京都の神社巡り

ブログを引越しました! → 徘徊の記憶│Haikai no kioku ・ 京都の神社巡り 京都の神社巡り(きょうとのじんじゃめぐり) 京都の神社巡り 伏見大社稲荷 昨年の正月には、京都の名庭巡りということで、京の庭園のランキングを作成した。(京都の名庭巡り その1 その2 その3 その4 その5の1 その5の2 その6をご参照下さい)そこで今年最初の記事として、京都の神社巡りについて書いてみ…

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松尾大社 その4

ブログを引越しました! → 徘徊の記憶│Haikai no kioku ・ 松尾大社 その4 松尾大社(まつおたいしゃ)その4 2009年12月20日訪問 松尾神社 二ノ鳥居の榊 阪急電鉄桂駅より嵐山線に乗車し2つ先の松尾駅を目指す。桂の町並みで触れたように、1つ先の上桂駅は旧桂村とその北側の松尾村が接する地域に当たる。そして葛野郡の松尾村と桂村は昭和6年(1931)4月1日に、京都市右京区に…

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桂の町並み

ブログを引越しました! → 徘徊の記憶│Haikai no kioku ・ 桂の町並み 桂の町並み(かつらのまちなみ) 2009年12月20日訪問 桂の町並み 桂大橋西詰の常夜灯 地蔵寺・下桂から、京都府道142号沓掛西大路五条線を阪急嵐山線の桂駅を目指して進む。 右京区から分区して西京区が発足したのは、昭和51年(1976)10月のことだった。これは昭和44年(1969)より計画され、昭和5…

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徳大寺樋門の遺構

ブログを引越しました! → 徘徊の記憶│Haikai no kioku ・ 徳大寺樋門の遺構 徳大寺樋門の遺構(とくだいじひもんのいこう) 2009年12月20日訪問 徳大寺樋門の遺構 桂離宮の東側、すなわち桂川沿いの京都府道123号水垂上桂線を北に向かって歩いている時に見かけた遺構について記す。 桂離宮の美しい笹垣を左手に見ながら進み表門へ左に曲る直前、周囲をメッシュ状のフェンスに囲まれた敷…

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地蔵寺

ブログを引越しました! → 徘徊の記憶│Haikai no kioku ・ 地蔵寺 浄土宗 久遠山 地蔵寺(じぞうじ) 2009年12月20日訪問 地蔵寺 春日神社・下桂から、再び京都府道142号沓掛西大路五条線に出て、阪急嵐山線の桂駅を目指して進む。桂川街道を越えてすこし歩くと、右手側に地蔵寺が現れる。門前に立てられた京都市の駒札によると、浄土宗の寺院で、京都六地蔵巡りの霊場であることが分か…

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春日神社・下桂

ブログを引越しました! → 徘徊の記憶│Haikai no kioku ・ 春日神社・下桂 春日神社・下桂(かすがじんじゃ) 2009年12月20日訪問 春日神社 御霊神社の境内を出て安楽寺跡の碑を見ながら、再び住宅街に入って行くと桂離宮の通用口が現れる。離宮の南西に広がる休耕地を眺めながら、京都府道142号沓掛西大路五条線に向かう途中に小さな神社がある。鳥居に架けられた額から春日神社であるこ…

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安楽寺跡・下桂

ブログを引越しました! → 徘徊の記憶│Haikai no kioku ・ 安楽寺跡・下桂 浄土真宗 西本願寺派 安楽寺跡・下桂(あんらくじあと) 2009年12月20日訪問 安楽寺跡 下桂の御霊神社の南の鳥居を抜けると、住宅地の中に門扉で締め切られた空き地がある。ここに浄土真宗西本願寺派安楽寺跡の石碑が立つ。 安楽寺は京都市内にいくつかあるが、左京区鹿ケ谷の安楽寺が最も有名である。法然の承元…

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御霊神社・下桂

ブログを引越しました! → 徘徊の記憶│Haikai no kioku ・ 御霊神社・下桂 御霊神社・下桂(ごりょうじんじゃ) 2009年12月20日訪問 御霊神社 南の鳥居前 ここからは桂離宮の周囲を一周する間に出会った社寺を記す。最初は桂離宮の西北にあたる桂久方町の御霊神社である。境内はそれほど広くはないが、大きな立派な樹木が印象的な神社である。境内へと続く参道が2本有り、東と南の二箇所に…

