徘徊の記憶

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zoom RSS 禁門変長州藩殉難者塔 その2

<<   作成日時 : 2017/07/02 18:44   >>

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禁門変長州藩殉難者塔(きんもんのへんちょうしゅうはんじゅんなんしゃのとう)その2 2010年1月17日訪問

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相国寺 禁門変長州藩殉難者塔


 禁門変長州藩殉難者塔では、幕末維新史を紹介する書籍が上善寺とこの相国寺の首塚をどのように紹介しているかを見た後、副碑の文面を読んだ。そして薩摩側の史料として伊知地貞馨が記した「紹述編年」(「史籍雑纂 苐四」(国書刊行会 1912年刊))と山崎忠和が明治29年(1896)に出版した「柴山景綱事歴」(非売品 1896年刊)を取り上げ、薩摩藩兵の当日の行動を確認した。この項では長州兵の戦闘状況と、その後の悲惨な敗走の現実について光を当ててみる。

 先ず明田鉄男氏の「幕末維新全殉難者名鑑」(新人物往来社 1986年刊)から見て行く。当日の戦闘で戦死した長州兵は158名、傷を負い後で亡くなった者が94名。そして長州軍に参加した他藩の戦死者及び事変後に自害したものまで含めると29名、さらに天王山に立て籠もり自刃した真木和泉等17名を加えると298名となる。
 甲子戦争に加わり後日死亡の大部分は、幕府側に捕まり京都の六角牢あるいは大阪の千日牢につながれている。禁門変長州藩殉難者塔では、山崎忠和が明治29年(1896)に出版した「柴山景綱事歴」(非売品 1896年刊)を参照し、当日の薩摩藩の行動を確認した。この中で「生擒セラルヽ者廿四人衣服等悉ク厚ク給セサルナシ後各之ヲ国ニ送還ス」という記述がある。薩摩藩は幕府に従わずに捕虜とした長州兵を山口に送り帰したのかもしれないが、少なくとも会津藩や高松藩等は戦闘終了後も敗残兵の捕獲を続けているので、捕虜の送還は行っていないのであろう。このように一部ではあるものの長州に戻った者の中で後に亡くなったものは他藩を含めても12名であった。つまり六角牢で29名、千日牢等では56名が獄死、病死あるいは斬殺されている。実に全体の3割弱の85名が戦争後に亡くなったこととなる。長州藩が戦争に負けたということを実に明確に顕わしている。

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 当日死亡の長州藩158名、長州を支援した他藩25名、計183名の分類を行う。「幕末維新全殉難者名鑑」は戦死した場所が分かる者については、「竹田街道で戦死」、「蛤門で戦死」、「中立売門で戦死」そして「鷹司邸内で戦死」と記述している。それらの人々の合計は113名になる。福原越後に従い伏見から出撃した者から10名、天龍寺から国司信濃、来島又兵衛、児玉小民部の軍に属した者から46名、そして山崎から鷹司邸を目指した久坂玄瑞、真木和泉守の軍から30名が戦死者となっている。これ以外にも京都市内で7名が亡くなっている。市内からの脱出に成功したものの、洛再樫原で小浜藩兵と遭遇し、この地で7名が討取られている。勤王家殉難地維新殉難志士墓で書いたのは、

楳本仙之助 直政 仙吉、僊之助とも。集義隊旗手。下松、蛤屋弥吉の三男。
         元治元年七月十九日禁門敗走後洛西樫原で小浜藩兵と戦い死す。
         京都霊山と右京区樫原に墓。靖国。
相良新八郎    薩摩藩士。脱藩して長州軍に属し、
         元治元年七月十九日洛西樫原で小浜藩兵と戦い死す。
         現地に墓。靖国。
相良頼元     薩摩藩士。脱藩して宇都宮藩に走り、のち長州軍に参加、
         元治元年七月十九日洛西樫原で小浜藩兵と戦い死す。
         現地に墓。靖国。

