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zoom RSS 薩摩藩邸跡(二本松) その3

<<   作成日時 : 2019/05/19 19:11   >>

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薩摩藩邸跡(二本松)(さつまはんていあと)その3 2010年1月17日訪問

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薩摩藩邸跡


 薩摩藩邸跡(二本松) その2では薩摩藩の岡崎藩邸と小松原調練場について見て来た。軍事力を京都の地に置くためには、藩兵が寄宿する場所の他に軍事訓練を行える場所の確保が重要となる。そして武器の主流が刀や槍から大砲と小銃へ移った事により、屋敷内の剣術道場ではなく広大な敷地を持つ調練場が要求されるようになった。もし西洋式の軍事訓練場の準備ができなかったならば、甲子戦争においても開戦に踏み切ることができなかったのではないかとも思う。それ位、当時の薩摩藩にとっても2つの調練場は重要な施設であったと考える。
 恐らく薩摩藩は文久3年(1863)頃からこの調練場の調達に入り、元治元年(1864)4月頃には岡崎に52210坪の敷地を手に入れていたようだ。小松原調練場の方は少し遅れ慶応2年(1866)4月に整備されたと考えられる。このように御所にも近い岡崎に調練場を入手していたにも関わらず、第一次長州戦争後に小松原に新たな敷地を求めたのにどのような目的があったのか。岡崎より小松原の敷地面積が広いならば理解できるが、小松原の規模は岡崎の三分の一程度の16000坪と云われている。岡崎では不足するものがあったため、わざわざ京の中心地から離れた小松原に調練場を開設したと考えるべきだろうか。小松原の方が火器訓練や弾薬を貯蔵する上で適していたならば、その開設の理由を理解できる。

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相国寺 林光院 2016年3月5日撮影


 さてこの項では二本松の薩摩藩邸の成り立ちについて書いていく。薩摩藩は錦小路通東洞院東入ル南側に錦小路藩邸を所有していた。これは現在の大丸京都店の北西角にあたる。この錦小路の薩摩藩邸がどのような規模であったかについて、河島一仁氏が「近代京都における大学の歴史地理的研究 ―藩邸、公家屋敷ならびに寺社地の転用を中心―」で「京都御役所向大概覚書」を用いているので、これを参照する。「錦小路通東 洞院江入町 、表口三十間 、裏行四拾六間 。右 地続東洞院四條上ル町ニ而 表口十九間 裏行拾五間四尺所買足。買得大橋金左衛門・藤本彦右衛門両人名代」は間口33間(59.4m)奥行46間(82.8m)の敷地とその隣の間口19間(34.2m)奥行(27m)ということである。合わせて5800m2強であるので1800坪弱となる。「京都御役所向大概覚書」は享保2年(1717)に纏められた書であるので、江戸時代中期にはこの規模の施設を薩摩藩は入手していた。
 久光は、小松帯刀、中山尚之助、大久保一蔵(利通)等士卒1000余人を従え参府の途に就く。前年の文久元年(1861)10月には既に久光体制が確立しているので、恐らくこの頃に率兵上京を決断したと考えられる。凡そ半年をかけて準備工作を行ったのであろう。勿論、朝廷と京都守護するための上京であったが、それ以上に朝廷と幕府に先君の遺志に従い改革を求めるということが久光の最大の目的であった。
 4月10日に大坂、13日には伏見に入っている。久光は直接京都に入ることなく伏見の薩摩藩邸で宿泊した後、同16日早朝に入京、挨拶と共に入京の主旨を説明するため京都所司代・酒井邸を赴いている。これは嘉永4年(1851)4月23日、兄の斉彬が京都に立ち寄った際の事例を踏襲している。酒井が病気を理由に面談を断ったので、久光は近衛邸を訪れ自らの国事建言を開陳、近衛忠房は即日参内、久光の建言を奏上している。そして久光に対して滞京して浪士鎮撫の任に就くようにとの命が下っている。これを以って久光は錦小路の藩邸に入ったとされている。なお当日の大久保の日記(「日本史籍協会叢書26 大久保日記1」(東京大学出版会 1927年発行 1983年覆刻))によれば錦小路の藩邸に立ち寄った後に近衛邸を訪問したことになっている。4月21日、伏見の寺田屋で薩摩藩士による上意討ち事件が生じる。
 この久光が率いた1000人の兵士を錦小路藩邸だけで収容できたかを確認することはできなかった。しかし町田剛士氏の「禁門の変前後の薩摩藩による京都警衛について―串木野郷士野元良図『上京日記』から―」によれば、錦小路藩邸が狭隘であったため第1回目の上京のあった文久2年(1861)冬には新たな藩邸建設の検討に入っていたらしい。