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桂離宮

ブログを引越しました! → 徘徊の記憶│Haikai no kioku ・ 桂離宮 桂離宮(かつらりきゅう) 2009年12月20日訪問 桂離宮 桂大橋から眺め 桂離宮は桂大橋の西詰め、即ち桂駅から駅前商店街となっている京都府道139号桂停車場線を東に進み、三叉路で京都府道142号沓掛西大路五条線に合流した後は、北東に歩くこと200メートルで桂離宮の南端が現れる。今回は拝観許可を得ていないので…

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桂大橋

ブログを引越しました! → 徘徊の記憶│Haikai no kioku ・ 桂大橋 桂大橋(かつらおおはし) 2009年12月20日訪問 桂川左岸 日出前 烏丸駅から梅田行の阪急京都本線快速急行に乗車し、桂駅に到着したのは6時30分。本日は桂川の右岸の松尾から嵯峨野にかけて巡る。まだ日の出前のため、桂駅から徒歩で桂川に向かい桂大橋上で日の出を迎える予定である。 桂川は左京区広河原と南丹市美山町…

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明治天皇行幸所京都府尋常中学校阯

ブログを引越しました! → 徘徊の記憶│Haikai no kioku ・ 明治天皇行幸所京都府尋常中学校阯 明治天皇行幸所京都府尋常中学校阯(めいじてんのうぎょうこうしょきょうとふじんじょうちゅうがっこうあと) 2009年12月10日訪問 明治天皇行幸所京都府尋常中学校阯 九条邸から移築した門の左側に建つ 京都府立鴨沂高等学校の校門は河原町の九条邸から新英学校及女紅場、京都高等女学校を経てこ…

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京都府立鴨沂高等学校

ブログを引越しました! → 徘徊の記憶│Haikai no kioku ・ 京都府立鴨沂高等学校 京都府立鴨沂高等学校(きょうとふりつおうきんこうとうがっこう) 2009年12月10日訪問 京都府立鴨沂高等学校 九条邸から移築した門 京都府立鴨沂高等学校のグランドに巡らしたコンクリート塀の一角に掘り込むように作られた法成寺址の碑が建つ。時の最高権力者であった藤原道長が病を得て出家するために建立…

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法成寺址 その4

ブログを引越しました! → 徘徊の記憶│Haikai no kioku ・ 法成寺址 その4 法成寺址(ほうじょうじあと)その4 2009年12月10日訪問 法成寺址 法成寺址の碑 京都市の説明板 法成寺の成り立ちを考える上で、興福寺から始まる藤原氏の氏寺について、法成寺址、その2、その3 と3回にわたって書いてきた。ここでは法成寺自体について記してみる。 法成寺の位置は、「扶桑略記」所引の無…

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法成寺址 その3

ブログを引越しました! → 徘徊の記憶│Haikai no kioku ・ 法成寺址 その3 法成寺址(ほうじょうじあと)その3 2009年12月10日訪問 法成寺址 法成寺址の碑 既に興福寺、極楽寺そして法性寺から東福寺への変遷を見てきた。この項では法住寺と法興院そして平等院について書いてみる。 法性寺を造営した藤原忠平の長子実頼は法性寺の院家のような形で東北院を営み、弟の師輔は叡山横川に楞…

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法成寺址 その2

ブログを引越しました! → 徘徊の記憶│Haikai no kioku ・ 法成寺址 その2 法成寺址(ほうじょうじあと)その2 2009年12月10日訪問 法成寺址 現在の荒神口通 左鴨沂高校グランド 右校舎 藤原氏の氏寺についてもう少し続ける。  藤原忠平によって開創された法性寺への参籠が増えると、近くに御所あるいは山荘が造営されている。藤氏長者第19代の藤原師通の寛治の頃(1087~94…

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法成寺址

ブログを引越しました! → 徘徊の記憶│Haikai no kioku ・ 法成寺址 法成寺址(ほうじょうじあと) 2009年12月10日訪問 法成寺址 現在の荒神口通 左鴨沂高校グランド 右校舎 京都府立医科大学付属図書館の敷地の隅に建てられた立命館学園発祥地の碑の前を過ぎ、広小路通を西に進むと寺町通に突き当たる。ここより先は京都御苑となり、広小路に面して清和院御門が設けられている。京の通り…

