徘徊の記憶

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zoom RSS 禁門変長州藩殉難者塔

<<   作成日時 : 2017/07/02 18:07   >>

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禁門変長州藩殉難者塔(きんもんのへんちょうしゅうはんじゅんなんしゃのとう) 2010年1月17日訪問

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相国寺 禁門変長州藩殉難者塔


 相国寺の境内にある後水尾天皇髪歯塚宗旦稲荷に続き、墓地内の禁門変長州藩殉難者塔を参拝する。

 浴室と塔頭・大光明寺の間の道を西に進んだ先に相国寺の墓地が現れる。この入口の左脇には、禁門変長州藩殉難者墓所の石碑が建つ。これは昭和43年(1968)11月に京都市が建立した道標である。墓地に入るとその広さに圧倒される。この地には、かつて足利幕府第12代将軍・足利義晴の戒名を冠した塔頭・万松院があった。しかし万松院が無くなり、その境内は相国寺の巨大墓地となったようだ。
 入ってすぐ左手に藤原定家、足利義政そして伊藤若冲の墓が並ぶ。墓碑は古いものの外柵はまだ新しいので、近年に移設整備されたように見える。歴史の教科書に載っている有名人物を一箇所に集めているが、何とも関連性の見えない括り方である。お目当ての禁門変長州藩殉難者塔は、この3人の墓の左手にあるため、迷わずに参拝できることは助かる。

 その墓碑名から分かるように、元治元年(1864)7月19日に発生した禁門の変で戦死した長州藩士等の墓である。碑文は南に長藩士戦亡霊塔、東に維時元治元甲子初秋十九日とある。石標は比較的新しいもので、幕末に建てたものではないようだ。「相国寺研究 三 幕末動乱の京都と相国寺」(相国寺教化活動委員会 2010年刊)には、林光院境外墓地にある薩摩藩戦死者の墓とともに、この禁門変長州藩殉難者塔を説明している。筆者の笹部昌利氏も「この前に古いタイプの霊塔があった」のではないかと推測している。正面左側に副碑があり、その碑文は下記の通りである。

相国寺境内長藩士戦亡霊塔碑
元治甲子之変薩藩士與長藩士
戦於 皇城蛤門獲首二十餘級
乃葬於此建塔標之然経年所之
久世人知者太尠明治三十九年
山口県人桂半助偶見此塔報之
毛利公邸公聞之派人攷覈事実
或曰葬首二十一級或曰葬二十
九級而其姓名亦未得詳之葢湯
川庄蔵有川常槌等在其中也公
命修塔域寄祭資当寺永祈冥福
野衲勤記事由以*後人
明治四十年九月
現相国寺東嶽誌


 つまり明治39年(1906)に山口県人の桂半助が霊塔を相国寺で見つけ旧主・毛利公爵に報告したことにより墓は整備され、翌40年(1907)にその経緯を記した副碑を相国寺特住2世・東岳承ラが建てたということのようだ。桂半助は、贈 正四位入江九一外七名首塚 その2で触れたように、明治36年(1903)に上善寺で長人首塚を発見した人物である。誰の首級が埋まられているのかを探した結果、当時まだ存命であった元越前藩士軍務官の桑山重蔵によって明らかになったと「京都維新史蹟」(カワイ書店 1928年刊)は記している。つまり京都市教育会の記述を信じるならば、相国寺で霊塔を見つける3年前に上善寺で長人首塚を見つけ、その埋葬者を調べていることになる。

 長人首塚については、京都市教育会が昭和3年(1928)刊行した「京都維新史蹟」を始め、昭和9年(1934)に刊行された寺井萬次郎著の「京都史蹟めぐり」、そして昭和14年(1939)に大阪毎日新聞社京都支局が出版した「維新の史蹟」にも掲載されているが、相国寺の禁門変長州藩殉難者塔しているものはない。
 これに対して、石田孝喜氏が「幕末維新京都史跡事典」(新人物往来社 1983年刊)で「52 禁門の変長州藩殉難者の墓」と「120 長州藩藩士の首塚」で相国寺と上善寺の2つの墓を取り上げている。そして「幕末京都史跡大事典」(新人物往来社 2009年刊)でも「上京区 9 禁門の変長州藩殉難者の墓」と「上京区 24 長州藩藩士の首塚」の両者を取り上げている。

