京都御苑 その他の邸宅

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京都御苑 その他の邸宅(きょうとぎょえん そのたのていたく) 2010年1月17日訪問

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京都御苑 その他の邸宅

京都御所の宜秋門 左京北辺四坊二町 2014年10月8日撮影

 小一条第を始めとし、枇杷殿まで、京都御苑内にあったと考えられる平安時代初期から鎌倉時代までの貴族の邸宅跡について書いてきた。既に京都御所 その3でも説明したように、平安京の造営はまず大内裏から始められ、続いて市街の造営を進めたと考えられている。都の中央を南北に貫く朱雀大路の北には皇居と官庁街を含む大内裏が設けられ、その中央には大極殿が造営された。大極殿の後方東側には天皇の住まいとなる内裏が設けられている。この平安京の大内裏の構造と位置については京都市埋蔵文化財研究所の公式HPに掲載されている平安宮散策マップを参照すると分かり易い。下立売通千本東入の上京区田中町あたりがかつての内裏であったことが分かる。つまり現在の京都御所より、凡そ西南に1700メートル離れた地にあった。 延暦13年(794)に造営された内裏は天徳4年(960)9月23日夜に炎上している。これ以降罹災する度に大内裏の官衙や京中の後院や公家邸宅を仮御所として利用している。罹災と内裏再建を繰り返すなかで、公家邸宅の仮御所が内裏に準ずるものとして里内裏が生まれるようになった。里内裏の里は平安京の里坊のことであり、京中にある内裏という意味であった。

 鴨川の西岸、左京の三条から一条にかけての地域には、平安時代の初期から公家邸宅が建設されてきた。この地域が、大内裏に近く右京に比べ住環境が優れていたためであろう。上記のように内裏が被災する度に、このような公家邸宅が里内裏として使われてきた。そして安貞元年(1227)4月22日の類焼以降、内裏の再建は行われることが無くなり、里内裏が内裏そのものとなっていった。かつての内裏跡は興廃し内野と呼ばれるようになる。内裏再建がなされなくなった頃、里内裏は平安京二条大路の南、西洞院の西にあり、現在の中京区押小路通小川西北角に閑院内裏址の碑が建つ。もともと藤原冬嗣によって創建された邸で、庭内に泉が湧き、その閑雅な風情から閑院と名付けられたと考えられている。平安時代前半は藤原氏の邸宅として用いられ、後半は白河上皇・堀河天皇・高倉天皇・土御門天皇等の里内裏となった。鎌倉時代初期まで存続したが、正元元年(1259)5月22日の火災後は再建されることはなかった。そのため鎌倉時代後期には再び各所の里内裏を使用することとなった。冷泉富小路殿、五条大宮殿、二条殿、大炊御門殿などが用いられている。フィールドミュージアム京都には下記の里内裏の石碑が掲載されている。
     冷然院跡(中京区竹屋町通堀川西入)
 元弘元年(1331)9月20日に行われた持明院統の光厳天皇の践祚は、土御門東洞院殿を里内裏として充てられている。平安京北辺四坊二町にあった里内裏で、平安末期には藤原邦綱の土御門東洞院邸があったが、正親町南・東洞院東・土御門北・高倉西の1町四方の敷地に過ぎなかった。この地は、丁度現在の京都御所の南西角にあたり、紫宸殿や清涼殿あたりが旧地であったと考えられている。
 後醍醐天皇の鎌倉幕府倒幕運動となる元弘の乱が始まったのは元弘元年(1331)であった。同3年(1333)鎌倉幕府が滅亡し、京に戻った大覚寺統の後醍醐天皇は二条富小路内裏に入っている。後醍醐天皇は内裏の再造営を計画したが、建武3年(1336)足利尊氏の離反により建武の親政は瓦解する。この時の戦火により二条富小路内裏は焼失している。
 明徳3年(1392)閏10月5日、南朝の後亀山天皇が三種の神器を土御門殿に移し、南北朝統一が成される。このことにより土御門東洞院殿に内裏は固定される。その直後の応永8年(1401)2月29日の火災で新たに定められた内裏は焼失している。足利幕府第3代将軍の足利義満は、土御門東洞院殿が狭小であり人臣の家と大差がないことより、後白河法皇の持仏堂で土御門東洞院殿内の南側にあった長講堂を土御門油小路に移転させて再建している。また嘉吉3年(1443)9月23日、後南朝が内裏に侵入し放火する禁闕の変が起こり、紫宸殿、清涼殿、常御所、小御所、泉殿、内侍所などを焼いている。そのため後花園天皇は室町第で一年余りを過ごしている。寛正6年(1465)後花園天皇より譲位された後土御門天皇は、応仁の乱を避け足利義政の室町第に10年の間避難生活を強いられる。乱の終結後の文明11年(1479)12月、兵火による焼失を免れた土御門内裏に還幸しているが、内裏の荒廃はさらに進む。

