泉涌寺・東福寺の町並み

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泉涌寺・東福寺の町並み(せんにゅうじ・とうふくじのまちなみ) 2008年12月22日訪問

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泉涌寺・東福寺の町並み 左に道が続く 右は泉涌寺 悲田院の山門

 悲田院の墓地より京都の市街地を眺めた後、山門から境外に出る。泉涌寺の大門で教えられた東福寺への近道に従い、泉涌寺道へ少し戻ると南に下って行く道に出会う。 前回の訪問(2008年5月10日)の時は、北側に延びる階段を下った。この道は京都市立月輪中学校の西側を通り、そのまま進む(北進)と法音院の東で泉涌寺道に戻ってしまう。そのため途中を西に曲がり住宅街に入っていった。京都第一赤十字病院の裏手から、勝林寺へ続く階段や海蔵院を見ながら臥雲橋に至った記憶が残っている。この道筋は確かに、泉涌寺道を伏見街道まで戻ることや、東大路通から九条通に出て跨線橋を下るのに比べると距離が短いものの、決して近道とは言えるものではない。
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泉涌寺・東福寺の町並み 車の上方に道標が見える
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泉涌寺・東福寺の町並み 細い階段を下っていく

 泉涌寺道から悲田院の山門に至る途中から南に下って行く道には、実に小さな手書きの道標が掛けられている。これに気が付く人が、果たしてどの位いるのだろうか?この道は京都市立日吉ヶ丘高校の校庭と賀陽宮墓地・久邇宮墓地との間を南西に進みながら、徐々に下って行く。坂道が終わり平地に出たところで、東福寺の境内の東外れの高台に出会う。木々が濃いものの高台の上に何か人工物があることが分かる。どうも西郷が銘文をしたためた薩摩藩士東征戦亡之碑と戦死した藩士等の名を刻んだ石碑のように見える。ということはこの場所が東福寺 即宗院の最も東奥の場所となる。
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泉涌寺・東福寺の町並み 普通の道に合流した箇所
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泉涌寺・東福寺の町並み 木々の上部

 慶応4年(1868)1月3日、小枝橋での新政府軍と旧幕府軍との衝突から始まった鳥羽・伏見の戦いから関東・東北におよぶ戊辰戦争で戦死した薩摩藩士等の524名の名前が5基の西向きの碑に刻まれている。西郷は明治2年(1869)即宗院に約半年籠り、この銘文を書きあげたと言われている。西郷の年表を見てみるとこの年の記述が非常に少ない。恐らく中央政界と島津藩、特に島津久光との板ばさみになっていた時期と考えられる。
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泉涌寺・東福寺の町並み 鉄の帯で補強された石碑が見えるような…
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泉涌寺・東福寺の町並み 東福寺 即宗院 薩摩藩士東征戦亡之碑と戦死者の石碑

2008年11月22日撮影

 この前年の明治元年(1868)11月初めに鹿児島に戻った西郷は、日当山温泉で静養している。1月に藩の役職を辞任し、政府への出仕も辞している。前年の6月頃から健康を害していたのが、この頃まで続いたのだろうか?2月には藩主・島津忠義に請われて藩の参政・一代寄合となり、5月に函館の榎本軍討伐増援のため、精兵を率いて赴くが、戦いは終わっていたため直ちに引返している。戊辰戦争も終結し、6月維新の功により、永世2000石の賞典禄を受け、9月辞退するものの正三位に叙せられる。この後、新政府の参議となるのは明治4年(1871)6月のことであった。恐らくこの期間に薩摩藩士東征戦亡之碑を建立したのであろう。

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泉涌寺・東福寺の町並み 正面に京都タワーが見える 右は日吉ヶ丘高校の石垣
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泉涌寺・東福寺の町並み 東福寺 即宗院の木立
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泉涌寺・東福寺の町並み 再び手書き道標の登場

 日吉ヶ丘高校を右手に見ながら進むと、東福寺僧堂へ続く簡素な門が現れる。この僧堂は普門院・開山堂の北側に位置する堂宇である。このまま東に進むと臥雲橋のある日下門前の南北路に出る。

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泉涌寺・東福寺の町並み 東福寺 僧堂

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泉涌寺・東福寺の町並み のMarker List
MarkerNo名称緯度経度
01泉涌寺 悲田院34.9794135.7768
02朝彦親王墓34.9772135.7788
03賀陽宮墓地 久邇宮墓地34.9776135.7782
04泉涌寺 大門34.9782135.7791
05東福寺 即宗院 薩摩藩士東征戦亡之碑34.9775135.7762
06東福寺 即宗院34.9772135.7753
posted by Vinfo at 06:49Comment(0)TrackBack(0)

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