高台寺 その3

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臨済宗建仁寺派 鷲峰山 高台寺(こうだいじ)その3 2009年11月29日訪問

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高台寺 遺芳庵

 圓徳院庭園を観賞しているうちに、ライトアップの時間になっていたようだ。本日最後の訪問地として高台寺に向かう。圓徳院の境内からねねの道に出ると、高台寺の夜間拝観を目的として集まった人々で膨れ上がっていた。幸いに圓徳院を拝観する際に共通券を購入しておいたので、入場券を購入するために列に並ぶ必要はなかったが、それでも多くの人の後ろに並ぶ事となった。
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高台寺 台所坂

 圓徳院の項でも参照したように重森三玲・完途共著による「日本庭園史大系 9 桃山の庭二」(社会思想社 1972年刊)には、「豊臣夫人居館というのは化粧殿の事はあっても、ここに居住したわけでない。」という文書がある。これは京都坊目誌の圓徳院に関する記述を引用した後に記している。実際に碓井小三郎が大正4年(1915)に纏めた「京都坊目誌」(新修京都叢書刊行会 光彩社 1969年刊)を確認しても、重森完途(文末にKとあるので庭園の記述は完途が担当したのであろう)が断言した根拠には特に触れられていない。また以前に閲覧した高台寺の公式HPにも慶長10年(1605)にこの地に伏見城の化粧殿を移して以来、高台院は東山の地で過ごしたという旨の文書を読んだ記憶があった。しかし2012年現在、高台寺のHP(https://vinfo06.at.webry.info/201210/article_6.html : リンク先が無くなりました )を閲覧してみても、以下のように記されている。
     豊臣秀吉没後、その菩提を弔うために秀吉夫人の北政所
     (ねね、出家して高台院湖月尼と号す)が
     慶長11年(1606)開創した寺である。
     寛永元年(1624)7月、建仁寺の三江和尚を開山として
     むかえ、高台寺と号した。
     造営に際して、徳川家康は当時の政治的配慮から多大の
     財政的援助を行なったので寺観は壮麗をきわめたという。

 以上のように、高台寺の創建について触れているものの化粧殿の記述も、高台院がこの地で終焉を迎えた等の記述は見当たらない。
 また中村武生氏は氏のブログ「歴史と地理な日々(新版)」に掲載した、「幾松」の評価を再検討すべきと知る の中で、幾松、寺田屋、二条城とともに高台寺についても、「北政所(高台院)のついのつみかということになっているが、おそらくちがう。現在の仙洞御所の地の邸宅の可能性が高い。」と指摘している。同氏が監修した「中村武生と歩く 洛中洛外」(京都新聞社 2010年刊)の「御苑内にあった「京都新城」」において、高台寺について触れていないものの、高台院はその晩年を京都新城で過ごしたとしている。さらに山内一豊夫人である見性院も高台院の近くに屋敷を持っていたことも説明している。また同氏の「京都の江戸時代を歩く 秀吉の城から龍馬の寺田屋伝説まで」(図書出版文理閣 2008年刊)にも柳馬場通丸太町、京都市裁判所の北側に残る桑原町内に見性院の屋敷があったと記している。現在の桑原町は丸太町通の南側の狭い範囲になっているが、かつては北側にも広がっていたと思われる。すなわち京都新城と同じく現在の京都御苑内かその近傍に見性院の屋敷があり、高台院との親交は続いていた。慶長10年(1605)に夫の一豊が没すると、見性院はすぐに高知を去り京都に住まいを移している。そして元和3年(1617)に京都で没している。見性院は高台院より短命だったようだ。見性院の没後すぐに、山内家は桑原屋敷を引き払ったようだ。既に京都での高台院に対する政治的な接触の必要性とそのチャンネルが失われたためとも考えられる。
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高台寺 庫裏
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高台寺 庫裏 2008年5月16日撮影

 この項では豊臣秀吉の死去より、関ケ原の戦いまでの北政所とその縁者である木下家の人々の行動について、まずは書いてみようと思っている。

 慶長3年(1598)豊臣秀吉が亡くなると、翌慶長4年(1599)には、北政所は形の上では大坂城西の丸を徳川家康に明け渡し京都新城へ移っている。京都新城とは聚楽第に対する新城という意味である。聚楽第は関白になった豊臣秀吉の政庁兼邸宅として天正14年(1586)に着工され、翌天正15年(1587)には完成している。秀吉は九州征伐を終え、大坂よりここに移り政務をみている。天正19年(1591)に秀吉が豊臣氏の氏長者・家督および関白職を甥の豊臣秀次に譲ると、聚楽第も秀次の邸宅となる。しかし文禄4年(1595)秀次が和歌山県の高野山に追放され切腹すると、翌月には居城であった聚楽第も徹底的に破却される。
 京都における豊臣氏の政庁の役割は、秀吉が聚楽第を譲った後の文禄元年(1582)より普請を開始した伏見城に代替された。しかし御所のある京を自らの城下町とする構想は失われてはいなかったようだ。内藤昌氏の「豊臣家京都新城-武家地の建築 近世都市屏風の建築的研究-洛中洛外図・その6-」(昭和47年(1972)日本建築学会大会学術講演梗概集)によると慶長2年(1597)正月より京都新城の縄張りは始められている。またこの時期は、前年の慶長元年(1596)7月12日に発生した慶長伏見地震により倒壊した指月山伏見城の再建中にもあたる。京都新城は現在の仙洞御所の「アコゼカ池」を取り込む南北6町東西3町の敷地に建設され、同年9月26日に秀吉と秀頼が新城に移徒している。「アコゼカ池」とは仙洞御所の阿古瀬淵であり、平安時代には紀貫之の邸宅があったことで知られている。現在でも紀氏遺蹟碑が建つ。聚楽第に比べても規模の大きな京都新城は実質5ヶ月の短工期で竣工させたのは、9月28日の秀頼の参内に合わせて行なわれたと考えられている。なお、この日秀頼は禁裏において元服、従四位下に叙され左近衛権少将となるが、翌日には左近衛権中将に昇進している。
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高台寺

