南千住 回向院 その6

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南千住 回向院(みなみせんじゅ えこういん)その6 2018年8月12日訪問
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南千住 回向院 鴨崖墓 C-20

頼三樹三郎の墓

 南千住 回向院 その5では、安政の大獄の捕縛の始まりから安政6年(1859)10月6日の三条実万の病死までを書いてきた。ここでは安政6年10月7日の処刑以降を書いてみる。
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南千住 回向院 飯泉喜内之遺墳 A- 7
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南千住 回向院 藜園墓 B-14

橋本左内の墓

 安政の大獄の1回目の処罰は、主に水戸藩に関するもので安政6年8月27日に執行されている。そして2回目の処罰が安政6年10月7日に行われた。
 三条家家士の飯泉喜内は安政5年9月17日に江戸で捕えられ、安政6年10月7日に伝馬町牢獄で斬首されている。喜内は江戸に於いて京の有志と情報を交換することが多かったため、彼の家宅から多くの書簡等が押収されている。そのため安政の大獄は最初、飯泉喜内初筆一件と呼ばれていた。
 福井藩士の橋本左内は条約勅許と将軍継嗣問題について京都での裏面工作を行ってきた。譜代でもない福井藩が幕府の政策決定に関与したことが処罰の理由である。安政5年10月22日、幕吏が福井藩江戸藩邸内の捜索を行い、翌23日に江戸町奉行の石谷因幡守からの召喚、庁舎内での訊問を受け、同藩の滝勘蔵方に預けられる。左内も同じく10月7日に伝馬町牢獄で斬首となっている。
 頼山陽の子である頼三樹三郎が京で捕らわれたのは安政5年11月30日である。その直後の12月5日には梅田雲浜等とともに江戸に送られ、福山藩に預けられる。そして喜内、左内と同じく10月7日に伝馬町牢獄で斬首となる。
 この2回目の処罰は上記の斬首3名の他、大覚寺家士の六物空満に遠島、青蓮院宮家士の伊丹蔵人・三条家諸大夫の丹羽正庸と森寺常邦・鷹司家家士の三国大学・一条家諸大夫の入江則賢の5名に中追放、三条家諸大夫の森寺常安・御蔵少舎人の山科正恒・久我家諸大夫の春日潜庵の3名に永押込、青蓮院宮家士の山田勘解由・有栖川宮家士の飯田忠彦・鷹司家諸大夫の高橋俊璹・三条家家士の富田織部・下田奉行手付出役の大沼又三郎・飯泉喜内の養子の春堂の6名に押込、絵師宇喜多一蕙とその子の松庵の2名に所払、一条家諸大夫の若松永福には洛中洛外構江戸払が言い渡されている。
 旗本阿部政成の家臣で、藤田東湖や安島帯刀らの水戸藩士と交わって勤皇活動に従事してきた勝野正道が安政6年10月19日に潜伏中の水戸郊外で病死している。

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南千住 回向院 松陰二十一回猛士墓 C-19

吉田松陰の墓

 そして3回目となる最後の処罰は安政6年10月27日に執行される。
 吉田松陰のみが伝馬町牢獄で斬首となり、日下部伊三次の子の裕之進・勝野正道の子の森之助の2名に遠島、宇和島藩士の吉見長左衛門に重追放、儒者の藤森恭助・農民 黒沢新助の妻登幾の2名に中追放、元高松藩士の長谷川宗右衛門・その子の速水・姫路藩士の菅野狷介・土浦藩士の大久保要・鹿児島藩士の大山綱良・亀岡藩士の奥平小太郎等を国許永押込、水戸藩士の大竹儀兵衛・岡部豊常家士の筧承三・勝野正道の子の保三郎・同妻のちか・同娘のゆう等を押込に、そして処士世古恪太郎を江戸構紀伊領所払に処している。

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南千住 回向院 小林良典墓 C-22
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南千住 回向院 森六物之遺墳 C-31
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南千住 回向院 日下部祐之進遺墳 A- 4
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楢崎将作墓 西林寺 2010年12月19日撮影
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楢崎将作墓 西林寺 2010年12月19日撮影

