると、

     1 麦焦がしの別名。

     2 焦がしに紫蘇と山椒の実、陳皮などの粉末を加えたもの。湯を注いで飲む。

     3 茶会の待合や祝儀の席でお茶代わりにする、紫蘇や山椒の実、陳皮の粉末、もち米で作る小さいあられなどのこと。単独または混ぜて、湯を注いで出す。

 原了郭の御香煎の説明が下記のようなものなので、3であることが分かる。
     「ういきょう、陳皮など漢方の原料数種類をあわせ、香ばしく炒ったものを粉末にし、焼き塩で味付けしました。白湯に浮かべてお召し上がり下さい。」



 しかし店の方に伺うと、おかゆやごはんの香り付け、天ぷらにかける塩などにも良いとのことで青紫蘇香煎を購入したことがある。やや塩分が強いように感じられるので、ご飯にかける時は量の調整が必要であろうが、白いご飯をおかず無しで食べることの出来るフリカケとなる。

 また桜の花を梅酢と塩で漬けた桜香煎や春らんの花を塩漬けにした、蘭香煎も販売している。余分な塩をふり落としてから器に花を一つ入れ、お湯を注ぐと花が開き華やかな演出が出来る。



 香煎の他には香辛料として黒七味、一味、粉山椒の3種類が製造されている。特に黒七味は、ただ辛いだけでなく、山椒の香りも高く、かけたものの素材を引き立てる香辛料となっている。そういう点で食事を楽しむことのできるスパイスでもある。ここでは黒七味の他に必ず粉山椒も合わせて購入している。どうもこのあたりは関東で作られているものとかならい差が生じているように感じられる。



 原了郭の公式HPによると創業は元禄16年(1704)で、赤穂義士原惣右衛門元辰の子・儀左衛門道喜が初代となる。儀左衛門は剃髪して了郭と号したため、屋号が原了郭となった。香煎は山脇東洋の処方によるものをこの地において商い、家業として専念し一子相伝を守り今日に至るとある。


 原惣右衛門は正保4年(1647)に米沢藩主上杉綱勝の家臣である原七郎左衛門の長男として誕生している。父七郎左衛門は承応3年(1654)頃、上杉家を離れて浪人となっている。そして惣右衛門が赤穂藩主浅野長直に仕官するのは延宝3年(1675)27歳の時のことである。延宝7年(1679)に赤穂藩士長沢六郎右衛門の娘を妻に迎えている。妻が元禄5年(1692)に死去するまでに2男5女をもうけている。さらに姫路藩本多家家臣・水野七郎右衛門の娘と間に、養子1人を迎え、男子1人をもうけている。惣右衛門は元禄10年(1697)には300石の足軽頭に就任している。



 元禄14年(1701)3月14日勅使御馳走役にあたっていた主君浅野内匠頭が江戸城松之大廊下で吉良上野介に刃傷に及んだ。事変が起きたとき伝奏屋敷に詰めていた惣右衛門は、伝奏屋敷からの退去の指揮を執るとともに、その夜の内に第二の使者として大石瀬左衛門とともに早駕籠で赤穂へ向かった。通常15日の道程を4日で走破し、3月19日浅野内匠頭切腹の報を赤穂へ知らせた。
 家老大石内蔵助は総登城を命じ、連日評定が行われた後、開城恭順となる。惣右衛門は赤穂城明け渡し後、大坂に住み大石内蔵助の御家再興運動の補佐を行う。そして仇討ちを主張する急進派を説得するため大高源五らと江戸へ下るが、逆に堀部安兵衛らに同調して急進派の中心となってしまう。惣右衛門は京都山科に赴き大石内蔵助に仇討ちの決行を迫っている。



 元禄15年(1702)浅野内匠頭の実弟浅野大学の広島宗家への永預けの処分が決定した。御家再興の望みはなくなり、ついに大石内蔵助は仇討ちを決定する。同年12月14日の吉良邸討ち入り。表門隊に属し大石内蔵助を助けて司令にあたる。討ち入り後は細川越中守屋敷へお預けとなり、元禄16年(1703)2月4日切腹。享年56歳。法名は刃峰毛劔信士。


 田中光郎氏のHPによると原惣右衛門の子女は次のようだったと考えられている。
   長女 お繁  延宝 7年(1679)生まれ 24歳(元禄15年)

   次女 お倉  天和元年 (1681)生まれ 22歳

   長男 十次郎 元禄元年 (1688)生まれ 早世

   三女 お市  元禄 2年(1689)生まれ 14歳

   四女 お富  元禄 4年(1691)生まれ 12歳

   次男 三秀  元禄 5年(1692)生まれ 11歳

   五女     元禄 5年(1692)生まれ 11歳

   養子 兵太夫 

   三男 十次郎 元禄12年(1692)生まれ  4歳



 再び繰り返すが、原了郭の創業は元禄16年(1704)となっている。すなわち赤穂義士討ち入りの翌年ということになる。三男の十次郎は後に惣八郎を名乗り、広島藩浅野宗家に250石にて召抱えられている。次男の三秀も創業当時は12歳位だった。可能性のある男子は年齢の分からない養子の兵太夫だけとなる。
 御香煎の調合を考えたとされている山脇東洋は宝永2年(1706)生まれであることも含めて、原了郭の創業についてのエピソードには少し無理があるように思われる。


 いずれにしても創業以来、一子相伝で守り続け、現在も13代目が一人で全行程手作業にて製造しているため、大量生産はできない。また昔からの製造方法を守り、仕事場に冷暖房器具を一切置かず、季節や天候にあわせて作り方を調整している。特に香りが重要な商品であるため、賞味期限は3ヶ月であるが、常温で2ヶ月くらいが目安となるらしい。



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