南千住 回向院 その3

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南千住 回向院(みなみせんじゅ えこういん)その3 2018年8月12日訪問

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南千住 回向院

 もともと南千住 回向院の一項で纏めるつもりであった観臓記念碑が思ったより長くなってしまった。この項では観臓後の翻訳作業の開始から「解体新書」の発刊までを書き、観臓記念碑についてを終了する予定である。
 杉田玄白の「蘭学事始」(「岩波クラシックス28 蘭学事始)(岩波書店 1983年刊))によれば、観臓の帰り道、「ターヘル・アナトミア」の正確さに驚いた杉田玄白、前野良沢、中川淳庵は、その翻訳に着手することを決める。同書では良沢の言葉として下記のように記している。

然らば善はいそげといへる俗諺もあり、直に明日私宅へ会し給へかし、如何やうにも工夫あるべし


 このように観臓の行われた翌日の明和8年(1771)3月5日より、築地の良沢宅で訳読会が開始した。良沢の役宅は築地鉄砲洲にあった豊前中津藩中屋敷にあり、現在の中央区築地明石町にあたる。現在この地は都指定旧跡の蘭学事始地として登録され、“慶応義塾発祥の地”と“蘭学の泉はここに”の二つの石碑が建っている。慶応義塾の創設者である福沢諭吉は中津藩の下級藩士の次男として天保5年(1835)に生まれている。諭吉は適塾の塾頭になった後、江戸出府となり築地鉄砲洲の中津藩邸に開かれた蘭学塾の講師に就任している。この蘭学塾が後の慶應義塾の基礎となったため、この地が慶応義塾発祥の地となっている。

 前項でも記したように、杉田玄白はオランダ語習得を断念していたためアルファベットさえも知らなかったとされている。それでも前野良沢と出会ったことで玄白は「ターヘル・アナトミア」の翻訳を思い立ったのである。その重要性に対する認識があっても、我が身の語学力でよく決断できたと思わざるを得ない。元文4年(1739)生まれの中川淳庵は、後にツンベリーと植物学などの会話を行うなど、素より語学力の高い人物であったようだ。また幕府奥医師である桂川家の第4代当主・桂川甫周も翻訳作業に従事している。甫周は宝暦元年(1751)生まれなので、玄白より18歳も年下になる。既に明和6年(1769)に幕府の奥医師に昇任していたので直参であった。年長であっても陪臣の玄白は甫周に対しては敬語を使っていたようだ。元々桂川家はオランダ流外科の侍医であったため、蘭学書を読むことが許されていた環境で育っている。さらに後年、淳庵と共にツンベリーから外科術を学ぶなど語学力にも秀でていたようだ。 以上のように淳庵も甫周もオランダ語を理解していたものの、当然良沢の域には達していなかったので、良沢を盟主として翻訳が始まった訳である。翻訳作業は最初から苦難の連続であったようだ。「蘭学事始」には下記のように記されている。

先づ、かのターヘル・アナトミアの書にうち向ひしに、誠に艫舵なき船の大海に乗り出だせしが如く、茫洋として寄るべきかたく、たゞあきれにあきれて居たるまでなり。


 彼等が最初に着手したのは「ターヘル・アナトミア」の第二図の「仰伏全象の図(リンクの291ページ)」、つまり男女の各部に符号が付いている挿図であった。「解体新書」の巻一は形体名目篇から始まっている。 鳥井裕美子氏は、翻訳作業の手順について「前沢良沢 生涯一日のごとく」(思文閣出版 2015年刊)で下記のように推測している。

具体的には、良沢が原書を音読し、他のメンバーがカタカナで書き取る。そして良沢がマーリンの辞書を引きつつ訳語を模索、訳語が定まれば皆、一語筒ずつカタカナの傍に書き込む。抽象的でわかりにくい表現は、辞書の記述や自分たちの知識に基づいて議論したり、想像力をふくらませたりする。毎回、訳語は杉田玄白が自宅で文章化する。作業はこのように進んだのではないだろうか。