 このように大獄の全ての刑が安政6年10月27日に決したが、殉難はまだ続く。
 所払中の画家・宇喜多一蕙が11月14日に病死している。鷹司家諸大夫の小林良典も人吉藩永預けに決したが、出発前の11月19日に獄死している。同じく大覚寺門跡家士の六物空満も出発前の11月に獄死。永押込刑となった土浦藩士の大久保要は、12月13日に土浦の獄舎で獄死している。日下部伊三治の子で遠島となった日下部裕之進も判決後に罹病し万延元年(1860)閏3月3日に獄死する。
 丹波亀山藩士の奥平小太郎は昌平黌に学び、水戸の有志との交友が多かった。万延元年閏3月20日に藩の獄舎で病死する。高松藩士の長谷川宗右衛門の二男・速水は15歳で世子の近侍となる。江戸水戸邸に出入りし有志と交わる。父とともに大獄に座し、国許永押込となり高松藩の獄に繋がれる。万延元年8月9日獄死。高松藩第10代藩主の松平頼胤は井伊直弼と結び、本藩である水戸徳川家を圧迫することが多々あった。そのため長谷川宗右衛門父子の立場は非常に困難なものであったことが想像される。
 楢崎将作は京都柳馬場三条下ル東側の町医で元青蓮院宮の侍医。そのような関係で頼三樹三郎等と親交があり、大獄に座し六角獄に繋がれる。文久2年(1862)6月20日に六角獄で獄死。楢崎の長女の龍は後に坂本龍馬の妻となる。

 藤森恭助は小野藩士の子として寛政11年(1799)に江戸に生まれる。柴野碧海、長野豊山、古賀穀堂、古賀侗庵らに師事した後に帰藩する。世子である一柳末延の侍講となるが建言するも容れられず、天保5年(1834)致仕し江戸で私塾を開く。間もなくして土浦藩に入り朱子学を普及させる。権力闘争に巻き込まれ弘化4年(1845)藩を辞して江戸に戻り、再び私塾を開く。安政4年(1857)に上洛し梁川星巌や頼三樹三郎、梅田雲浜、月照らと交流する。水戸降勅に関わった疑いで安政5年(1858年)捕えられる。中追放刑となり下総国行徳に移るも文久2年(1862)赦免。江戸戻った後、同年10月8日に病死。
 文久2年(1862)勅使・大原重徳が島津久光と薩摩藩兵を伴い江戸に入る。勅命を以って幕府人事に介入し、7月6日に一橋慶喜を将軍後見職、同9日には松平慶永を政事総裁職に任命させている。同月12日、政事総裁職・松平慶永が戌午以降の国事犯者の赦免を主張し、幕議でのこれを容れることを決している。
 8月2日、朝廷は長州藩世子の毛利定広に江戸へ東下し国事周旋を行う旨の勅命を伝えるとともに、戌午以来の処罰者に対する特赦と殉難者の収葬について幕府に論示している。朝廷は同月9日に故三条実万へ右大臣を追贈している。幕府も同日に故徳川斉昭の三周忌にあたり側衆の新見正興を将軍名代とし焼香させるとともに同藩の戌午以降に罪を得た者を赦免することを決している。こうして安政の大獄で処罰を受けた人々への赦免が徐々に始まっていく。

 勝野正道の子の森之助は、父の運動を助けたことで大獄に連座、三宅島への遠島の刑を受ける。文久3年に許されて戻った直後に病死している。押込となった鷹司家諸大夫の高橋俊璹も出獄した後の慶応2年(1866)1月3日に病没している。さらに文久2年11月に許された中追放の森寺常邦と永押込の森寺常安の三条家諸大夫父子も子の常邦が慶応3年(1867)に病死、父の常安も明治元年(1868)9月22日に没している。いずれも死後に贈位されている。
 明田鉄男氏は「幕末維新全殉難者名鑑」(新人物往来社 1986年刊)の安政の大獄編で、最後の殉難者を弘前藩士の工藤只八としている。奇行を忌まれ昌平黌を退学させられた人物であるが、安政年間に藤森恭助や梁川星巌と詩酒を交わし国事を論じたことから大獄に連座したようだ。入獄数年、釈放後間もなくして亡くなったことのみが記されている。この工藤只八については「野史台 維新史料叢書 伝記4」(東京大学出版会 1974年覆刻)の弘前藩勤王家小伝の中に北岡太淳、伊東祐之、斎藤弘、飛島謙と共に略歴が残されている。明田氏の記した略歴は、「野史台」を基にしていることがよく分かる。只八は、大日本史を読み竹内式部、山縣大弐、高山彦九郎、頼山陽、蒲生君平等の人となりを慕いその著書を誦じ、川路聖謨、塩谷世弘、藤森大雅、佐久間象山、渡辺崋山、梁川星巌等と国事を論ず とある。渡辺崋山は天保12年(1841)に亡くなっているので、野史台を信じるならば、只八はかなり早い時期から国事に奔走していたと思われる。

