維新殉難志士墓

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維新殉難志士墓(いしんじゅんなんししのはか) 2009年12月9日訪問

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維新殉難志士墓

 元治元年(1864)7月19日、樫原の勤王家殉難地で、楳本僊之介、相良頼元そして相良新八郎と小浜藩兵との間で交戦があり、三士が無残にも斬り殺されたこと。そして小浜藩撤退後、村人によって三人の遺骸は村外れの丘に葬られたことまで記した。この日の最後の訪問地は、この三士の墓であった。大まかな場所は分かっていたものの、実際には墓地への入口を探すのにかなりの時間を費やすこととなった。
 楳本僊之介、相良頼元、相良新八郎の3人の名は、明田鉄男氏の「幕末維新全殉難者名鑑」(新人物往来社 1986年刊)にも掲載されている。

     楳本仙之助 直政 仙吉、僊之介とも。集義隊旗手。
              下松、蛤屋弥吉の三男。
              元治元年七月十九日禁門敗走後
              洛西樫原で小浜藩兵と戦い死す。
              京都霊山と右京区樫原に墓。靖国。

     相良新八郎    薩摩藩士。脱藩して長州軍に属し、
              元治元年七月十九日洛西樫原で
              小浜藩兵と戦い死す。
              現地に墓。靖国。

     相良頼元     薩摩藩士。脱藩して宇都宮藩に走り、
              のちに長州軍に参加、
              元治元年七月十九日洛西樫原で
              小浜藩兵と戦い死す。
              現地に墓。靖国。

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維新殉難志士墓 勤王家殉難地
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維新殉難志士墓 小泉仁左衛門宅跡

 楳本僊之介は、幕末維新全殉難者名鑑では長州藩当日戦死に含まれているため、長州の人だったことが分かる。集義隊は文久3年(1863)10月、桜井慎平や佐藤新右衛門らにより結成されている。すなわち八月十八日の政変によって京から七卿と長州勢が追い落とされてから作られた諸隊の一つである。小郡在地の農民や浮浪の徒等を結集して部隊を編成し、攘夷戦争推進のため小郡宰判の警備に参加したいと藩政府に上申している。宰判とは長州藩における郷村支配の単位で、代官の管轄する地域のことを指す。すでに慶安3年(1650)には小郡には宰判があった。
 藩政府は集義隊の名称を与え、桜井の総督代行就任を承認し、山県九右衛門が隊士の募集に当たる事を許可している。隊士120名。大砲二門・剣付小銃五十挺・弾薬等が貸与され、農民兵には食料が支給されている。同年10月19日、楢崎八十槌が初代総督に就任。元治元年(1864)7月には清側義軍に参加して上京。清側義軍とは「朝廷に巣食う悪を討って君側を清める義軍」の意。久坂玄瑞と真木和泉が総管で、その下に集義隊・八幡隊・義勇隊・宣徳尚義隊・忠勇隊の6隊300名が所属する。禁門の変では鷹司邸に侵入。このことから楳本僊之介が、この戦いにおいて真木和泉軍に属し、山崎から堺町門を得座したことが分かる。
 禁門の変の後の慶応元年(1865)3月、集義隊は定員を50名に精選している。桜井を総督とし三田尻に駐屯する。第二次幕長戦争では芸州口に先鋒として出陣。彦根・高田藩兵を大いに打ち破っている。慶応3年(1867)八幡隊と合併して鋭武隊に再編成される。

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維新殉難志士墓 山陰道
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維新殉難志士墓 三宮神社御旅所前

 「幕末維新全殉難者名鑑」には、僊之介は集義隊の旗手を務めたとあるが、京都大学附属図書館には集義隊の旗が保管されているようだ。画像は無いものの緞子旗という名称で維新特別資料文庫において保管されている。なお尊攘聚英解説では以下のような説明が掲載されているようだ。
     集義隊旗 竪 6尺九〇 横 二尺〇〇

     緞子に三條實美の筆を以て「道天地將法」と墨書せる旗である。實美は長州藩の地に流寓の間、常に京都恢復の念に堪へず、頻りに長州藩諸隊の上京を冀望してゐた。されば自ら此の旗幟を揮毫して士氣を鼓舞せんとしたものである。集義隊は佐藤新右衞門が其の隊長となり、八幡隊と併せて入江九一が總督となり、元治元年六月十六日海路東上の途に就き、同月二十一日大坂に到著、二十四日山崎に陣して入京の機を窺つてゐた。然るに七月十九日遂に禁門の變勃發し、集義隊は此の旗を陣頭に翳して入京したが、戦敗れて彦根藩兵の手に奪はれた。所々帛地の缺損する跡は、往年の激戦の有樣を物語つてゐる。

