翠紅館跡

翠紅館跡(すいこうかんあと) 2008年05月16日訪問


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翠紅館跡



 清水寺から高台寺に向けて二寧坂を下ってくると、正面に高台寺の巨大な駐車場と霊山観音が現れる。この二寧坂の終わる右角に京懐石を供する京大和という料亭がある。その門前には翠紅館跡の碑が建つ。


 もともとこの地には正法寺の塔頭・東光寺が建てられていた。正法寺の始まりは延暦年間(782~805)に最澄が開創した天台宗の寺院・霊山寺だと伝わっている。桓武天皇の平安遷都が延暦13年(794)であるから、上記の伝承が正しければ、遷都以前に建立された寺院となる。その後、光孝天皇や宇多天皇の勅願所となり、元久年間(1204~1206)法然上人がここを法然念仏の道場としている。
 そして永和2年(1376)国阿上人が入寺して時宗霊山派の本山とし、寺号も正法寺に改める。国阿上人は播磨国に生まれ、熊野などの山岳における修行に勤め、伊勢神宮を信仰している。

 ある時、上人は伊勢神宮参詣の途上、女性の死骸に出会う。その亡骸を手厚く葬るが、死に触れた穢れのため参宮を中止しようとする。その時、死骸に化身していた天照大神が現れ、上人の慈悲心を試したことと不浄を嫌わず参詣すべきと告げた。このことから正法寺は伊勢神宮参詣の前に無事を祈る寺となったようだ。

 国阿上人は後小松天皇や3代将軍足利義満の帰依を受け寺運は興隆し、盛時には数十の塔頭を有する大寺となっていた。その後、火災などにあい次第に衰微していくが、江戸時代に入っても幕府から朱印状が与えられ、塔頭十余宇を有していた。塔頭の中には眺望の地として書院造庭園の美を尽くし庶民の遊宴地となるものもあった。元治元年(1864)に刊行された花洛名勝図会には、多くの塔頭が描かれている。
 しかし明治3年(1870)の頃には霊山寺、清林庵、永寿院、切徳院、正智院、往生院、方廣庵、東光寺の8塔頭となり、現在は本堂(釈迦堂)・庫裏などを残すのみとなっている。


 話しを翠紅館に戻すと、この正法寺の塔頭も円山にある安養寺の六阿弥と同じ様に、庶民の遊興や文人墨客の詩歌・書画会などの貸席として使われていたようだ。現在では円山公園の一部となってしまったが、六阿弥の也阿弥が西洋式ホテルに変わったのに対して、こちらは比較的昔と同じ形態を残しているとも言えるだろう。
 京大和の公式HPによると、鎌倉時代の後期に四条大納言隆親の三男・権中納言隆良が、この地に別荘を建て「鷲尾」と号していたとしている。また淑阿弥とも称されていたらしい。先の花洛名勝図会の左下には「翠紅館有」と書かれているが、安永9年(1780)に刊行された都名所図会の同じ場所には淑阿弥とある。京大和の公式HPによると、この別荘は江戸時代の初期に高台寺建立のために取り上げられ、再び鷲尾家の別荘となったのは天保年間(1830~1843)で、鷲尾隆聚の頃であったとされている。鷲尾隆聚は天保13年(1843)生まれであるので、隆聚自身が翠紅館を買い受け、改築して住んだ後に、建物と庭を含む全てを西本願寺に寄進したという京大和の説明には少し無理があるようだ。先に参照したフィールド・ミュージアム京都の翠紅館跡の碑の説明には天保年間(1830~1843)には西本願寺の所有となっていたとされている。元治元年(1864)に刊行された花洛名勝図会の霊山翆紅館の説明にも、


     霊山山中北西元淑阿弥の地 今本願寺御門主の別業



とあるように、かなり前から西本願寺の所有となっていたようだ。

この地で、文久3年(1863)1月27日には土佐藩 武市半平太、長州藩 井上聞多、久坂玄瑞ら、6月17日には長州藩 桂小五郎、久留米藩 真木和泉らが集まり、攘夷についての打合せが行われた。この6月から8月にかけて、真木和泉と長州藩が中心となり攘夷親征運動を起こしている。そして8月13日に大和行幸の詔が公布されている。そして八月十八日の政変が起こり、京での主導権は長州藩から薩摩藩と会津藩に移っていく。



 花洛名勝図会には霊山翆紅館の眺望の素晴らしさが伝わる図会も残されている。敷地内に入ることができないが、八坂の塔が真正面に見える中庭がある。この場所でスティーヴン・スピルバーグ製作のSAURIが撮影されたことが京大和のHPに記されている。またNHKで平成16年(2004)に放映された「恋する京都」の中で、京都の市内をバックとして八坂の塔を描く場面が現れるが、塔との位置関係から見て、おそらくここで撮影されたと思われる。実に美しい光景であったことを覚えている。


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