 以上の36名が明田氏の「幕末維新全殉難者名鑑」に掲載されている安政の大獄に関連する人々である。これを下記の5つに分類してみる。

1 伝馬町牢獄で処刑された人 7名
伝馬町牢獄で斬罪 鵜飼吉左衛門、鵜飼幸吉、茅根伊予之介、飯泉喜内、橋本左内、頼三樹三郎、吉田松陰

2 伝馬町牢獄で獄死した人 4名
伝馬町牢獄で獄死 信海、小林良典、六物空満、日下部裕之進

以下の人々は埋葬されなかった考えられる人々である。

3 伝馬町牢獄以外で処刑された人 1名
切腹 安島帯刀

4 伝馬町牢獄外で獄死・自刃した人 5名
江戸で獄死 日下部伊三治、中井数馬、藤井尚弼、梅田雲浜
江戸で自刃 松田東吉郎

4 江戸以外で病死、獄死した人 13名
京都で病死・獄死他 山本貞一郎、梁川星巌、近藤正慎、山本縫殿、渡辺喜左衛門、三条実万、宇喜多一蕙、楢崎将作
薩摩で入水 月照
水戸で病死 勝野正道
土浦で病死 大久保要
亀山で病死 奥平小太郎
高松で獄死 長谷川速水

5 生き延びた人
藤森恭助、勝野森之助、高橋俊璹、森寺常邦、森寺常安、工藤只八

 回向院の公式HP(http://ekoin.fusow.net : リンク先が無くなりました )の回向院にご縁のある方々(http://ekoin.fusow.net/309.html : リンク先が無くなりました )の内、安政の大獄に関する人々として、吉田松陰、橋本左内、頼三樹三郎、成就院信海、梅田源次郎、茅根伊豫之助、小林良典、六物空満、鵜飼吉左衛門、鵜飼幸吉、須山萬、日下部祐之進、飯泉喜内、水口秀三郎、平尾信種の15名の名前を上げている。
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南千住 回向院 水口秀三郎之墓 C-35
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南千住 回向院 村田雷助遺墳 A-20

 須山萬は、「因伯立志人物」(鳥取仏教青年会編 1915年刊)によれば伯耆国西伯郡日吉津村の医師の子として生まれている。文久4年に藩の用事を帯びて京都そして江戸に赴き、長州藩士と水戸藩士と深く交わっている。甲子戦争の後の元治元年(1864)10月26日幕吏数十人に囲まれ、萬は捕えられている。一度は牢獄から逃げ出したが、再び捕えられ伝馬町牢獄に入れられ同年11月8日に斬首となった。捕らえられたのが元治元年であるならば安政の大獄ではなく、第一次長州征伐に関連した容疑となるだろう。 平尾信種は鎌倉出身の国学者で、最初横浜で寺子屋を開いていた。尊王攘夷の活動家として諸国を遊学した後、江戸で暮らす。元治元年(1864)天狗党の筑波山挙兵に参加。乱が鎮圧されると江戸へ帰るが、捕えられて獄死している。これも安政の大獄とは関係ないようだ。
 残りの水口秀三郎は詳細不明。昭和14年(1939)東京市は勤皇祭開催している。明治維新当時の志士を顕彰するために日比谷公会堂で中央慰霊祭が催されている。この主旨を説明する書として「勤皇祭趣意書」(東京市 1939年刊)が発行されている。この中には東京市内29寺社に祀られている志士のリストが付けられている。というよりは志士の埋葬された場所を示す方が本来の目的であったようだ。この「勤皇祭趣意書」の中に水口秀三郎の氏名を残念ながら見つけることができない。ただし昭和14年(1939)11月28日に建立され、現在に残る水口秀三郎之墓の墓石左側面には、下記のように記されている。