 以上のように鎌倉時代中期には、当初に造営された平安京の内裏は放棄され、内裏の機能は里内裏に移されている。そして複数の里内裏を巡る内、持明院統により土御門東洞院殿に固定されたのが元弘元年(1331)とされている。以後、大覚寺統による二条富小路内裏の利用や後醍醐天皇による内裏再建なども試みられるが、明徳3年(1392)南北朝が統一されたことにより最終的に土御門東洞院殿に内裏は固定されている。この後、足利幕府第3代将軍の足利義満による内裏拡張が行われ、正親町南・東洞院東・土御門北・高倉西の1町(左京北辺四坊二町)となる。応仁の乱から戦国時代に入り、有力な庇護者を失った内裏は次第に荒廃してゆく。織田信長、豊臣秀吉の手によって内裏の整備は行われたが、最終的には徳川幕府によって数度の造営によって現在の京都御所の姿へと変わってゆく。
 内裏周辺部に公家の邸宅が建設され公家町が形成されるのも秀吉の時代にはじまり徳川時代になって更なる整備が成されている。つまり室町時代に入るまでは京都御所と京都御苑のあった地は、権勢の変遷に従った興亡があったものの多くの公家の邸宅の中に一部の町家が入り混じる地域であったと想像される。

 平安京の北限は現在の一条通にあった一条大路であるから、京都御苑の北側1/4程度は京外となる。京都御所に当てはめると凡そ御常御殿・御内庭から御花御殿までが京内で、皇后宮常御殿から朔平門は京外となる。南北方向では、先ず左京北辺四坊と一条四坊の全てが御苑内となる。さらに中御門大路を超えて春日小路すなわち現在の丸太町通の北側までが御苑内であるから、二条四坊と三坊の北側の一町分が含まれる。東西方向については烏丸小路が現在の烏丸大路にあたるため、三坊の東側1町分は京都御苑に含まれる。よって、かつての平安京の南北七町、東西5町にわたる部分が範囲内となる。これらの範囲を西北側から各町毎に、使われ方について見てゆく。

01 左京北辺三坊七町

 「拾芥抄」の諸司厨町によると、「土御門北 東洞院西」には采女町が所在したことが分かる。諸国から京に上り天皇や皇后に近侍し食事など身の回りの雑事を専門に行う采女の宿舎がこの地にあった。承和9年(842)西北の四分の一町が橘海雄に払い下げられている。長和2年(1013)には失火により采女町は焼失している。 その後、藤原季実の正親町第となり、鳥羽上皇の臨時の御所としても使用されている。白河天皇の皇女・恂子内親王の母は季実の娘とされている。永久5年(1117)待賢門院藤原璋子が土御門内裏(左京一条三坊九町)の鳥羽天皇に入内した際、代父の白河法皇は内裏の筋向いのこの邸宅に御幸している。

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京都御苑の中立売門 左京北辺三坊七・八町

02 左京北辺三坊八町

 鎌倉時代の初期、この町の北側の一条大路に面したところに源通親の桟敷がつくられていた。檜皮葺で東西10間に及ぶものであった。建久9年(1198)後鳥羽上皇が土御門天皇の行幸を見物するために御幸している。上皇は同年1月11日に土御門天皇に譲位を行い、承久の乱の起こるまでの23年間に亘り院政を敷いている。

03 左京北辺四坊一町

 この町には平安時代後期に源雅俊の子で左近衛中将源憲俊の邸宅があり、鎌倉時代初期には藤原忠行邸があったと考えられている。京都市埋蔵文化財研究所が2013年10月より調査した結果を「平安京左京北辺四坊一町跡・公家町遺跡」として報告しているが、建物基礎の構造から掘削深度に規定があったため、江戸時代の遺構を対象とした調査となっている。
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京都御所の清所門 左京北辺四坊一町