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南千住 回向院 本堂ピロティ下

 鳥井氏は一ヶ月に6乃至7回の会合が、22ヶ月で概算140回前後開かれたと計算している。原書が249ページであったので一日当たり2頁弱の翻訳速度であったと見ている。
 このようにして、明和8年(1771)3月5日に着手した翻訳作業は、安永2年(1773)正月には一応の訳了を迎えている。そして同年正月に「解体約図」を江戸室町二丁目の須原屋市兵衛から出版している。これは後に出版される「解体新書」の予告編であり、現代風に言えば購入希望者を募るパンフレットのようなものであった。尤も当時、幕府の禁忌に触れて出版できなかった書籍(後藤梨春の「紅毛談」)もあったので、単純な市場調査だけでなく世情調査の意味合いもあったようだ。木版一枚刷り五枚で、全身骨格図、内臓の解剖図、全身脈絡図と序文・本文からなる。
          侍医 玄白杉田翼  誌
      若狭  同  淳庵中川鱗  校
          処士 元章熊谷儀克 図

と記されていた。熊谷儀克とは若狭出身の画家であるので、玄白は「解体約図」を全て若狭に関わりを持つ人々で作成して発刊している。上記の鳥井氏は「紅毛談」の絶版を疑問視する意見も存在することを記した上で、「解体新書」は杉田玄白の訳であると宣言し既成事実化する所業と見ている。
 相変わらずではあるが、「解体約図」の発刊に関しての前野良沢の感想は残されていない。その心境は推測するしかない。ちなみに前野良沢を主人公とした吉村昭の小説「冬の鷹」では、ほぼ玄白の「蘭学事始」を採用している。すなわち後藤梨春の「紅毛談」の絶版を重く見た玄白が、害が良沢に及ばないように身内で作成した「解体約図」を様子見のために報帖として発刊したとしている。良沢は玄白の周到な手順を理解はしたものの、報帖という宣伝行為を不快に感じていた。つまり玄白としては医学の発展のため一日でも早く「解体新書」を世に出すことを望んだが、不十分な翻訳であることを知っている良沢も不完全な形で発刊する訳にはいかなかった。この二人の目的の相違がやがて問題となっていく。

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南千住 回向院 蘭学を生んだ解体の記念碑

 「解体約図」が世に受け入れられたことを確認した玄白は「解体新書」の発刊を急いだ。序文は幕府のオランダ語通詞で蘭方医の吉雄耕牛永章に依頼している。耕牛は通詞であるため長崎に在ることが多いが、安永2年(1773)のオランダ商館長江戸参府に同行している。この機に良沢は玄白と共に吉雄を訪ね「解体新書」の草稿を示して序文を請うている。耕牛は享保9年(1724)代々オランダ通詞を務める家に生まれている。通詞の仕事の傍ら商館付の医師やオランダ語訳の外科書から外科医術を学ぶ。その他に天文学、地理学、本草学なども修め、また蘭学を志す者にそれを教授する家塾・成秀館には全国からの入門者が相次いだ。つまり当時の一流の蘭学者で耕牛と交わりの無い者はいないような蘭学の中心に君臨する人物であった。
 また玄白は「解体新書」の挿画を小田野直武に依頼している。「解体約図」の挿画は若狭の熊谷儀克が描いたが、どのような理由があったかは不明であるものの画家を変更している。小田野直武は、寛延2年(1750)生まれの秋田藩士で洋画家、秋田蘭画の創始者でもある。安永2年(1773)7月、鉱山の技術指導のために角館を訪れた平賀源内が見出し、遠近法、陰影法などの西洋絵画の技法を伝えたとされている。同年12月、直武は銅山方産物吟味役を拝命して江戸へ上り、源内の所に寄寓する。玄白が直武に木版挿画を依頼したのはこの頃と思われる。確かに陰影を与えた直武の挿画の方が原画に近いものとなった。

