京都御苑 猿ヶ辻 その3

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京都御苑 猿ヶ辻(きょうとぎょえん さるがつじ)その3 2010年1月17日訪問

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京都御苑 猿ヶ辻

 京都御苑 猿ヶ辻その2に続き、襲撃犯が田中雄平に決する過程と薩摩藩に下された処罰、そして八月十八日の政変へと続く薩摩藩による復権活動について見て行く。 長州及び土佐の武市派は、この猿ヶ辻の変を上手く利用し京都における薩摩の勢いを削ぐ事に成功した。その本当の襲撃犯が田中雄平であっても又はなくても、朝廷における薩摩の信頼を大いに損なわせることに成功したからである。その後の経緯については「七年史」が詳しい。5月27日に伝奏・坊城俊政は、会津藩主・松平容保、米沢藩主・上杉斎憲、広島藩の浅野茂勲、小松藩主・一柳頼紹に姉小路公知を殺害した者の糺問をさせ、豊岡隋資、正親町公董、東久世通禧も臨席するように命じた。しかし訴獄は町奉行の任務であり守護職が行うものではないという理由で松平容保は辞退、上杉斎憲も固辞している。そのため町奉行・滝川元義に命じ浅野茂勲とともに糾問させようとしたが、浅野茂勲と一柳頼紹も辞退したため、御守衛兵に加わっていた水戸の梶清次右衛門、姫路の河合惣兵衛、長州の佐々木男也、肥後の宮部鼎蔵、轟武兵衛等数名がこの任についた。これら辞退の続出は、列藩である薩摩との関係悪化を鑑みてのものであったと思われる。

 関博直の「姉小路公知伝」(博文館 1905年刊)によると、十八藩の有志が姉小路家の菩提所である清浄華院に会し、姉小路公知の暗殺は田中雄平によるものであったかを討論したとある。これによって襲撃犯は田中雄平と決し、5月29日には以下のように、薩摩藩は乾門守衛から外され、藩士は九門内に入ることを禁じられている。新しく乾門の守衛の任に就いたのは、雲州松江の松平定安であった。下記は「官武通記」に掲載された御書付写である。

松平修理大夫殿乾御門御守衛御免之御書付写松平修理大夫殿 先日以来乾御門御守衛被仰付置候処、今日より御守衛御免之旨相達被申候、就而者御守衛人数之詰所仮小屋無程取払有之候間、右取払相済候はゞ、薩州人九口御門内往返無之様可被制候、右之趣を以御留守居中へ申達候得共、各様為御心得被申達候、以上
     九月廿九日  両伝
                   雑掌
     御次第不同、八門御門御守衛御詰合衆中
松平修理大夫殿御家来九口御門内通行御指留之御書付写松平修理大夫殿御家来之内、御用御使者之外、九口御門内通行可被制止候様被仰出候間、右之段心得可有之旨、飛鳥井殿雑掌市岡式部殿より御達有之事


 なお、大勢には影響を与えなかったものの、6月29日の暁に下記のように上杉家が預かっていた仁礼源之丞の下僕の太郎が出奔している。このため米沢藩主・上杉斎憲は出京が赦されず、そのまま京に駐在することとなった。


先達テ家来へ御預之囚人薩州藩仁礼源之丞召仕太郎儀去月二十九日番人共之油断ヲ見透シ圍抜出遂出奔候ニ付精々探索為相尽候得共未召捕不申候於私儀モ不堪恐縮奉存候間暫滞在探索向指揮支度存候此段御伺仕候以上
         上杉弾正大弼


 上記のように5月29日の乾御門守衛免除に次ぐ九門内立ち入り禁止は、中川宮朝彦親王及び薩摩藩と縁戚関係にある近衛邸への出入りを封じることを意味する。薩摩藩の後ろ盾を失った近衛忠煕には、既に急進的な激派公卿達を鎮静させる力はなかった。実際、近衛はこの文久3年(1864)1月23日に関白を辞し、3月25日には内覧も辞している。近衛前関白は島津久光の上京しか混迷する政局を打開する手立てはないとし、書簡を相次いで久光に送っている。また5月30日には久光を京都に召す内勅が発せられている。これは主上の真意に沿ったものであり、後の八月十八日の政変へとつながる激派を一掃するための挙兵でもある。
 ただし薩摩藩にとって、この時期の上京は困難であった。生麦事件の賠償金を幕府から受け取った後、英国が薩摩藩との直接交渉を行うため鹿児島に艦隊を派遣する直前のことであった。久光は猿ヶ辻の変が起こる前の3月14日に上京したものの、20日には帰藩に途についている。藩内体制を強化し薩英戦争の準備をするため、藩内に留まらざるを得なかった。

