一保堂茶舗

一保堂茶舗(いっぽどうさほ) 2008/05/15訪問


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一保堂茶舗 寺町通の店構え



 京都御苑から寺町通を南に下ると、夷川通の先に一保堂茶舗の大きな建物が現れる。言わずと知れた日本茶の専門店である。まず贈答品でお茶となれば最初に思いつく店でもある。

 一保堂が扱うお茶は、いわゆる京銘茶と呼ばれるものである。特に木津川、宇治川両水系の気候で栽培され、宇治発祥の宇治製法でつくられたお茶を中心としているため、穏やかな香りと上品な甘み、まろやかな味わいを特徴としている。お茶は自然の産物であるため、同じ産地でも年毎に異なる気候により茶葉の風味も変わる。そのため吟味して仕入れた茶葉でも1年を通して味が変わらないようにブレンドすることで、毎年同じ味筋のお茶を提供している。



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一保堂茶舗 奥行き方向にも広い

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一保堂茶舗 店頭 新茶の茶箱が積まれている

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一保堂茶舗 店頭 ネオン管仕掛けの看板が見える



 享保年間(1716~1735)に年近江出身の渡辺伊兵衛が、寺町二条に、茶、茶器、陶器を扱う店として近江屋を出したのが始まりとされている。扱うお茶の品質の良さは評判を呼び、弘化3年(1846)には山階宮より「茶、一つを保つように」ということで一保堂の屋号を賜った。



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一保堂茶舗



 山階宮の初代・晃親王は文化13年(1816)伏見宮邦家親王の第一王子として誕生する。誕生直後の文化14年(1817)には京都山科の門跡寺院 勧修寺を相続している。文政7年(1824)に出家し、済範入道親王と称した。しかし天保12年(1841)2歳年下の叔母である幾佐宮隆子女王と出奔するという不祥事を起こし、翌13年に光格天皇養子、二品親王。勧修寺住職の地位が停止され、伏見宮より除籍される。元治元年(1864)15代将軍・徳川慶喜が孝明天皇に晃親王の還俗を願い、同年伏見宮に復し、勅許をもって復飾し改めて親王宣下と共に、山階宮の宮号を賜った。仁和寺の項でも触れたように、慶応3年(1867)に伏見宮邦家親王第8王子であった純仁法親王も復飾を命ぜられて、仁和寺宮嘉彰親王となっている。嘉彰親王は明治3年(1870)に東伏見宮に、そして明治15年(1882)に小松宮に改称している。このように天皇の藩屏としての役割を担うため、幕末から明治時代にかけて、出家していた皇族が還俗するとともに、新しい宮家が新設された。文久3年(1863)に中川宮(賀陽宮を経て久邇宮に改称)を始めとして、山階宮、梨本宮、聖護院宮、北白川宮、華頂宮、そして小松宮の各宮家が設立された。皇族がヨーロッパの王室に倣って軍人になる中、山階宮は文官であることを通したことは特筆すべきことだと思われる。
 さて上記の弘化3年(1846)はまだ山階宮の時代でなく、勧修寺住職でもない謹慎中の頃に当たる。



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一保堂茶舗 お品書きと店の中には多くの客の姿

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一保堂茶舗 茶を入れる壺



 一保堂もまた元治元年(1864)禁門の変の戦火により店舗を消失している。この後、現在の地に店舗を新築している。明治年間はアメリカへの緑茶や紅茶の輸出を手掛けている。大正になると抹茶にグラニュー糖を加えた宇治清水が考案され、輸出問屋からお茶の小売に転換している。ちなみに現在販売している宇治清水スティックは、この宇治清水をスティック状の袋に詰めたものであり、牛乳にも水にも温冷を問わず混ぜるだけの手軽さが好評である。



 現在、一保堂の店頭にはお客が待たせているタクシーが常に止まっている。店内も多くの人が順番を待つほどの賑わいであった。また一保堂では表千家不審菴、裏千家今日庵、武者小路千家官休庵そして薮内流燕庵の各家元の好みの抹茶を取り扱っている。



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一保堂茶舗 古い仁丹の町名表示が架かる

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