妙心寺 桂春院

妙心寺 桂春院(けいしゅんいん)  2009年1月12日訪問

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妙心寺 桂春院 真如の庭


 妙心寺の北総門から入り、そのまま参道に従って南に進むと、庫裏、法堂、仏殿そして三門という妙心寺の主要伽藍に行き着く。北総門を潜ってすぐに左手に曲がり、そのまま東に進むと光國院の山門が現れわれる。さらに道なりに進むと、蟠桃院の東側に空地がある。この空地に面して雲祥院、長慶院そして桂春院、大雄院の4つの塔頭が並ぶ。この内で常時公開しているのは桂春院である。

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妙心寺 桂春院 山門

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妙心寺 桂春院 左は庫裏

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妙心寺 桂春院


 桂春院は臨済宗東海派に属する。妙心寺の公式HPにも、龍泉庵、東海庵、聖澤院、霊雲院の4つの塔頭が、法堂、仏殿、三門とともに掲載されている。これら4塔頭は、妙心寺の龍泉派、東海派、聖澤派、霊雲派の四本庵となっているためである。龍泉派の開祖は妙心寺10世の景川宗隆禅師で、妙心寺の四本庵の中で最初に創建されている。東海派の開祖は11世の悟渓宗頓禅師。聖澤派の創建開祖は18世の天蔭徳樹で勧請開祖は13世の東陽英朝。霊雲派の創建開祖は25世の大休宗休、勧請開祖は12世の特芳禅傑となっている。

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妙心寺 桂春院 清浄の庭

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妙心寺 桂春院 清浄の庭

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妙心寺 桂春院 清浄の庭 書院と方丈をつなぐ華頭窓から眺める


 桂春院の創建の歴史は明らかでないようだ。慶長3年(1598)戦国武将の津田秀則が見性院を創建したとされている。妙心寺の公式HPにも、妙心寺73世水庵宗掬を開祖とし津田秀則によって創建されたとしている。その上で石川貞政が桂南守仙を開祖とし見性庵を創建したという説も併記している。
 津田秀則は美濃岐阜城主である織田信忠の次男として天正9年(1581)に生まれている。異母兄に織田秀信がいる。文禄4年(1595)兄とともにキリスト教に入信し、パウロという洗礼名を得る。そして慶長3年(1598)に見性院を創建する。慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いで、兄と共に西軍に属し、美濃岐阜城に籠城する。戦後、兄秀信は改易となり、秀則は豊臣家を頼り大坂城下に移り住む。豊臣家の滅亡にともない、京都に移り住む。晩年は剃髪し、宗爾と称した。寛永2年(1625)京都で死去、45歳。

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妙心寺 桂春院 侘びの庭

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妙心寺 桂春院 侘びの庭

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妙心寺 桂春院 既白庵


 秀則が亡くなってから少し経った寛永9年(1632)、旗本の石川貞政が亡父・石川光政の50年忌の追善供養のために見性院を買い取っている。桂南守仙を請じ、寺名は父の法名「天仙守桂大禅定門」、母の法名「裳陰妙春大姉」から2文字をとり桂春院と改めている。またこの時、近江長浜城から茶室、書院等を移建している。現在の方丈は当時のものとされている。寛政11年(1799)に刊行された都林泉名勝図会には下記のように記されている。

     桂春院〔林泉妙境なり、檀越石河蔵人〕

 石川貞政は、天正3年(1575)石川光政の子として美濃に生まれている。豊臣秀吉に出仕し、秀吉股肱に重臣となり、近江長浜城主に封じられている。秀吉の没後、徳川家康の会津征伐に従軍し、関ヶ原の戦いで東軍として福島隊に属し戦う。その後、豊臣秀頼に仕えて5020石を知行する。慶長19年(1614)片桐且元が大坂城を退去すると前後して貞政も退去し、高野山に上り剃髪している。大坂の陣では徳川方として戦い、旗本となる。寛永年間に編纂された「寛永諸家系図伝」では、姓を石川から石河と改めている。直参旗本として江戸に在勤したが、老後、京都に移り北野今小路に閑居し、余世を茶道に親しんだ。明暦3年(1657)83歳の高齢で歿する。法名は桂春院殿前壱州大守安叟禅石大居士。墓は桂春院境内東の墓地にあり、一族歴代の墓も傍らにある。