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相国寺 林光院 2016年3月5日撮影

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相国寺 薩摩藩戦死者墓 林光院の墓地内にある


 最初に候補地となったのは相国寺であった。「相国寺研究 四 幕末動乱の京都と相国寺」(相国寺教化活動委員会 2010年刊)によれば、相国寺に宛てた薩摩藩士・伊勢勘兵衛の書簡には下記のような依頼を行っている。

陽明家等え参殿之節、当時御境内林光院え控所相頼来候得共、間狭ニ有之、雨天等之節致混雑候付、御本寺末廻りニ宜候間、控所え兼而御頼申上置度御座候


 薩摩藩は相国寺を候補地としたのは御所の北に邸宅を持っていた近衛家に近接しているという理由であったようだ。島津家にとって近衛家は縁家であり、朝廷での政治活動を行っていく上での受け入れ窓口でもある。その近衛家に近接する場所に藩の拠点を置きたいと考えたようだ。
 薩摩藩と林光院との関係は、鹿児島県志布志の大慈寺の住持・柏州が執り成したとする話がある。「維新の史蹟」(星野書店 1939年刊)にも「柏州和尚と林光院」と題する章がある。これによれば、柏州和尚が本山である妙心寺の法要のために上京する際、島津久光から藩意を上聞に入れ奉るように命ぜられたとある。法要を済ませた柏州和尚は、相国寺の塔頭・林光院の住持・梵圭を訪ね、薩摩藩あげて朝臣となり忠節を尽くすという藩意を披露し周旋を依頼した。梵圭は柏州に中山忠能・大原重徳の両卿を引き合わせ、これにより薩摩藩に勅命が下り久光の上京が行われたとしている。何とも良く出来たエピソードである。林光院は関が原の戦いに参戦した島津義弘に関係する人物が入寺した塔頭であり、柏州和尚の上京以前から薩摩藩は林光院と親密な関係にあったと思われる。

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相国寺 養源院 2016年3月5日撮影
鳥羽伏見の戦いの際、薩摩藩の臨時病院が設けられた


 文久2年(1862)4月16日に京に入った島津久光は度々近衛家あるいはその他の公家邸に参殿し、その際林光院が控所として用いられたと考えられる。翌5月22日勅使大原重徳が京を発ち江戸へ向かうと、久光も兵を率いてこれに従った。勅使が江戸に到着したのは6月7日で久光は高輪藩邸に入っている。同月10日、勅使は江戸城に入り将軍・徳川家茂に勅旨を伝える。この後、2ヶ月にわたり朝廷と幕府の交渉が続き、最終的には幕政改革を実現させる。そして8月21日、勅使に先立ち久光は京に戻るため江戸を発つが、同日生麦村で薩摩藩士が英国人を殺傷するという生麦事件を引き起こす。勅使が帰京したのは閏8月6日のことであった。翌7日、久光も入京し直に近衛邸に参殿している。そして9日に参内し勅使補佐の労を賞せられ御剣一口を賜る。同23日、久光は退京し伏見、大阪を経て帰国する。このようにして東下向の期間を除き、ほぼ2ヶ月強の間久光は京に留まっていたこととなる。
 久光の帰国後の文久2年(1862)9月、薩摩藩は相国寺との間に借用地証状を交わしている。「相国寺史料」(思文閣出版 1984年刊)に所収されている「相国寺史稿 38」の文久2年9月の条に以下のように記されている。

此月 薩摩藩嶋津久光邸ヲ起スニ因リ、鹿苑院及瑞春庵所属藪地、其他接壤宅地計六千九百四拾六坪九分強ヲ貸与ス、本件ニ関シ林光院梵圭与リテ力アリ


 以上の説明に続いて薩邸貸地事件諸文書という名称で借用地証状が付けられている。これによると、鹿苑院薮と瑞春院薮の2725坪余と相国寺の境内の大門町、鹿苑院前東西両町、石橋町、九軒町の5町4221坪9分、あわせて6946坪9分余の敷地を借りている。なお大門町から九軒町の5町は、この薩摩藩邸建設の際に相国寺門前町と石橋町の2町に分かれ、明治2年(1869)に現在の相国寺門前町に統合されている。
 薩摩藩は鹿苑院薮と瑞春院薮を1年間米54石、その他の5町も年間6石で文久2年(1862)から20年間借りている。年60石は格安であるように思えるが、これまでも相国寺のためにかなりに金員を支出してきたこともあり、相国寺は薩摩藩の申し出を受け容れることとなった。交渉の窓口として薩摩屋・大橋小兵衛と越後屋・鈴木裕次郎の用達が借地名代として設け、薩摩藩屋敷造営掛役の内田仲之助、横田鹿一郎、村上下総そして伊勢勘兵衛が証状に押印している。