 262.2×76センチメートルの旗で、七卿落ちした三条実美が揮毫したもの。恐らく堺町門の戦闘で敗れた時に、彦根藩の手に渡り、そして現在まで残ったのであろう。

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維新殉難志士墓 墓地への入口
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維新殉難志士墓 維新殉難志士墓在此丘上の道標
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維新殉難志士墓 駒札

 相良頼元と相良新八郎の兄弟は薩摩藩を脱藩して、この挙に加わったと考えられている。弟の新八郎は宇都宮藩士と称していたようなので、あるいは兄弟ともに脱藩後、宇都宮藩士となっていたのかもしれない。勿論、当時の薩摩藩が元藩士であったことを認めることは無かったが、明治33年5月5日をもって「旧鹿児島相良頼元同相良新八郎」を靖国神社へ合祀するという陸軍省告示4月21日付が出ているので、明治に入ってから薩摩藩士であったことを認めたようである。石田孝喜氏の「幕末京都史跡辞典」(新人物往来社 2009年刊)の東山区38の官修墳墓録によると、下記のようになっている。

     樫原墳墓
     在所   山城国葛野郡川岡村岡
     建設   元治元年七月二十一日当時岡村ノ
          庄屋松尾喜兵衛ノ指揮ニヨリ岡村ニ於テ
          人夫ヲ役シテ埋葬、明治三十八年七月
          墓石改造(官修墳墓費)
     募域坪数 弐坪

元治元年甲子七月十九日樫原山崎間ニ闘死 栃木 相良頼元 五十六歳
仝                   仝  相良新八郎
仝                   山口 梅(楳)本仙之助直政
                   (唱義ノ部第二号ニアリ)

 唱義ノ部第二号は山城国清閑寺霊山すなわち霊山墓地の旧山口藩が慶応4年(1868)7月に設立した墓地である。楳本僊之介の墓は樫原と霊山、そして栄山神社(旧称 山手招魂場)にある。Tsutomu TsudaさんのHP 神道講座(http://www5.ocn.ne.jp/~fugeki/sho_sakaeyam.html : リンク先が無くなりました )には栄山神社とともに楳本僊之介のことにも触れているのでご参照下さい。
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維新殉難志士墓
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維新殉難志士墓
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維新殉難志士墓

 さて維新殉難志士墓へは、樫原の勤王家殉難地の碑とその脇の小泉仁左衛門宅跡から山陰道を西に進む。樫原宿場街と札場の駒札が立つ、三の宮神社の御旅所前に出る。このまま山陰道を西に進めばよかったが、ここから2つの溜池の南側を通る道を選択してしまった。こちらの道の方が、幅員が広かったため山陰道と勘違いをしてしまった。このまま進むと再び山陰道に合流するが、維新殉難志士墓は既に過ぎ去ってしまっている。この合流地点から少し戻ったところに、維新殉難志士墓在此丘上の道標がひっそりと建っている。さらに脇にはステンレス製の駒札があるので、これが目印となった。駒札が無ければ再び通り過ぎていたかもしれない。この道標より30メートル位、藪の中に入っていくと三基の維新殉難志士墓が現れる。向って左から、楳本僊之介、相良新八郎そして相良頼元と並ぶ。この墓の周囲にも村人の墓と思われるものを目にする。どちらの墓が古いのかは分からなかったが、あるいは、村人の墓地の中に三人の遺骸を葬ったのかもしれない。
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維新殉難志士墓
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維新殉難志士墓

薩州 相良新八郎 薩州 相良頼元 と読める
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維新殉難志士墓 元治元年七月十九日戦死

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維新殉難志士墓

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維新殉難志士墓 のMarker List
MarkerNo名称緯度経度
赤●維新殉難志士墓34.9727135.6859
01勤王家殉難の地34.9746135.6939
02小泉仁左衛門邸跡34.9746135.6936
03小畠川34.9748135.6938
04樫原郷倉34.9745135.6938
05樫原札場34.9741135.6888

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この記事へのコメント

  • うめもと

    ブログで京都の遭難の地をご紹介いただいている楳本僊之介(仙之助)は、私の曾祖父の兄と聞かされています(やや記憶が不確かです)。事情もあって長年、仙之助が地元の方にこのように丁重に葬られ、供養されていることを家系の者が知りませんでした。20年ほど前から司馬遼太郎さんの小説に書かれていることなどで親族の者に知られるようになり、叔父が訪れて地元の方に感謝の意を伝えたそうです。貴ブログで墓所の写真を見ることができたいへんうれしく思っています。ありがとうございました。
    2015年08月27日 04:11

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