以上の3名であった。それ以外にも下記の4名も小浜兵との戦闘で命を落としていたことを今回初めて知った。

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洛西樫原 勤王家殉難の地 2009年12月9日撮影

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洛西樫原 小泉仁左衛門宅跡 2009年12月9日撮影


卯之助      藩士熊野宇一の馬丁。
         元治元年七月十九日禁門に戦い、洛西樫原辺で小浜藩兵に
         殺される。靖国。
儀七       農民兵。
         元治元年七月十九日禁門に戦い洛西樫原辺で小浜藩兵に
         討たれる。靖国。
五郎右衛門    夫卒。
         元治元年七月十九日禁門敗走後、洛西で小浜藩兵に囲まれ
         戦死。靖国。
三隅竜雄 登久  国司信濃家来甚右衛門嫡子。山中弥三郎家来。
         元治元年七月十九日禁門変後洛西で小浜藩兵と戦い死す。
         三十三歳。京都霊山と山口県楠町万倉峠に墓。靖国。
三隅竜雄 登久  国司信濃家来甚右衛門嫡子。山中弥三郎家来。
         元治元年七月十九日禁門変後洛西で小浜藩兵と戦い死す。
         三十三歳。京都霊山と山口県楠町万倉峠に墓。靖国。

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洛西樫原 三士殉難の地 2009年12月9日撮影


 山陰道を塞ぐために樫原に陣を張っていた小浜藩以外にも、淀川を舟で下り大阪に入ってくるのを捕えるため桜宮を高松藩兵が固めていた。当日死亡者の内、10名が舟中で就縛される前に自決している。また自決できなかった者も上記のように千日牢に送られ、実に元治元年(1864)中に49名が命を落としている。明治2年(1869)大江神社に招魂社が建てられ、慰霊顕彰が行われている。千日牢で亡くなった45名に、尼崎で自刃した山本文之助、薩摩藩御用船焼き討事件の犯人として大坂南御堂前で切腹した水井精一、山本誠一郎の3名を加え計48名が祀られている。明治23年(1890)11月、千日前から阿倍野墓地に改葬され、大江神社には舊山口藩殉難諸士招魂之碑が建立されている。司馬遼太郎は「俄ー浪華遊侠伝ー」で、この辺りのことを題材に千日前の南鏡園の物語を仕上げている。

 「甲子雑録 二」(日本史籍協会 1917年刊 1984年覆刻)には、7月26日に京都から戦況を伝える書簡中に「舟ニ乗淀川を大坂さして逃去候処永井家之番所ヨリ見咎十二人討死残十八人ハ自殺又ハ水死致候由」という記述がある。さらに同書には、大垣藩兵と交戦し負傷した長州・福原越後軍の兵士を治療した伏見の医師上田耕蔵が伏見奉行所に提出した書付が所載されている。これには和地金吾、宍戸久之充を始め21名の姓名と疵の状況が記されている。さらに高松藩が生捕りにした長州兵22名と舟中で戦死あるいは自害した11名の姓名を記した書付、津山藩が生捕りにした13名の書付が残されている。これらに記されている人々の大部分は「幕末維新全殉難者名鑑」に掲載されている。なお高松藩の戦死・自害者11名の最期に記されている上田亀之進は自害に失敗し高松藩兵に捕えられ、同月二十九日千日牢で獄死している。そのため「幕末維新全殉難者名鑑」の大坂桜宮での当日死亡者10名は正しいこととなる。
この他にも伏見の銭屋善兵衛宅に潜伏した後行方不明となった松治郎、尼崎北番所で同藩兵に囲まれ「残念」と絶叫して自刃した山本文之助、さらに二十日尼崎で自殺した文之助がいる。後に山本文之助は「残念さん」と祀られ有名になっている。「幕末維新全殉難者名鑑」の7月20日尼崎で自殺した文之助と山本文之助が同一人物である可能性もある。

 「幕末維新全殉難者名鑑」では69名を「禁門で戦死」あるいは「禁門変で戦死」と、戦死した場所の特定をしていない。その数は当日死亡者183名の3分の一を超えている。なるべくこれを減らして行く事を試みる。「幕末維新全殉難者名鑑」には戦死した場所以外に所属していた部隊名や「国司信濃家来」や「福原越後勢」などが記されている。これを参考に69名を福原軍、国司軍、益田軍へ再度分類してみる。
 先ず、「国司信濃家来」あるいは「国司信濃中間」とある来原植松、政蔵、作次郎、作蔵の4名を国司軍に入れる。さらに諸隊の内で遊撃軍に関係する市勇隊、荻野隊、金剛隊、狙撃隊、遊撃隊については国司軍に配属されていた考え荒瀬千代熊から令雄までの29名を加える。
同様に「益田右衛門介家来」である澄川謙蔵。中尾易三郎、中村総治の3名と忠勇隊の青木与三郎と尾崎幸之進、奇兵隊の梅吉と堀弥四郎、集義隊の村上丈若の5名、そして上善寺に葬られた乙丸善助を益田軍に加えると、福原軍10名、国司軍80名、益田軍41名となる。これにより不明者は29名となる。