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相国寺 養源院 2016年3月5日撮影


 この証状とともに薩摩藩屋敷地図が相国寺文書に残されている。右手が北になる地図で、最も右に瑞春雲泉道が描かれている。これは現在の烏丸通から瑞春院の南を経て伽藍に達する道、すなわち上立売通の延長と一致するものと思われる。この瑞春雲泉道の左側に羪(養)源軒と鹿苑院が伽藍に面して並ぶ。2つの塔頭の上、すなわち西側が薩摩藩に貸し出された瑞春庵藪と鹿苑院藪である。養源院は鳥羽伏見の戦いの際に臨時病院として使用されていることからも、2つの塔頭は薩摩藩二本松邸に組み込まれることはなかった。鹿苑院を過ぎて勅使門と総門の左側(南)部分が大門町、鹿苑院前東西両町、石橋町、九軒町の5町にあたる。この部分には相国寺の堂宇や塔頭はなく、相国寺が借地権を持つ宅地であったようだ。この地図の一番左(南)は二間余の通り(石橋町通)を描いて終わっているが、さらに左側には冷泉家などの公家屋敷が数軒、今出川通に面して並んでいる。
 借用地の北と南側は道路に面しているため直線であったが、西側は烏丸通に面していない部分もあったのか凹凸のある敷地境界となっている。また東側の敷地境界は養源軒と鹿苑院に接するため欠込みが生じている。つまり薩摩藩が相国寺から借りたのは、今出川通に面する公家町の裏側を通る石橋町通の北側から瑞春雲泉道までの間のL字型をした敷地であった。この敷地に建設した藩邸の指図は鹿児島県歴史資料センター黎明館に所蔵されている。河島一仁氏の「近代京都における大学の歴史地理的研究 ―藩邸、公家屋敷ならびに寺社地の転用を中心に―」によれば、この指図は弐百分壱図であり、烏丸通が125間5尺余の凡そ225メートル、石橋町通が148間四尺余の凡そ266メートルであった。北辺の瑞春雲泉道が84間20尺余の凡そ151メートル、東辺の大門町通が31間の凡そ55メートル。つまり南北225メートル、東西266メートルの方形の敷地から南北170メートル×東西115メートルの四角形を除いたL字型の敷地に建つ建物の図面となっている。敷地面積は40,300m2なので12,193坪となる。これは相国寺から借りたとされる6946坪9分余より遙かに大きな面積となる。相国寺蔵の薩摩藩屋敷地図では、鹿苑院門前東町の木戸から同西町の木戸までが148間4尺5寸とあるので、これが黎明館蔵の指図の石橋町通面の長さに一致する。指図の烏丸通面の125間5尺も、相国寺蔵の天明8年大火以前の寺域図と比較すると近い数字になりそうだ。

 面積の大きな相違は指図の北辺84間20尺にあるようだ。薩摩藩屋敷地図では、瑞春庵藪が44間3尺5寸で鹿苑院の奥行(東西幅)が42間5尺8寸で合わせると87間余と北辺の長さに近い数字となる。このことから養源院と鹿苑院の2つの塔頭も敷地内に取り込んだ図面となっていることが分かる。先にも触れたように養源院は鳥羽伏見の戦いの際に臨時病院として使用されたのであれば、黎明館蔵の指図のように藩邸を建設することはできなかったと思われる。また相国寺蔵の薩摩藩屋敷地図と黎明館蔵の指図の間の矛盾する点として、敷地南西角と西面の凹部分の土地を相国寺以外から借りることができたのかということも気になる。どのようにして整形なL字型敷地にしたかを確認しなければならないだろう。「相国寺研究 四 幕末動乱の京都と相国寺」によれば、そもそも黎明館蔵の指図は錦小路藩邸の図面として整理されていたらしい。確かに烏丸通と石橋町通という記述から二本松藩邸を描いた図面であることは確かである。しかしこの指図が竣工図であるか、あるいは計画段階の試案であったかを明らかにする必要があるだろう。
 相国寺蔵の薩摩藩屋敷地図を見ていて、もう一点気が付いたことがある。北西の烏丸通面の長さが「竹垣ニテ拾六間六尺」とある。この長さが瑞春雲泉道までの長さか、あるいはその途中までの長さなのかが分からない。瑞春庵藪の右手に墓と書かれた部分がある。この部分も薩摩藩に貸し出したのだろうか?つまり6946坪9分余に含まれていたのかということである。このあたりも指図と薩摩藩屋敷地図による面積相違の元になっているような気がする。

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相国寺 普広院 2016年3月5日撮影
かつてこの地には鹿苑院があった