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立命館学園発祥地

ブログを引越しました! → 徘徊の記憶│Haikai no kioku ・ 立命館学園発祥地 立命館学園発祥地(りつめいかんがくえんはっしょうのち) 2009年12月10日訪問 立命館学園発祥地 京都府立医科大学付属病院内にある療病院碑を後にして河原町通を渡ると、広小路通が始まる。この通りの北側に赤御影石を使用した立命館学園発祥地の碑が見える。廬山寺から南側の敷地には現在は、平成4年(1992…

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療病院碑

ブログを引越しました! → 徘徊の記憶│Haikai no kioku ・ 療病院碑 療病院碑(りょうびょういんひ) 2009年12月10日訪問 療病院碑 鴨川の西岸にあるみそそぎ川の取水口と思われる場所を確認した後、鴨川公園から京都府立医科大学付属病院の敷地を横断して河原町通に出る。その途中の旧附属図書館棟の前に療病院碑が建つ。 療病院については石田孝喜氏の「続・京都史跡辞典」(新人物往来社…

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みそそぎ川

ブログを引越しました! → 徘徊の記憶│Haikai no kioku ・ みそそぎ川 みそそぎ川(みそそぎがわ) 2009年12月10日訪問 みそそぎ川 取水口と京都府立医科大学付属病院の位置関係 この日は梁川星巌邸址の碑を見つけることなく、再び川端通丸太町の交差点から丸太町橋を渡り西岸に戻る。ここより鴨川沿いの遊歩道に下りる。鴨川の西岸をみそそぎ川の取水口まで歩く。 古くより鴨川は氾濫を繰…

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是枝柳右衛門の寓居

ブログを引越しました! → 徘徊の記憶│Haikai no kioku ・ 是枝柳右衛門の寓居 是枝柳右衛門の寓居(これえだりゅうえもんのぐうきょ) 2009年12月10日訪問 是枝柳右衛門の寓居 GoogleMapより  田中河内介の寓居 その4では臥龍窟の凡その場所を推定してみた。この臥龍窟には多くの有志が訪れたことが伝えられている。そして寺田屋事件の発生した夜、ここに薩摩の是枝柳右衛門が…

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田中河内介の寓居 その4

ブログを引越しました! → 徘徊の記憶│Haikai no kioku ・ 田中河内介の寓居 その4 田中河内介の寓居(たなかかわちのすけのぐうきょ)その4 2009年12月10日訪問 田中河内介の寓居 京都都市計畫圖より  田中河内介の寓居 その3では、田中河内介・左馬介父子、海賀宮門、千葉郁太郎、中村主計そして青水頼母の最期を記した。最後に川端通丸太町上ル東側にあった臥龍窟と維新後の田中河…

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田中河内介の寓居 その3

ブログを引越しました! → 徘徊の記憶│Haikai no kioku ・ 田中河内介の寓居 その3 田中河内介の寓居(たなかかわちのすけのぐうきょ)その3 2009年12月10日訪問 田中河内介の寓居 GoogleMapより  田中河内介の寓居 その2では、寺田屋事件発生後の薩摩藩の対応について田中河内介一党以外について記してみた。ここでは河内介等の最期を描いてみる。 寺田屋事件に関わった薩…

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田中河内介の寓居 その2

ブログを引越しました! → 徘徊の記憶│Haikai no kioku ・ 田中河内介の寓居 その2 田中河内介の寓居(たなかかわちのすけのぐうきょ)その2 2009年12月10日訪問 田中河内介の寓居 豊田小八郎著「田中河内介伝」より  田中河内介の寓居では、安政の大獄が始まるまでの河内介の暮らしぶりについて記してきた。特に梁川星巌、梅田雲浜そして頼三樹三郎に対する人物評を読むと、「性、狷介…

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田中河内介の寓居

ブログを引越しました! → 徘徊の記憶│Haikai no kioku ・ 田中河内介の寓居 田中河内介の寓居(たなかかわちのすけのぐうきょ) 2009年12月10日訪問 田中河内介の寓居 GoogleMapより  石碑や駒札もないため、その正確な場所は特定できないものの、川端通丸太町上ルには梁川星巌の鴨斤小隠とともに田中河内介の寓居・臥龍窟があった。石田孝喜氏の著書「幕末京都史跡大事典」(新…

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梁川星巌邸址 その2

ブログを引越しました! → 徘徊の記憶│Haikai no kioku ・ 梁川星巌邸址 その2 梁川星巌邸址(やながわせいがんていあと)その2 2009年12月10日訪問 梁川星巌邸址 2011年6月18日撮影 安政4年(1857)10月、梁川星巌は8年暮らした川端丸太町から、東三本木の貸家に居を移し鴨沂水荘と称している。この項では若干脱線するが、三本木に移り住んだ後の星巌と紅蘭、そして鴨沂…