 豊臣秀吉が伏見城で没したのは慶長3年(1598)8月18日のことであった。この時期の京都新城の記録は少ないが、上記のように没後1年経た慶長4年(1599)9月26日、北政所は大阪城西の丸の屋敷を出て京都新城に移っている。跡部信氏の「高台院と豊臣家」(大阪城天守閣紀要第34号 2005年)によると、9月7日に伏見城から大阪入りした徳川家康は、大阪城内の石田正澄屋敷に仮住まいしていた。前田利家が既に3月3日に病死しており、家康は大阪に居城する機会を狙っていたと思われる。北政所が明け渡した西の丸の屋敷に、家康は直ぐに移っている。これが北政所と家康の間で取り決めがあったかは分からないが、後世に家康が北政所を追い出したように謂われ、関ケ原の戦いにおいて家康の罪状の一つとして数えられている。
 または淀殿の密通噂に伴い、淀殿と北政所との確執に京都新城への移徒の理由を見出す記述も多い。しかし跡部氏は上記の論文内で、その可能性が低いことを明らかにし、北政所と淀殿の対立構図の中でその後の北政所の行動を説明することに誤りを生じる恐れを指摘している。すなわち、篤実の明である北政所が虚慧の智の淀殿と悉く対立したことにより、秀吉の没後に政治の一線から身を引いた北政所は、京で仏道三昧の隠遁生活を送った。これが一般的な認識であったが、大津城の戦いの調停などに協同的な動きを示すなど、必ずしも対立構造のみではなかったことは明らかである。

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高台寺 遺芳庵
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高台寺 遺芳庵 2008年5月16日撮影

 慶長5年(1600)9月15日に起きた関ケ原の戦いにおいて、北政所の兄である木下家定は、東軍と西軍のどちらにも属さず中立を保ち、北政所の警護を務めたことが認められ、備中足守25000石が与えられている。
 家定の嫡子であり東軍に属していた木下勝俊は、鳥居元忠と共に伏見城の守備を任されていた。しかし西軍が攻め寄せる直前に城を退去するという敵前逃亡と思われる行動に出ている。そのため領地である若狭小浜を没収あるいは返上し、勝俊は京都東山に挙白堂を建て隠棲し、長嘯子を号している。勝俊は若い頃より和歌に才能を発揮し、小堀政一や伊達政宗といった大名をはじめとして、林羅山や春日局といった幕府の要職にあった人たちや、藤原惺窩とその息子の冷泉為景、松永貞徳、中院通勝の文化人らとも交流を持っていた。そして弟子には山本春正や岡本宗好、打它公軌といった人たちがいる。
 家定の次男で高浜20000石を領していた木下利房も、関ケ原の戦いにおいて西軍に属し大聖寺城に援兵を送ったため、戦後に改易されている。また木下俊定も西軍に属し、大津城の戦いに参戦し改易されている。家定の五男で小早川隆景と養子縁組させられた小早川秀秋は西軍に属していたものの、最終的には東軍に寝返っている。そして六男の木下秀規も西軍に属している。
 つまり木下一族は、木下家定が中立を守ったというよりは、妹の北政所とともに西軍に属さなかったことが大きく評価され備中足守25000石が与えられている。
 東軍に属したのは木下勝俊と延俊であったが、兄の勝俊は戦場から離脱したため戦後に領地を失っている。弟の延俊だけが一族の中で唯一最初から東軍に属し戦功上げている。戦後に豊後日出30000石が与えられ、日出藩初代藩主にもなっている。

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高台寺
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高台寺 2008年5月16日撮影

 木下利房、俊定、秀規、小早川秀秋の4名は西軍に属している。そして利房、俊定、秀規の3名は、西軍として敗戦を迎えたため改易の憂き目を見ている。また東軍への寝返りが評価され岡山藩550000石が与えられた秀秋も関ケ原の戦いの2年後の慶長7年(1602)に、裏切った西軍の諸将の祟りにあったように早世している。
 このように関ケ原の戦いが終わった時点で、北政所の縁者達の立場は、かなり良くない状況にあったと言うよりは、かなり危機的な状況にあったことは間違いない。最終的に東軍に属して関ケ原の戦いを終えた木下延俊と小早川秀秋を除き、一族より1名の日和見主義者と1名の敵前逃亡罪者、そして3名の改易者を生み出している。それにもかかわらず唯一人もの処刑者を出さなかったことは、北政所の執り成しによっていることは明白である。

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高台寺 庭園

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高台寺 その3 のMarker List
MarkerNo名称緯度経度
01高台寺 台所坂35.0005135.7802
02高台寺 庫裏35.0008135.7808
03高台寺 遺芳庵35.0011135.7813
04高台寺 偃月池35.0010135.7815
05高台寺 臥龍池35.0008135.7818
06高台寺 書院35.0009135.7812
07高台寺 方丈35.0007135.7812
08高台寺 方丈南庭35.0005135.7812
09高台寺 勅使門35.0004135.7812
10高台寺 観月台35.0009135.7814
11高台寺 開山堂35.0009135.7816
12高台寺 臥龍廊35.0009135.7819
13高台寺 霊屋35.0009135.7821
14高台寺 傘亭35.0006135.7826
15高台寺 時雨亭35.0005135.7826

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この記事へのコメント

  • はま くり

    ありがとうございます。あまりの素晴らしい記録に感極まり大変参考になりました。できることなら同行させていただきたいです。
    2017年10月03日 20:22

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