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妙心寺 桂春院 思惟の庭

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妙心寺 桂春院 思惟の庭


 見性庵の開祖とされている妙心寺73世水庵宗掬は美濃鏡島城主石川家の出身である。宗掬は天文2年(1553)の生まれで、慶長17年(1612)に入寂していることから、天正3年(1575)生まれの石川貞政より一世代前の人とも言える。桂南守仙も石川光成の二男とされ、水庵宗掬の法を嗣いでいる。守仙は天正17年(1589)生まれとされているから、ほぼ貞政と同世代人と見ることができるだろう。
このように桂春院は石川貞政を含め美濃石川氏の流れを汲む人々の集う場であったのかもしれない。石川貞政の父・石川光政までの石川氏4代は美濃鏡島城主となっている。貞政は若くして秀吉に出仕したため城主とはなっていないが、秀吉の重臣となり近江長浜城の城主となっている。江戸時代に入った寛永9年(1632)に、貞政はどのような経緯か分からないが、かつての居城であった長浜城の建物を桂春院に移していることとなる。

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妙心寺 桂春院

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妙心寺 桂春院 真如の庭


 GoogleMapの航空写真を見ると桂春院の内部空間の理解が容易になる。西に面した山門を潜ると、北側に庫裏、南に方丈の2つの建物が現れる。拝観順路に従い庫裏から入る。庫裏の玄関から東に進むと、北側の庫裏と南側の方丈との間に創られた坪庭が現れる。ここが桂春院の4つの庭の一つである「清浄の庭」となっている。井筒を中心として西南隅に紀州の巨岩・奇石を直立した枯滝の石組を配している。東側に華頭窓が置くことで、井戸と石組みを華頭窓という額縁越しに見せる構図となっている。北側の庫裏の先には書院が続く。この書院南面から東面にかけての庭が「侘の庭」と呼ばれている。この庭は書院の東端に造られた茶室・既白庵への露地庭となっている。露地は梅軒門と猿戸によって内露地、外露地にわかれる。

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妙心寺 桂春院 真如の庭

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妙心寺 桂春院 真如の庭


 庸軒好みの茶室・既白庵は、書院の背後の東北隅に隠れるように造られている。書院と茶室のあいだは二重襖によって仕切られ、また露地庭の蹲踞も土蔵の壁に接して、樹木等でさえぎられて目立たぬようになっている。坐禅修行を第一義とした妙心寺では、詩歌、香道、能楽、茶道等の芸術味を愉しむことを邪道とし、これに耽けるものは入牢の錠まであった。
 前述のように、この茶室は寛永8年(1631)近江長浜城より書院とともに移したものと伝える。東部を切妻造とし出庇をつけた柿葺の建物で、内露地からみると、深い庇のうちの右上の刀掛けがあり、にじり口の上には連子窓があって、その上に桂南和尚の筆になる既白の額がかかげられている。茶室の内部は茶道口が西側南寄りにあって、風炉先窓、二重の釣棚がある。
 三畳に中柱を立て台目切の炉を置いていることから、二畳台目席に見えるが、点前畳が本畳なので、三畳台目切席である。床の右には縁なしの襖二枚があって、襖をあけると書院へ出られる狭い板廊下になっている。普通は給仕口になるところであるが茶室を隠すために、昔は書籍棚になっていたという。また天井は床前が長片天井で、点前畳上は網代の落天井、にじり口の上は竹の掛込天井となっている。

