京都御苑 枇杷殿

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京都御苑 枇杷殿(きょうとぎょえん びわどの) 2010年1月17日訪問

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京都御苑 枇杷殿

蛤御門あたり 枇杷殿はここよりやや南

 染殿小一条第土御門殿花山院に続いて、枇杷殿の歴史を見てみる。京都御苑内、蛤御門と出水口の間で皇宮警察本部の東側に枇杷殿跡の駒札が建てられているので、旧地の確認は容易である。
 枇杷殿は藤原仲平の邸宅で、左京一条三坊十五町に所在した。近衛大路を挟んで南側に藤原冬嗣、良房、基経そして忠平に伝領された小一条院がある。
 藤原仲平は貞観17年(875)藤原基経の二男として生まれている。寛平2年(890)宇多天皇の加冠により殿上で元服、昌泰2年(899)に昇殿、そして承平3年(933)右大臣、同8年(938)左に転じている。天慶6年(943)正二位に至る。末弟の忠平に比べると20年大臣昇進が遅れている。
 同母兄の時平が延喜9年(909)39歳の若さで早世する。時平の突然の死は道真の怨霊による祟りだと噂される。藤原北家の嫡流は藤原忠平に渡り、仲平は次男でありながら忠平の後塵を終生拝することとなる。
仲平が枇杷を好み、邸に枇杷の木を植えたことが名の由来とされているが、「平安京提要」(角川書店 1994年刊)には仲平の祖父の長良が既に枇杷殿と号していたことから、この伝承の信憑性について疑問を呈している。また枇杷殿を小一条第の西隣の左京一条三坊十一町に比定する説もはっきりと否定している。これは「拾芥抄」の下記の記述
枇杷殿 左大臣仲平公宅昭宣公家 近衛南室町東或鷹司南東洞院西一町


の内、近衛南室町東が左京一条三坊十一町に当る。現在の地名では烏丸通の西にある桜鶴円町と勘解由小路町あたりとなる。なお昭宣公とは藤原基経のことである。太田静六著「寝殿造の研究」(吉川弘文館 1987年刊)では、長和4年(1015)11月18日の内裏炎上の際の三条天皇の遷幸された道順から、「鷹司南東洞院西」が正しいと述べている。

 この邸宅の所有者は、藤原長良、基経、仲平、明子、明子の娘、敦忠の娘、藤原道長、妍子、禎子内親王、藤原寛子と変遷したように考えられている。「江談抄」には仲平大臣事として下記のような記述が見られる。
治部卿(伊房)談云、仲平大臣者、富饒人也。枇杷殿一町内、四分之一立柱屋、残皆立倉庫、珍宝玩好不勝計云々。


 珍宝を収める倉庫に囲まれて暮らしたような意味からすると、中島を持つ池を取り囲むように建設される一般的な寝殿造の邸宅とは異なったものであったようだ。
 続く所有者の明子とは仲平の娘で、時平の三男である藤原敦忠の妻となっている。敦忠は公家で歌人。三十六歌仙に選ばれ、百人一首にも権中納言敦忠として、

あひみてののちの心にくらぶれば 昔はものを思はざりけり


の歌が選ばれている。枇杷中納言や本院中納言とも呼ばれていたが、天慶6年(943)享年38で没している。仲平から道長の間に明子、明子の娘そして敦忠の娘と枇杷殿の所有は変わり、藤原師氏と藤原敦忠が住している。藤原師氏は忠平の四男で藤原師輔・師尹の同母兄弟。邸宅名の桃園第に因んで桃園大納言、あるいは枇杷大納言と称される。醍醐天皇の皇女・靖子内親王を降嫁されたが昇進にはつながらず、兄実頼・師輔、弟師尹が大臣まで栄進したのに対し、師氏の極官は大納言に止まる。
 師氏と敦忠以外には、源延光、延光の娘、藤原済時、済時の子、藤原朝光という人々が枇杷殿で暮らしたと考えられている。源延光は、醍醐天皇の第三皇子・代明親王の三男として延長5年(927)に生まれている。藤原敦忠の娘を妻として迎え、枇杷大納言と称される。そして源延光と敦忠の娘の間に生まれた娘が、後に藤原済時の妻となっていることから、済時と済時の子の名前が挙がっているのだろう。延光は天延4年(976)6月に病のために出家、3日後に薨去している。享年50。
 閑院左大将藤原朝光は藤原兼通の四男あるいは三男として天暦5年(951)に生まれている。最初に重明親王の娘を妻としたが後に離縁し、親くらい年上の藤原敦忠の娘すなわち源延光未亡人を後妻として迎えている。

 11世紀の初頭には藤原道長の所有に変わり、長保4年(1002)頃には大規模な改築工事が開始している。この年の夏から11月にかけて炎旱で四条以北の井戸が悉く涸れた際にも、枇杷殿の水は使えたという逸話が残っている。
 この道長による第二期枇杷殿は、寛弘2年(1005)には一応の完成を見たと考えられている。同年に起きた内裏焼亡の際、東宮居貞親王(後の三条天皇)の御所となっている。また寛弘6年(1009)10月の一条院の焼亡でも一条天皇の里内裏となっている。その後、枇杷殿は三条天皇の里内裏に当てられたが、天皇は健康が優れなかったことより、この邸宅を好んでいなかったようだ。
 このように道長に所有が移って以来、枇杷殿は道長の邸宅ではなく、血縁関係にある天皇の里内裏あるいは東宮の御所として用いられている。そのため建物も内裏を模して改修されたと考えられている。寝殿は紫宸殿、北対は清涼殿として使用され、西一対、西二対、東対、東対代、大炊室、雑舎、厩、御堂などの殿舎が建ち並んでいたことが史料から伺える。また寝殿の南側の池は上述の炎暑にも涸れないほどの水量であった。「寝殿造の研究」には枇杷殿復元略図が掲載(201頁 図38)されている。

 長和5年(1016)枇杷殿は放火によって焼失している。第三期枇杷殿の再建はすぐに始まったものの一応の完成を見たのは治安2年(1022)頃とされている。後朱雀天皇の皇后となられる陽明門院禎子内親王とその母の皇太后藤原妍子(道長の長女で三条天皇中宮)の御所に当てられている。そのため枇杷殿の道長以降の所有者は、妍子、禎子内親王、藤原寛子(頼通の長女で後冷泉天皇皇后)となる。万寿4年(1027)枇杷殿で妍子は道長に先立って没している。そして翌年の長元元年(1028)の大火で枇杷殿は類焼する。その後半世紀近く荒廃していた枇杷殿は、承暦4年(1080)再建が図られるが途中で放棄され、承徳元年(1097)太皇太后藤原寛子の御所として第四期枇杷殿が完成する。寛子は長くこの邸宅を所有し白河天皇の皇女・禛子内親王を猶子として居住していた。
 寛子が大治2年(1127)92歳の高齢で没すると、枇杷殿は後見人で寛子の同母弟の師実の孫に当る忠実に渡る。しかし保元元年(1156)の鳥羽法皇崩御に後に起きた保元の乱で、崇徳上皇についた忠実は多くの所領を失う。枇杷殿もこの時に没収され、後院領とされたらしい。

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京都御苑 枇杷殿

桃林 枇杷殿は梅林のあたり

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京都御苑 枇杷殿 のMarker List
MarkerNo名称緯度経度
赤●京都御苑 枇杷殿35.0219135.7602
01左京一条三坊十一町

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