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梁川星巌邸址

ブログを引越しました! → 徘徊の記憶│Haikai no kioku ・ 梁川星巌邸址 梁川星巌邸址(やながわせいがんていあと) 2009年12月10日訪問 梁川星巌邸址 立命館草創の地の碑から山紫水明処の前を通り丸太町通に戻る。そして丸太町橋を渡り左京区に入る。昭和47年(1972)から始まった三条・出町柳間の地下化工事は、平成元年(1989)に完成し現在では京阪鴨東線として営業している。…

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立命館草創の地

ブログを引越しました! → 徘徊の記憶│Haikai no kioku ・ 立命館草創の地 立命館草創の地(りつめいかんそうそうのち) 2009年12月10日訪問 立命館草創の地 頼山陽書斎山紫水明処の道標に従い丸太町通より新三本木町に入り込んだ。現在では、どこにでも見かけることの出来る普通の住宅街だが、開町からの歴史を眺めると実に奥深い町であったことが分かる。頼山陽書斎山紫水明処では山紫水明…

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吉田屋・清輝楼・大和屋 その2

ブログを引越しました! → 徘徊の記憶│Haikai no kioku ・ 吉田屋・清輝楼・大和屋 その2 吉田屋・清輝楼・大和屋(よしだや・せいぎろう・やまとや)その2 2009年12月10日訪問 吉田屋・清輝楼・大和屋 ついに纏めきれずに、吉田屋・清輝楼・大和屋の紙数が尽きてしまった。nakaさんのブログ「よっぱ、酔っぱ」に掲載されている「吉田屋・清輝楼・大和屋」には、清輝楼、吉田屋、信楽…

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吉田屋・清輝楼・大和屋

ブログを引越しました! → 徘徊の記憶│Haikai no kioku ・ 吉田屋・清輝楼・大和屋 吉田屋・清輝楼・大和屋(よしだや・せいぎろう・やまとや) 2009年12月10日訪問 吉田屋・清輝楼・大和屋  頼山陽の書斎・山紫水明処の石碑の前から、さらに東三本木通を北に上ると、駐車場の一角にまだ新しい立命館草創の地と記された石碑が建つ。立命館の前身となる京都法政学校が設立したことを示す石碑…

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山紫水明処 その5

ブログを引越しました! → 徘徊の記憶│Haikai no kioku ・ 山紫水明処 その5 山紫水明処(さんしすいめいしょ)その5 2009年12月10日訪問 山紫水明処6 東三本木丸太町 (水西荘)   文政5年(1822)11月 ~ 天保3年(1832)9月                     9年10ヶ月  頼山陽没後、3人の子供を連れた梨影は天保5年(1834)10月、福井藩医…

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山紫水明処 その4

ブログを引越しました! → 徘徊の記憶│Haikai no kioku ・ 山紫水明処 その4 山紫水明処(さんしすいめいしょ)その4 2009年12月10日訪問 山紫水明処6 東三本木丸太町 (水西荘)   文政5年(1822)11月 ~ 天保3年(1832)9月                     9年10ヶ月  山陽は両替町押小路の家(薔薇園)に入居した年から早くも転居を考え、新しい…

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山紫水明処 その3

ブログを引越しました! → 徘徊の記憶│Haikai no kioku ・ 山紫水明処 その3  山紫水明処(さんしすいめいしょ)その3 2009年12月10日訪問 山紫水明処 木崎好尚の「百年記念 頼山陽先生 増補版」(頼山陽先生遺蹟顕彰会 1933年刊)の年譜に従うと、文化8年(1811)の入京以来下記のように転居を繰り返していることが分かる。文化8年 (1811) 閏2月 入京 新町通丸…

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山紫水明処 その2

ブログを引越しました! → 徘徊の記憶│Haikai no kioku ・ 山紫水明処 その2 山紫水明処(さんしすいめいしょ)その2 2009年12月10日訪問 山紫水明処 頼山陽山紫水明処 山紫水明処では、頼家の系譜と頼山陽の生涯について記した。ここでは頼家の系譜に就いてまとめてみる。なお下記の略系は木崎好尚の「百年記念 頼山陽先生」(頼山陽先生遺蹟顕彰会 1933年刊)による。頼家 初代…