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妙心寺 桂春院 真如の庭

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妙心寺 桂春院 真如の庭の裏側から方丈を眺める


 藤村庸軒は慶長18年(1613)千家とつながりの深かい久田家初代の久田宗栄の次男として生まれている。京都の呉服商で屋号を十二屋という藤村家に養子として入る。久田家は初代の宗全の後を庸軒の兄である宗利が継いでいる。宗利は千宗旦の娘クレの夫でもある。一方、藤村家は伊勢の藤堂家の御用を務め、金戒光明寺の塔頭・西翁院を祖父の宗徳の時代に建立し、一族の墓所としている。このことを以ても藤村家の財力が類推される。また庸軒も西翁院に有名な淀看席を造っている。金戒光明寺の西側斜面に作られた茶室からは、京都の町並み越しに山崎が眺められる。30年も前の学生時代に訪問した際、実際に見えない淀の流れを茶室の名とすることで、見た心地になることを楽しむという説明を受けたように記憶する。イメージの中で遊ぶという高等遊戯の奥深さを感じた瞬間であった。実際には、この地から淀の流れは見えたのであろうか?西和夫氏は「京都で「建築」に出会う」(彰国社 2005年刊)で下記のように記している。

     この茶室は丘の端に位置し、南西の方向は眺望が開けていて、かつては淀川のあたりが見えた可能性はある。もちろん、本当に見えそうなほど景色がよいという意味での命名の可能性はあるが、とにかくここから淀川を見るという行為が、いつしか茶室の名前となった。ただし、この茶室の侘びた意匠から見て、庸軒がそのようなことを主眼に設計したとは考えられないというのが諸説の一致したところで、澱看席という名がつくのは、意外に新しいことかもしれない。
 インテリ茶人の庸軒は、「淀より舟に乗り難波に逝く」と題する漢詩で淀川の景色を見事に描写している。この茶室から淀川の絶景が見えることをよく知っていたに違いない。にもかかわらず、あえて景色を売り物にしなかった。謙虚さを見習わなければなるまい。

 庸軒の茶道は、住まいが同町であった藪内紹智に学び、古田織部あるいは小掘遠州、金森宗和にも学んだと伝えられている。その後に千宗旦に師事する。千家の奥義を究め、宗旦門下の四天王(山田宗偏、杉木普斉、藤村庸軒、松尾宗ニ)であった。また漢学を三宅亡羊、山崎闇斎に学び、詩文をよくした。独自の境地を開いた庸軒の茶系は庸軒流として続いた。庸軒は元禄12年(1699)87歳で歿した。墓は黒谷西翁院にある。

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妙心寺 桂春院 境内の東端


 石川貞政が寛永9年(1632)に書院と共に既白庵を長浜城から移したということを信用するならば、既白庵は後世に庸軒好みに改修されたのかもしれない。庸軒は慶長18年(1613)生まれであり、寛永9年(1632)の時は20歳にもなっていない。そして西翁院に淀看席を建てたのは、貞享2年(1665)あるいはその翌年と考えられているからだ。恐らく、後に既白庵は誰かの手により改められたのであろう。

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妙心寺 桂春院 庫裏


 再び書院の南面を戻り、方丈に移ったところに桂春院の3番目の庭「思惟の庭」が築かれている。方丈東側の左右の築山に、十六羅漢石、中央の礎石を坐禅石にみたてている。方丈は前述のように寛永8年(1631)に建立された単層、棧瓦葺の入母屋造。内部中央に仏間と室中の間を設け、正面に本尊薬師如来を安置する。内部襖絵はすべて狩野山楽の弟子狩野山雪の筆になる水墨画で、室中は山水、枯木に鴉、芦に泊り船、仏字人物雪の図、東の間は芦原に洛雁、雪竹に茅屋の図、西の間は老松に滝根笹の図があり、金碧松三日月画はもと仏壇背後の壁に貼付画を襖に改装したものである。
 方丈南庭は「真如の庭」と呼ばれている。方丈南側の崖をつつじの大刈込みで蔽い、その向うは一段低くなり生い茂る楓の樹木におおわれ、一面に杉苔の美しい中に、それ程大きくない庭石を配している。方丈より庭に下り、境内の東端にゆくことができる。その際に真如の庭の方丈の縁からの高低差とその奥行きの浅さを実感できるだろう。

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妙心寺 桂春院