04 左京北辺四坊ニ町

 平安時代中期には、長保3年(1001)に失火があったこと以外の記録は残されていないことから、目立った貴族の邸宅はなかったと考えられる。後期に入ると、この地に関白藤原忠実の娘で、鳥羽上皇の皇后となった高陽院藤原泰子の御所が存在した。天皇ではなく上皇になってからの立后は前例もなく世の非難は激しかった。
 その後、藤原北家良門流に属する下級官人から権大納言に上り詰めた藤原邦綱に渡っている。邦綱は藤原泰子の同母弟藤原忠通の家司を務めている。この邸宅は「土御門亭」「正親町東洞院亭」などと呼ばれ、白河法皇、鳥羽天皇、後白河法皇、高倉上皇がしばしば行幸・御幸し、御所としても使用された。建久2年(1191)には、後白河天皇の第六皇女・宣陽門院覲子内親王が入り、御所としている。
 鎌倉時代に入り花園天皇がこの地に正親町殿を設け、以後度々里内裏として使用されてきた。上記のように東洞院土御門殿が内裏となり京都御所へとつながって行く。

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京都御所の宜秋門 左京北辺四坊二町
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京都御所の紫宸殿 左京北辺四坊二町 2014年10月8日撮影

05 左京北辺四坊三町

 この町には太政大臣源雅実の「土御門亭(土御門高倉第)」が存在した。25代賀茂斎院・禛子内親王の御所は雅実の邸宅であったとされている。禛子内親王は永保元年(1081)白河天皇と中宮・藤原賢子の間に生まれている。母の賢子は雅実の同母姉にあたるため、雅実が禛子内親王に邸宅を提供したのではないかと「平安京提要」(角川書店 1994年刊)は推測している。なお、禛子内親王は三条天皇の第三皇女・陽明門院禎子内親王とは別人で、承徳3年(1099)から嘉承2年(1107)まで斎院を務めている。そのためこの邸宅を「拾芥抄」の東京図には前斎院と記されている。大治5年(1127)に焼失している。 平安時代末期のこの町は、藤原北家中御門流の祖である藤原俊家、藤原北家良門流の藤原定隆の所有するところとなっている。

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京都御所の御池庭 左京北辺四坊三町 2014年10月8日撮影
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京都御所の小御所と御学問所 左京北辺四坊三町 2014年10月8日撮影

06 左京北辺四坊四町

 平安時代後期には参議修理大夫藤原忠能の邸宅があった。「拾芥抄」の東京図にも忠能卿と記されている。忠能は右京八条二坊にも広大な所領や邸宅を持っていた。これと同じ頃、権中納言源雅頼の邸宅もこの町にあったと考えられている。 藤原道長の邸宅の一つである一条第(一条殿)がこの町にあったとされている。この邸宅は左大臣源雅信から婿の藤原道綱に譲られている。道長の妻が雅信の娘の源倫子であることは有名であるが、道綱も雅信の娘の中の君を妻として迎えている。そのため一条第の経営は弟の道長が行っていたと考えられる。三条上皇の崩御の後は、道長の娘で上皇の中宮であった藤原妍子が御所としている。

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京都御所の御内庭 左京北辺四坊四町 2014年10月8日撮影

07 左京北辺四坊五町

 平安時代後期の頃、この町には徳大寺実能の次男・左近衛少将藤原公親の邸宅が存在した。左大臣藤原頼長の妻・幸子は公親の異母姉であった。久寿2年(1155)5月初旬、幸子の病勢がつのり、同月13日頼長の土御門殿を出て一条富小路にあった公親の邸宅に移っている。6月1日に、この地で死去している。
 上記の時期と前後するが、一条富小路には香集堂(虚空蔵堂)と称する仏堂が存在した。この地に住んでいた小野延貞の邸宅内に建てられ御堂である。現在、この地は京都迎賓館に含まれているが、その建設工事の際の発掘調査として、「平成10年度京都市埋蔵文化財調査概要(京都市埋蔵文化財研究所 2000年)」に「平安京左京北辺四坊」が報告されている。
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京都迎賓館 左京北辺四坊五・六・七・八町

08 左京北辺四坊六町

 既に染殿井染殿で記したように、左京北辺四坊六町、七町には藤原良房の染殿があったと考えられる。染殿の所在地については諸説あるが、現在では「平安京提要」の記すように六町だけではなく、七町も染殿の一部であったと考えるべきだと思われる。その後、六町には土御門第が造営され、村上天皇の皇子・具平親王の所有となる。親王は応和4年(964)に生まれ寛弘6年(1009)に没しているので、遅くともこの時期には染殿が分割され、土御門第が存在したことになる。村上天皇の第四皇子の為平親王は、母であり中宮の安子から七町の染殿を受け継いでいる。ほぼ同じ時代に、第九皇子の具平親王は六町に土御門第を建てている。 その後、室町時代に至るまで親王の子孫である村上源氏の本邸であったが、享徳元年(1452)右中将源有通が21歳で死去して村上源氏土御門家が断絶する際に、有通の父が土御門第を大徳寺如意庵に寄進し菩提を弔っている。