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京都御苑 中立売御門


 さらに当日の戦闘状況を細かく記した馬場文英の「元治夢物語−幕末同時代史」(岩波書店 2008年刊)等と比較してみる。 
 「幕末維新全殉難者名鑑」が、蛤門で戦死とする高松藩士・小橋友之輔は、小橋友之助以義として土佐藩士・那須俊平と共に鷹司邸での戦いに参加している。また、蛤門で傷、自決とする原道太も「元治夢物語」の注では鷹司邸に辿り着く前に敵弾に当たり清水源吾の介錯で切腹している。宇高浩著「真木和泉守」(菊竹金文堂 1934年刊)では、鷹司邸内で重傷を負い立ち上がることのできなくなった原が、三池藩の塚本源吾(清水源吾右衛門は塚本の変名)の介錯で切腹する場面が描かれている。
 また福岡藩士で忠勇隊に所属し中立売門で彦根兵と戦い戦死したとする中村恒次郎も「元治夢物語」では彦根藩の西郷政之助に槍で戦い討ち果たした後に、青木津右衛門に脇腹を突かれ討死している。この戦闘は彦根藩功名并討死として「甲子雑記 六」に所載している。「七月九日丸太町於堺町東一戦之節討取首級 首壱 姓名不知 青木伴右衛門」「七月十九日丸太町通堺町おいて一戦之節手負討死  高橋新五右衛門組大筒方手代足軽 討死 西郷正之助」とあるのが中村恒次郎の最期であろう。

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京都御苑 蛤御門


 「幕末維新全殉難者名鑑」では、蛤門で戦った小橋友之輔、原道太そして中立売門で彦根兵と戦った中村恒次郎はいずれも益田軍に所属していた可能性が高い。また戦死した場所が不明の内田弥三郎は国司軍に加わり、中立売門での戦いで鉄鋲の打ち込んだ樫の棒を振り回し奮戦している姿が描かれている。「元治夢物語」の注では、北から大砲を撃ちながら迫ってきた薩摩軍との戦闘で戦死したとしている。
 また禁門で戦死したとされる若杉弘之進も鷹司邸で戦い、この地で戦死したようだ。「続再夢紀事」(「日本史籍協会叢書 三」(東京大学出版会 1921年発行 1988年覆刻))に下記のような記述が見られる。

我大砲は今朝よりの戦に弾薬を打尽しければ会津藩の陣所に至り大炮を借来り<此時会津藩の士野村佐兵衛二十四斤炮一門を曳かせ来る/sup>築墻の一隅を打崩し兵士等邸内に打入り此時会津藩の兵士も共に討入れり


 所謂、凝華洞から曳いて来た十五ドエム砲によって鷹司邸の築地塀を打崩す場面である。これを指揮したのは会津藩士・山本覚馬ではなく野村佐兵衛であったと「続再夢紀事」は述べている。そして、この時の砲撃により、塀内にいた若杉弘之進は即死したと「元治夢物語」は記している。

 以上の事々を整理すると、福原軍10名、国司軍79名、益田軍44名、その他京都市内2名、洛西7名、大阪桜宮10名、その他3名で不明者は28名となる。さらに「幕末維新全殉難者名鑑」に掲載されていないが、「元治夢物語」や「続再夢紀事」などで死亡したと考えられる人物として、蛤門の戦の田中幾蔵と宍戸金之助、鷹司邸での戦の阿部豪一、安藤誠之助そして武田次郎である。これらの人々がどのようなことを為してきたかも含めて全く分からない。

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相国寺 禁門変長州藩殉難者塔  藤原定家、足利義政、伊藤若冲の墓
2016年3月5日撮影


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