 「解体新書」全五冊が須原屋市兵衛から出版されたのは安永3年(1774)8月であった。本文巻之一~本文巻之四の四冊と序文・凡例・附図一冊構成となっていた。出版に当たり玄白は、幕府の役人である吉雄耕牛に序文を依頼する以外にも二つのことを行っている。まず第一に桂川甫周の父であり玄白の友人でもある桂川甫三を通じて「御奥より内献」、すなわち翻訳の成果を公儀に献上している。そして第二は京都に住む従弟の吉村辰碩を通じて九条家、近衛家、広橋家へ一部ずつ進献している。さらに時の「大小御老中方」にも一部ずつの進呈も併せて行っている。これらは勿論、禁令に触れ罪を蒙る事から遁れるための方策であった。

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南千住 回向院

 なお、本文四冊の各巻頭には以下のような四人の名前が並んでいた。

          若狭 杉田玄白翼 訳
      日本  同藩 中川淳庵鱗 校
          東都 石川玄常世通参
       官医 東都 桂川甫周世民閲

 石川玄常は延享元年(1744)江戸に生まれたとされている。医学を志し、宝暦6年(1756)に官医の熊谷無術に師事。明和9年(1772)京都の山脇東門にからオランダ医学を学ぶ。安永の初年に江戸で前野良沢に入門し、「解体新書」の翻訳作業に従事する。文化12年(1815)没。玄常は遅れて加わった人物にも関わらず名を連ねていること、そして最大の功績者である前野良沢の名前が見えないことが「解体新書」発刊の謎でもある。この2つの疑問点について、玄白の「蘭学事始」は答えてくれていない。あれだけ詳しく「解体新書」が作られる過程を述べてきた玄白が、これ等のことについては一言も触れていない。
 それでも前野良沢が「解体新書」発刊に携わった痕跡がどこに残されたか?後の時代に玄白が記述した「蘭学事始」には、明和8年(1771)3月4日に行われた腑分けへの参加から翻訳作業を盟主として良沢が行ったことを詳細に書き残している。また吉雄耕牛の序文中にも「中津官医前君良沢」、「鄀郟官医杉君玄白」と記されているので、良沢と玄白が発刊に携わったことが明らかであろう。
 前野良沢が「解体新書」に署名しなかった理由を太宰府天満宮に誓いを立てたためとする説がある。長崎遊学の際、太宰府天満宮に参詣した良沢は学術成就を祈願したとされている。これは己の功名心からではなく、もしそれに反するようなことがあったら神罰を与えよと祈った。「解体新書」に名を残すことは功名心の現われだから、署名も序文起筆もできないと説明したと謂われている。これは「蘭学事始」にも書いていない。もし良沢が拒絶した理由を玄白が知っていれば、必ず記述したと思われるので、あるいは玄白も知らない良沢の理由かも知れない。その出典は野崎謙蔵撰の蘭化先生碑の碑文とされている。この碑は文化元年(1804)建立で亀戸天神の境内にあったとされているが、残念ながら現存していない。松尾耕三の「近世名医伝」や関根只誠の「名人忌辰録」で碑の存在が確認されているので、あるいは明治時代の頃までは残っていたのかも知れない。その碑文については写本として「事実文編」巻33に所収されている。残念ながら上記リンクには閲覧制限があり、国立国会図書館または図書館送信参加館での閲覧のみ可である。幸い岩崎克己著の「前野蘭化 1 解体新書以前(東洋文庫600)」(平凡社 1996年刊)の「第一章 前野蘭化研究の回顧」にも掲載されているのでこちらを参照する方が容易であろう。なお上記の鳥井裕美子氏はその著書「前沢良沢 生涯一日のごとく」で、このような重要な情報を良沢と親交のない野崎謙蔵が知り得たこと、そして碑自体の実在に対して疑問を呈している。
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南千住 回向院 史蹟小塚原回向院

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南千住 回向院 その3 のMarker List
MarkerNo名称緯度経度
赤●回向院35.7322139.7978
01泪橋35.7290139.7994
02延命寺35.7316139.7978
03円通寺35.7340139.7928
04素戔雄神社35.7371139.7960
05荒川ふるさと文化館35.7375139.7954
06千住大橋35.7393139.7973
07千住宿35.7505139.8028
08奥の細道矢立初めの地 荒川区35.7331139.7985
09奥の細道矢立初めの地 足立区35.7412139.7985

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