越後の産、松代藩の侍医にして佐久間象山の高弟、文久三年江戸伝馬町の獄中にて病死、同年四月九日小塚原に含らるの年三十有六
一野辺三郎撰


 回向院にご縁のある方々(http://ekoin.fusow.net/309.html : リンク先が無くなりました )で其の他としている村田雷助は、墓碑によれば安政6年1月27日に亡くなっている。また「橋本左内と小塚原の仕置場」(荒川区教育委員会編 2009年刊)の「回向院史跡エリア墓碑一覧」では安政の大獄に関連した記述がない。昭和14年(1939)の「勤皇祭趣意書」には「水戸の人 安政6年2月27日獄死 享年25」とある。墓碑と齟齬があるが掲載されている。ただし「幕末維新全殉難者名鑑」を探しても村田雷助を見つけることができない。幕末の仙台藩士の小野清が著した「徳川制度史料 初輯 柳営行事上」の中に「安政五年ノ大獄」という一文があるが、これは刑罰の裁許に関する例として上げているようだ。
前記ノ如ク右三奉行寺社奉行、町奉行、御勘定奉行、評定所一座ノ合議決定セル断獄擬律ノ案ヲ具ヘテ上聞ニ達セレバ、更ニ情状ヲ酌量セラレ、一ニ等若シクハ二三等ヲ軽減セラルヽハ古来ノ例ナリ、然ルニ独リ安政五年戌午ノ大獄ニ至リテハ、三奉行ノ具状セル断案ヨリ二三等以上加重シテ裁許セラレタリト云フ


 これよりも従来の裁許とは異なることが安政の大獄で行われ、大老を除く幕閣が一様に驚愕したということであろう。村田雷助については上記の文に続く「安政五年ノ大獄」の中に現れる。これは小野清が「今、拙著開国紀要ノ一節ヲ左ニ抄録シテ参考ニ供ス」と記している。

開国起原勝海舟著ハ云フ、此外配流放逐セラルヽ者総計五十三人ト、今小塚原寺院過去帳義人録ヲ見ルニ、此余右一件ニ連座シテ入獄セル者左ノ如シ
水戸藩士村田雷助ハ是歳安政六年二月二十七日ヲ以テ、成就院信海ハ三月十八日ヲ以テ、大覚寺執事六物空海ハ翌万延元年正月十六日ヲ以テ獄中ニ斃レ、其他薩藩士日下部裕之進ハ三月三日桜田事変当日 江戸品川ノ植木屋新六ハ四月十六日、妙法院執事桜静ハ六月二十七日、江戸新吉原谷本楼ノ娼妓瀧本ハ七月六日牢死セリ


 以上のように、小野は回向院の過去帳義人録を見て上記の文を書いているようだ。恐らく回向院に残されている過去帳は村田雷助の記述が残されているのだろう。ただし坂下門外の変に関係した瀧本を安政の大獄と混同している点が見えるので、その扱いは要注意であろう。

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南千住 回向院 梅田源次郎遺墳 C-32

梅田雲浜の墓
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南千住 回向院 梅田源次郎遺墳 C-32

梅田雲浜の墓

 また回向院が上げている梅田源次郎は小倉藩小笠原家預かりで病死している。同じく小倉藩邸で亡くなった西園寺家家臣の藤井尚弼とともに浅草海禅寺中の泊船軒に“仮埋葬”されている。藤井だけを残して梅田だけを回向院に移したとは考えにくい。また下記に詳しく説明するが、元治元年正月に久坂玄瑞を始めとする長州藩士達は、吉田松陰、頼三樹三郎そして小林良典を若林に改葬している。現在の松陰神社にも松陰とともに三樹三郎と良典の墓が残されている。もともと京阪において長州藩の物産の販売に助力したのが梅田雲浜であったので、もし回向院に埋葬してあったならば、若林に改葬するだけの縁があったはずである。それが行われなかったのには何らかの理由があったのであろう。上記の「勤皇祭趣意書」でも、梅田は藤井と共に海禅寺の箇所に記されており、回向院の箇所には記述がない。

 以上のことから回向院に葬られた安政の大獄に関連した人々は、上記1と2の11名あるいは水口秀三郎と村田雷助を加えた13名だと思われる。

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南千住 回向院 橋本景岳之碑 B-13

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南千住 回向院 その6 のMarker List
MarkerNo名称緯度経度
赤●回向院35.7322139.7978
01泪橋35.7290139.7994
02延命寺35.7316139.7978
03円通寺35.7340139.7928
04素戔雄神社35.7371139.7960
05荒川ふるさと文化館35.7375139.7954
06千住大橋35.7393139.7973
07千住宿35.7505139.8028
08奥の細道矢立初めの地 荒川区35.7331139.7985
09奥の細道矢立初めの地 足立区35.7412139.7985

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