 鹿児島県歴史資料センター黎明館に所蔵されている薩摩藩二本松藩邸の指図の通り建設されたかについては疑問が残るが、当時薩摩藩が藩邸に求めていたものは表現されているように思う。最初に気が付くことは、敷地の四周に堀が巡らされていることである。そして堀の内側には高塀と藩兵が寄宿するための長屋が巡らされている。これらは外部からの攻撃から藩邸を守るための装置に他ならない。北辺には高塀と3棟の土蔵が建てられている。この北辺は上立売通を延長した瑞春雲泉道に面せず、恐らく相国寺の墓地に接していたと考える。烏丸通に面する西面の北側には土蔵が建てられたが、その大部分は長屋が占めている。やはり数多くの藩兵を寄宿するためにはこのような形態をとるのが効率的であったのであろう。この長屋には六畳、八畳など部屋の大きさが記されている。凡そ70畳が1単位となり、西面だけでも7から9単位くらい建設されている。石橋町通に面する南面も全て長屋が建てられているので、西面より収容量が増えている。ざっくり1人1畳として、この西面及び南面で1200〜1500人が収容できたのではないだろうか。この他長屋と思われる建物が敷地内に複数散在しているので、二本松藩邸は2000人近い藩士を収容できたのではないか。
 この藩邸の表門は大門町通に面して作られている。この門を出て南に下ればすぐに近衛邸に達する。現在の道路事情から考えると烏丸通に面して表門を作るべきだが、当時の烏丸通の幅員も狭く上立売通で突き当たっていたこと、さらに近衛邸へのアクセスを考えると考えるならば、相国寺総門への参道を使用する方が適切である。
 この他、石橋町通に面して2か所、烏丸通にも2ヶ所に門が設けられている。これ等は表門を使用しないで藩士、藩兵を出し入れするためのものと思われる。2000人近い藩兵を表門だけを使用して出撃させるのには時間を要するからである。
 L字型の藩邸敷地の中央部分には40ほどの部屋を持つ建物が建設されている。この建物を防御するように高塀を巡らしている。この建物の最も奥には御座之間とあるので国父あるいは藩主が使用することと想定しているのであろう。この御座之間は二重の高塀で囲われている。
 薩摩藩二本松藩邸の指図を見ると、空き地となっている部分が多いことに気が付く。凡そ7万坪の敷地に2000名近い藩兵を長期間駐留させるためにはこのような空き地部分が必要であったのであろう。衛生上の観点から長屋同士の隣棟間隔を確保し風通しを良くする必要がある。また藩邸内での調練ものこの空き地を使用して行われたのであろう。

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相国寺 普広院 2016年3月5日撮影


 文久2年(1862)9月に相国寺と借地契約を結んだ薩摩藩は、かなり普請を急いでいたと思われる。島津久光が勅使東下の目的を達成し帰京したのは同年閏8月6日のことであった。そして同23日には退京し伏見、大阪を経て帰国している。新藩邸建設は久光の江戸からの帰京に合わせて始まったともいえる。笹部昌利氏は「相国寺研究 四 幕末動乱の京都と相国寺」で、薩摩藩二本松藩邸は久光の2度目の上京、すなわち文久3年(1863)3月14日には、完成はしていなかったものの、かなり出来上がっていたと記している。同じく「薩摩藩二本松屋敷の政治的意義―島津家の「国事」と京の拠点―」(京都産業大学日本文化研究所紀要 2017年刊)では、宿舎として東山の知恩院へ数日滞在した後に帰国したのには、二本松藩邸が未だ政治拠点になり得てなかった点にあるとも推察している。実際、この2度目の上京は滞京わずか5日間で終わることとなる。尊攘急進派の専横が横行する政局に失望したことによるものだが、たとえ二本松藩邸が既に使える状態にあったとしても政情の大きな変化がそれを許さなかったと思う。
 文久3年10月3日、3度目の上京を果たす。久光の建議により文久4年(1864)正月より参預会議が開かれ、長州藩の処分問題、横浜鎖港問題が話し合われる。しかし何の成果も出せないまま2月16日、参預会議体制は突如崩壊する。各参預が帰国する中、久光も3月14日に参預を辞任し小松帯刀や西郷隆盛らに後事を託して4月18日に退京する。この久光3度目の上京は失意に満ちたものとなったが、薩摩藩二本松藩邸は完成し久光の京における拠点になっていたと思われる。

 薩摩藩二本松藩邸が最も力を発揮したのは元治元年(1864)7月の甲子戦争と慶応4年(1868)正月の鳥羽伏見の戦いであろう。いずれも京都に駐屯した薩摩藩兵が主力となったことで勝利を収めた戦闘である。この戦いにおいて二本松藩邸が果たした役割と明治維新後の旧藩邸の処分の過程については長くなりそうなので次回の訪問の際に記すこととする。

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相国寺 養源院 2016年3月5日撮影



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