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山紫水明処

ブログを引越しました! → 徘徊の記憶│Haikai no kioku ・ 山紫水明処 山紫水明処(さんしすいめいしょ) 2009年12月10日訪問 山紫水明処 東三本木通に面した路地 頼山陽書斎山紫水明処の道標に従い、丸太町通より北に上ると直ぐに道は左右に分かれる。左の道は西三本木通、そして右は東三本木通と呼ばれている。新三本木の町並み その2でも書いたように、新三本木は南北に走る東三本木通…

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新三本木の町並み その2

ブログを引越しました! → 徘徊の記憶│Haikai no kioku ・ 新三本木の町並み その2 新三本木の町並み(しんさんぼんぎのまちなみ)その2 2009年12月10日訪問 新三本木の町並み 右手に入口が見える 新三本木の町並みでは、宮地拡張に伴い三本木町が移転を余儀なくされたこと、そして鴨川の西岸に新三本木町を開町したこと、さらに遊里化して行く過程と頼山陽の山紫水明処を中心としたサロ…

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新三本木の町並み

ブログを引越しました! → 徘徊の記憶│Haikai no kioku ・ 新三本木の町並み 新三本木の町並み(しんさんぼんぎのまちなみ) 2009年12月10日訪問 新三本木の町並み 細い東三本木通 「日本歴史地名大系第27巻 京都市の地名」(平凡社 初版第4刷1993年刊)によると、元禄4年(1691)京大絵図には「あきやしき」「三人衆」と記され、現在の三本木町には町名らしきものはなかった…

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頼山陽書斎山紫水明処

ブログを引越しました! → 徘徊の記憶│Haikai no kioku ・ 頼山陽書斎山紫水明処 頼山陽書斎山紫水明処(らいさんようしょさいさんしすいめいしょ) 2009年12月10日訪問 頼山陽書斎山紫水明処 丸太町橋の西南橋詰には、明治5年(1872)に開設された新英学校及女紅場が、明治7年(1874)に英女学校及女紅場、明治9年(1876)に京都女学校及女紅場、明治7年(1882)に京都…

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女紅場址 その2

ブログを引越しました! → 徘徊の記憶│Haikai no kioku ・ 女紅場址 その2 女紅場址(にょこうばあと)その2 2009年12月10日訪問 女紅場址 丸太町橋の西南詰に建てられた女紅場について調べてみる。石碑の北面には、女紅場址の説明として「本邦高等女学校之濫觴」と記されている。そして西側に「女紅場ハ京都府立京都第一高等女学校創立当初ノ名称ニシテ明治五年四月十四日旧九条家河原殿…

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女紅場址

ブログを引越しました! → 徘徊の記憶│Haikai no kioku ・ 女紅場址 女紅場址(にょこうばあと) 2009年12月10日訪問 女紅場址 旧京都中央電話局上分局の北東角 旧京都中央電話局上分局の北東角、鴨川に架かる丸太町橋の南西橋詰には女紅場址の碑が建つ。 女紅場の説明に入る前に明治初年の教育事情について簡単に触れておく。京都では明治2年(1869)1月、前年に決めた上京45下京…

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旧京都中央電話局上分局

ブログを引越しました! → 徘徊の記憶│Haikai no kioku ・ 旧京都中央電話局上分局 旧京都中央電話局上分局(きゅうきょうとでんわきょくかみぶんきょく) 2009年12月10日訪問 旧京都中央電話局上分局 行願寺の山門を出て、下御霊神社そして横井小楠殉節地の碑の前を通り、再び丸太町通に戻る。鴨川に架かる丸太町橋を目指し東に進む。河原町通、土手町通を越えると右手に吉田鉄郎設計の旧京…

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行願寺

ブログを引越しました! → 徘徊の記憶│Haikai no kioku ・ 行願寺 天台宗 霊麀山 行願寺(ぎょうがんじ) 2009年12月10日訪問 行願寺 下御霊神社の鳥居を出て再び寺町通を下る。竹屋町通が寺町通に突き当たる場所に西面して行願寺がある。革堂ともよばれる天台宗の寺院で、山号は霊麀山。西国三十三所観音霊場第19番札所で、清水寺、六波羅蜜寺、頂法寺(六…

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下御霊神社

ブログを引越しました! → 徘徊の記憶│Haikai no kioku ・ 下御霊神社 下御霊神社(しもごりょうじんじゃ) 2009年12月10日訪問 下御霊神社 横井小楠殉節地より、寺町通を南に30メートルほど下ると下御霊神社の鳥居が現れる。 下御霊神社は、「山州名跡志 坤」巻之二十二(「新修 京都叢書 第19巻 山州名跡志 坤」(光彩社 1968年刊))に以下のように記されている。 在リ二…

