並河靖之七宝記念館

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並河靖之七宝記念館(なみかわまさゆき しっぽうきねんかん) 2008年05月16日訪問

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並河靖之七宝記念館

 佛光寺本廟の山門を出て、粟田神社からの道を再び戻る。粟田神社の感神院新宮の額がかかる石造りの鳥居の前から三条通へと続く参道を抜け、三条通を西に進む。白川の手前を北側に入ると並河靖之七宝記念館が左手に現れる。
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並河靖之七宝記念館 外観 京格子と虫籠窓
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並河靖之七宝記念館 主屋 池が床下に流れ込んでいく

 明治大正期を代表する七宝作家・並河靖之は江戸時代末期の弘化2年(1845)武蔵国川越藩の藩士高岡九郎右衛門の3男として京都柳馬場に生まれる。その後、安政2年(1855)青蓮院宮侍臣並河靖全の養子となり、養父亡き後は家督を相続し青蓮院宮近侍となる。靖之は明治6年(1873)頃より中国七宝焼の鬼国窯の模造を試みるなど、宮家に仕えるかたわら七宝業を始める。翌7年(1974)には尾張七宝の祖・梶常吉の流れをくむ塚本貝助(1828~87)の弟子・桃井儀三郎英升に七宝技術を学ぶ。明治8年(1875)に開催された第4回京都博覧会に七宝花瓶を、同10年(1877)第1回内国勧業博覧会には鬼国窯舞楽図花瓶を出品し受賞を重ねている。明治11年(1878)に開催されたパリ万国博覧会に銀製七宝茶入を出品して銀賞を受賞するなど、その後も内外の多くの賞を得ている。この年に久邇宮(元青蓮院宮)家従を辞し、七宝製造業に専念している。

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並河靖之七宝記念館 庭 東側
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並河靖之七宝記念館  庭 中央
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並河靖之七宝記念館 庭 西側 渡り廊下の先は手洗い

 その後、明治22年(1889)日本美術協会会員となり、明治29年(1896)帝室技芸員に選ばれる。明治23年(1890)に工芸技術の保護と制作奨励を図るためにフランスのアカデミーにならって制定されたと言われているこの制度は、昭和19年(1944)まで続き、日本画、工芸を中心に洋画、彫刻、建築、写真などの分野で55年間に79名が任命されている。戦後に制定された重要無形文化財保持者いわゆる人間国宝の工芸技術部門は、平成22年1月現在 54人+14団体である。しかし故人は解除されているため、今までに認定されてきた人の数は160を超えると思われる。そういう見方からすると帝室技芸員に選出されることの名誉が伝わってくる。ちなみに工芸で24名選出されているが、七宝に関しては涛川惣助と並河靖之の2名である。 並河靖之は大正12年(1923)工房を閉鎖し、昭和2年(1927)に83歳で没している。

 この並河靖之七宝記念館は、明治27年(1894)工房を兼ねた並河邸として竣工している。外観は京格子と虫籠窓を備えた大規模な表屋作りで、京都の伝統的な商家を思わせる。表屋・主屋・旧工房・旧窯場は国登録有形文化財に指定されている。

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並河靖之七宝記念館 主屋の窓越しに南側の庭を眺める

 並河邸の庭は七代目・小川治兵衛によって作庭されている。
 治兵衛は万延元年(1860)に山城国西神足村(現在の長岡京市)の山本藤五郎の次男・源之助として生まれている。明治10年(1877)三条白川橋で造園業を営む小川家の婿養子に入り、翌年には家督を相続し、七代目・小川治兵衛を襲名している。京都通信社刊の「植治 七代目小川治兵衛 手を加えた自然にこそ自然がある」の年賦に従うと明治18年(1885)より始まった琵琶湖疏水工事も明治23年(1890)には第一期工事が竣工している。治兵衛はこの疎水の水を初めて庭園に活用したのが並河邸になる。三条白川橋に居を構える小川家にとって、並河邸は隣家にあたる。ここに七宝焼の研磨のために大量に水を使用する工房を中心とした住居を計画すると聞いたとき、疎水の利用とそれを庭園の中心となる池に使用することはすぐに決定したのではないだろうか。 また規模は異なるが、治兵衛の代表作となる山縣有朋の無鄰菴にも同時期に着手していることは注目に値する。
 実際に並河邸の庭園に立つと、このそれほど大きくない敷地の大部分は池で占められていることが分かる。池は主屋の南東の床下まで入り込み、建物は池の上に張り出しているように感じさせ、庭と建物一体化が図られている。池に浮かぶ岩島を建物の礎石に使用する例は、智積院庭園にも見られるように昔からある手法である。しかし民家でこのような使い方を見ると、つい床下の換気をどのようにすべきか考えてしまう。本来はもう少し池面を下げ、床下の通風が取れるようにしておくべきであろうが、ここでは建物の奥までは池を導いていなことが分かる。床下には濃い陰が落ちるため、それ程深くなくても十分に表現できる訳である。このあたりに治兵衛の実質的な処女作としての意気込みと配慮の跡が見えてくる。

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並河靖之七宝記念館  主屋の東側から庭を眺める
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並河靖之七宝記念館 主屋の東側から庭を眺める

 この庭は主屋から東南方向を眺めるために構成されているが、回遊できるようにも創られている。主屋の東と南には沓脱石が置かれ、それぞれ庭へとつながっている。南側は手洗いへつながる渡り廊下の前を通り、池の中の飛石を伝わって主屋の東側に出る。主屋の東側の沓脱石は巨大な2本の石が当てられている。これは大津の膳所城の櫓の葛石(基壇の上端の縁石)ともいわれている。その先にも大きな円形をした伽藍石が使われている。沓脱石の脇に作られた濡縁の先には鞍馬石で作られた一文字型手水鉢が置かれている。石造にも関わらず柔らかさを感じさせる巨大な丸みを帯びた手水鉢は石組みの上に置かれているため、庭面から浮上しているようにも見える。
相対的に庭の面積に比べて巨石を使い、大きめの中島を作っている。これは庭全体が小さく纏まることがないように、治兵衛が意図的に行ったことかもしれない。

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並河靖之七宝記念館 主屋の東側の庭 葛石と伽藍石が見える
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並河靖之七宝記念館 主屋側を眺める 伽藍石と葛石

 狭い敷地に2階建ての主屋を入れるなど、庭を作る上で難しい条件が多かったことと思われる。現在は隣家が敷地境界まで建っているため、敷地外の風景は真上の空しか見えない。しかし昔は東山方向の眺望が得られていたとも聞くので、今よりは開放的な雰囲気が味わえたのであろう。いずれにしても小川治兵衛の仕事の中心が東山を借景とした大邸宅の庭園に移っていく中で、この並河邸は単に処女作というだけでなく、この後の作品群のエッセンスを凝縮した作品に成り得ている。

 最後にこの庭の管理について。この庭を拝観している際に、美術館の方と造園家と思われる人が話しをしている光景を見かけた。この庭は小川治兵衛が作庭した時の姿と異なっているというような会話に聞こえた。ともかく現在の庭には余計なものが多い。どの時代に誰の好みで置いた物かは分からないが、明らかに意味を成していないものが多くある。庭の植木を剪定するように、まず庭と建物もオリジナルの姿とコンセプトを保存し、それが後の時代に改変されることがないように管理する重要性を強く感じた。

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並河靖之七宝記念館 通り庭

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並河靖之七宝記念館 通り庭 京の町家建築

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並河靖之七宝記念館 のMarker List
MarkerNo名称緯度経度
赤●並河靖之七宝記念館35.0098135.7813

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