09 左京北辺四坊七町

 「よみがえる平安京」(村井康彦編集 淡交社 1995年刊)の巻末に掲載されている平安京変遷図は平安時代を前期・中期・後期の3つの期間に分割し、それぞれの時期の各坊の占有状況を示している。平安時代前期は七町のみを“藤原良房「染殿」”としている。中期になり六町が“藤原良房「染殿」→具平親王「土御門第」”、七町が“「染殿」(6,7町→7町→7町北半分)南半分に「清和院」(清和上皇後院)”という表示に変わる。そして後期には、六町を“村上源氏「土御門第」”、七町の南半分を“「清和院」”と記し、染殿は既に廃絶したのか七町の北側半分は空白の表示になっている。この図を作成した京都女子大学瀧浪研究室とは古代史学者の瀧浪貞子教授の研究室である。
 つまり七町のみであった藤原良房の染殿は、ある時期に六町を包含し拡張されたこととなる。染殿は、良房の女の明子すなわち文徳天皇の皇后で惟仁親王(清和天皇)の母の里邸となり、明子は染殿后と呼ばれる。文徳天皇は生来病弱で天安2年(858)32歳の若さで急逝している。明子は天皇崩御後の貞観7年(865)頃より精神的に病んでいたようで、表に出てくることがなくなっている。今昔物語集巻二十第七に染殿后為には、物の怪に取りつかれ悩まされる染殿后の姿が生々しく描かれている。日本歴史地名大系は「三代実録」の貞観18年(876)5月23日の記述より、明子が染殿に移居したと書いているが、これが染殿で過ごし始めた時期と考えるのは難しい。恐らく表に出なくなった頃より、明子は染殿で暮らしていたのではないかと思われる。 染殿は藤原基経、忠平、師輔を経て村上天皇の皇后となった安子、そして安子の子の為平親王に受け継がれている。親王が染殿式部卿宮と呼ばれるのは染殿を経営したためである。親王は寛弘7年(1010)10月に出家し、1ヵ月後に59歳で薨去している。この後の染殿についての記述が見当たらないので、染殿もまもなくして上記のように廃絶したのかもしれない。

 貞観10年(868)には基経の同母妹の高子が貞明親王(陽成天皇)を染殿で出産している。そして同18年(876)11月29日には、清和天皇が陽成天皇に譲位したのが染殿で、清和上皇の後院となったのが染殿の南側が清和院とされている。清和上皇は元慶3年(880)に出家、畿内巡幸し丹波国水尾の地に入っている。法皇は水尾を隠棲の地と定めたものの、左大臣源融の棲霞観にて病を発し同4年(881)12月4日、粟田の円覚寺で崩御している。清和院で暮らした期間はそれほど長いものではなかったようだ。このような流れを見ると清和院は貞観18年(876)頃に成立したと考えられる。
 「平安京提要」では清和院は上皇崩御の後、左大臣源重信の手に移り、その孫の大納言経信、その子の道時へと伝領されたとしている。重信は源雅信の弟であり、円融天皇の治世のもと雅信が左大臣、重信が右大臣を務める期間が長く続いている。その後、白河法皇の皇女・官子内親王に渡ったことから、内親王は清和院斎院と呼ばれている。さらに「平安京提要」では、清和院が寺院となり江戸時代の初めに現在の上京区七本松通一条上ル一観音町に移転したと記している。

 現在、「染殿第」跡の駒札が京都迎賓館の北東隅に建てられている。この場所は左京北辺四坊八町の北東角に当る。かつて染殿が七町と八町の2町に及んでいたと考えられていたことによっているのかもしれない。

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「染殿第」跡 左京北辺四坊六・七町

10 左京北辺四坊八町

 平安時代前期に藤原時平の娘で宇多法皇の尚侍・藤原褒子の邸宅「京極院」があったと考えられている。「京極御息所」あるいは「富小路御息所」と呼ばれていたことから、この地にあったと推定されている。また異母兄弟となる右大臣藤原顕忠の邸宅が四分の一町の大きさで存在していたということから、左京北辺四坊八町の東南部を占めていた可能性が高い。

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「染殿第」跡 左京北辺四坊八町に駒札が立つ

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京都御苑 その他の邸宅 のMarker List
MarkerNo名称緯度経度
01左京北辺三坊七町
02左京北辺三坊八町
03左京北辺四坊一町
04左京北辺四坊二町
05左京北辺四坊三町
06左京北辺四坊四町
07左京北辺四坊五町
08左京北辺四坊六町
09左京北辺四坊七町
10左京北辺四坊八町

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