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姉小路公知が葬られた清浄華院

2014年10月8日撮影
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清浄華院 2014年10月8日撮影

 近衛に代わって関白に就いた鷹司輔熙は長州藩に縁があった。積極的に三条や姉小路の即今破約攘夷を応援しなかったとしてもその活動を制する事もできず、孝明天皇の真意とは異なった勅命を横行させることとなった。
 中川宮も薩摩藩からの支援が得られなくなると、長州・土佐両藩の藩士との謁見を優先し薩摩藩との関係を清算するような行動を見せている。当時の宮の姿を広沢安任は「鞅掌録」(「日本史籍協会叢書 会津藩庁記録3」(東京大学出版会 1919年発行 1982年覆刻))で下記のように記している。

此ヨリ京ハ薩人ヲ悪ミ恨メルモノ堂上ヨリ浮浪ニ至ル迄ニ愈甚シク其乾門ノ守衛ヲ免シ九門内一切入ルコトヲ得サラシム 又中川親王ニ行テ守衛セシモノ亦尽ク之ヲ徹シ去ラシム 親王ハ素ヨリ薩州ニ由リ玉ヘルト云フヲ以テ嫌ヲ避ケ玉ヘル 殊ニ深ク此ヨリ鷹司殿下ノ家臣ヲ請へ得テ常ニ宿直シテ其動静ヲ報知セシメ玉フ 長州土州等ノ人及ヒ久留米人真木和泉等ノ如キアラサレハ敢テ謁見スルヲ得セシメス 我藩等及ヒ徳川氏譜代ニ係ル者ハ最モ避ケ玉ヘリトス


 これを薩摩藩は宮の豹変と捉え、焦燥感を高めることとなった。さらに6月5日に攘夷先鋒の任に就くことを中川宮は申し出ている。「七年史」(「続日本史籍協会叢書 七年史」(東京大学出版会 1904年発行 1978年覆刻))では、「蓋し親王の意、進んで兵権を握り、先づ宮中を掃攘して、叡慮の開達を謀り、大に国事を補翼せんとの、英志に出給ひしなりといふ」とし、小河一敏は「王政復古義挙録 巻之二」(「幕末維新史料叢書5 王政復古義挙録 懐旧記事」(新人物往来社 1969年刊))では下記のように見ている。

一敏親しく宮の御内人山田勘解由に逢ふて聞き得たる事あれば、爰に附記す。亥年の夏の頃宮は攘夷先鋒として関東御下向御願有りけれ共、勅許無かりしに、其時宮は深き御心有りし事とぞ。其故如何にと問ふに堂上にて様々の御模様有て一和し賜はず又浮浪のもの洛中に在て善からざれば是等のものを召具せられて東下し賜はん、其後にて延議を一に堅められ度との御心にましくけるとなり。一敏是を窃に思ふに是三郎殿の隣国申合に見えたる浮浪のものを駆除すると符合したる御心には有りける。


 これに対して、町田明広氏は「島津久光=幕末政治の焦点」(講談社選書メチエ 2009年刊)で、中川宮のこの時期の行動自体を保身と見なし、攘夷先鋒の願出も即今破約攘夷派に対する迎合として捉えている。6月23日、伝奏・野宮定功の雑掌から会津藩に中川宮家家臣・山田勘解由と伊丹蔵人の捕縛命令が下りる。会津は守護職の任にあらずとして固辞すると、守衛兵を以って捕縛している。その罪状は西国に下ろうとしたこととなっている。中川宮が島津久光と謀議を行うために2人の家臣を薩摩に送ったという浮浪等の憶測を容れての捕縛であった。山田勘解由等は宮の命に従い、楠正成の墓を弔うために西下したことが分かる。

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京都御苑 猿ヶ辻

 6月11日、薩摩藩士の九門出入が従来通りに自由となった。町田氏は上記の「島津久光=幕末政治の焦点」で、薩摩藩の嫌疑が冤罪として氷解したためとしている。

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京都御苑 学習院跡辺りから猿ヶ辻を望む

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京都御苑 猿ヶ辻 その3 のMarker List
MarkerNo名称緯度経度
赤●京都御苑 猿ヶ辻35.0273135.7636
01京都御所 宣秋門35.0246135.7610
02京都御所 朔平門35.0272135.7624
03京都御苑 姉小路邸跡35.0258135.7643
04京都御苑 学習院跡35.0240135.7643
05三条家邸宅35.0245135.7661
06寛政度有栖川宮邸35.0269135.7629

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