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横井小楠殉節地 その7

ブログを引越しました! → 徘徊の記憶│Haikai no kioku ・ 横井小楠殉節地 その7 横井小楠殉節地(よこいしょうなんじゅんせつのち)その7 2009年12月10日訪問 横井小楠殉節地 この項では小楠暗殺以降のことをまとめてみる。  新政府の重臣に対する襲撃事件の実行犯を即刻逮捕することは、朝威と政体の上から必要不可欠なことであった。事件発生後直ぐに洛中には軍務官と京都府から捕吏…

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横井小楠殉節地 その6

ブログを引越しました! → 徘徊の記憶│Haikai no kioku ・ 横井小楠殉節地 その6 横井小楠殉節地(よこいしょうなんじゅんせつのち)その6 2009年12月10日訪問 横井小楠殉節地 横井小楠殉節地 その5では同世代人である佐久間象山との比較の中から、横井小楠の思想の柔軟さと革新性を見い出した。いよいよこの項では小楠暗殺がどのように行われたかについて記してみる。 慶応3年(18…

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横井小楠殉節地 その5

ブログを引越しました! → 徘徊の記憶│Haikai no kioku ・ 横井小楠殉節地 その5 横井小楠殉節地(よこいしょうなんじゅんせつのち)その5 2009年12月10日訪問 横井小楠殉節地  横井小楠殉節地から横井小楠殉節地 その4までを使い、横井小楠の思想的な展開について、開国論を中心に書いてみた。最初に比較したように佐久間象山と横井小楠について再び考えてみる。象山は文化8年(18…

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横井小楠殉節地 その4

ブログを引越しました! → 徘徊の記憶│Haikai no kioku ・ 横井小楠殉節地 その4 横井小楠殉節地(よこいしょうなんじゅんせつのち)その4 2009年12月10日訪問 横井小楠殉節地  横井小楠殉節地 その3では横井小楠の年譜に従い、誕生から時習館改革そして肥後実学党の分裂までを書いてきた。この項では小楠の越前藩招聘から明治元年(1868)までを記してみたい。 万延元年(186…

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横井小楠殉節地 その3

ブログを引越しました! → 徘徊の記憶│Haikai no kioku ・ 横井小楠殉節地 その3 横井小楠殉節地(よこいしょうなんじゅんせつのち)その3 2009年12月10日訪問 横井小楠殉節地 横井小楠殉節地と横井小楠殉節地 その2では横井小楠の年譜に触れずに、いきなり対外政策について書き始めた。この項では小楠の生涯を追い、嘉永6年(1853)の「文武一途の説」や「夷虜応接大意」以降の思…

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横井小楠殉節地 その2

ブログを引越しました! → 徘徊の記憶│Haikai no kioku ・ 横井小楠殉節地 その2 横井小楠殉節地(よこいしょうなんじゅんせつのち)その2 2009年12月10日訪問 横井小楠殉節地  横井小楠殉節地では碑の建立の経緯と、横井小楠が嘉永6年(1853)に建言した「文武一途の説」を通じて、小楠の思想がどのようなものであったかを記してみた。小楠の外交に対する考え方が少し長くなってき…

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横井小楠殉節地

ブログを引越しました! → 徘徊の記憶│Haikai no kioku ・ 横井小楠殉節地 横井小楠殉節地(よこいしょうなんじゅんせつのち) 2009年12月10日訪問 横井小楠殉節地 この日は朝の散歩程度しか時間が取れなかったので、京都御所の東側のごく限られた範囲のみを歩いてみた。いずれ京都御苑内については時間をかけて見て行きたいと考えている。 京都御苑の南側を東西に走る丸太町通から寺町通を…

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維新殉難志士墓

ブログを引越しました! → 徘徊の記憶│Haikai no kioku ・ 維新殉難志士墓 維新殉難志士墓(いしんじゅんなんししのはか) 2009年12月9日訪問 維新殉難志士墓 元治元年(1864)7月19日、樫原の勤王家殉難地で、楳本僊之介、相良頼元そして相良新八郎と小浜藩兵との間で交戦があり、三士が無残にも斬り殺されたこと。そして小浜藩撤退後、村人によって三人の遺骸は村外れの丘に葬られた…

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