 さらに2つの墓所を比較したのは、伊東宗裕氏の「京都石碑探偵」(光村推古書院 2004年刊)である。「長州人首塚ほか−幕末敗走伝」と題した一文で山崎の無名氏墓と相国寺と上善寺の長州人首塚そして尼崎の残念さんを取り上げている。この中で、伊藤氏は上善寺と相国寺の副碑文を上下に並べ、その構成が酷似していることを明らかにしている。
 この日に上善寺は訪問したものの、墓地内の長人首塚を参拝することができなかったので、副碑文につては後日の訪問の際に書くこととするので、ここでは詳しくは書かない。しかし伊藤氏が指摘する通り、上善寺の碑文の方がやや長文なのは、名前が判明した戦死者が多かったためである。また碑文の後半部分についても、上善寺が「公命修塚域寄祭資当寺永 祈冥福野衲謹記事由以*後人 明治四十年九月 上善寺見住載誉運外誌」、相国寺が「公 命修塔域寄祭資当寺永祈冥福 野衲勤記事由以*後人 明治四十年九月 現相国寺東嶽誌」。この公とは毛利元昭のことである。第13代藩主の毛利敬親は明治4年(1871)に、 第14代藩主の毛利元徳も明治29年(1896)に没しているので、明治40年(1907)時点の毛利家の当主は、元徳の長男で元治2年(1865)生まれの元昭に移っている。つまり自分が生まれる以前の戦争で亡くなった旧藩士の墓の整備を行ったということになる。いずれも同じ明治40年9月にそれぞれの住持が同じ材質の石碑を建てているのは、毛利家によって準備された石碑に名前を入れただけという伊東氏の指摘の通りであろう。

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相国寺 禁門変長州藩殉難者塔 
相国寺墓地の入口 2016年3月5日撮影


 相国寺の副碑文を改めて見て行く。最初の「元治甲子之変薩藩士與長藩士戦於 皇城蛤門獲首二十餘級乃葬於此建塔標之」から、この地に葬られているのは蛤御門で薩摩兵と戦い戦死した長州兵であることが分かる。その数は二十餘とあるので、上善寺と異なり正確な人数を把握できていない。塔を建て目印としたのも、長州兵の首級を葬った薩摩藩であった。
 しかし年月を経てこの首塚の存在を知る者が少なくなった。明治39年(1906)に山口県人の桂半助がたまたまこの塔を見つけ毛利公爵に報告している。公爵は,人を派遣して調査させたところ、首級の数を29とも21とも定まらなかった。さらに戦死者の姓名も分からず、恐らく湯川庄蔵、有川常槌といった蛤御門で戦死した人たちが含まれると考えた。公爵は塔を整備を命じ,相国寺に供養料を寄附され永く冥福を祈ることになった。相国寺住職東嶽はこの経緯を記して,後世の人に示すものであるという言葉で締めくくられている。

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贈 正四位入江九一外七名首塚
長州藩士首塚 2016年3月5日撮影


 つまり上善寺の首塚は、長州藩士側が立て籠もった鷹司邸を攻撃した越前藩が葬ったもので、相国寺に葬られているのは薩摩藩が公卿門前から蛤御門にかけての戦闘で打ち取った首級である。
 堀次郎改め伊知地貞馨が記した「紹述編年」(「史籍雑纂 苐四」(国書刊行会 1912年刊))に甲子戦争における薩摩藩の働きを書いた後に次の一文がある。

我勢首を斬る事三十八、生捕の者十四人国元初三郎、阿村一郎、越智重忠、中村金右衛門、来島又兵衛、児玉小六、萬倉団吉、信濃か家臣川之上次郎、佐々木正右衛門、中村政次郎、奥田龍太郎、足乃吉蔵、又兵衛、下田屋友之進なり(中略)
日もはや申の刻にいたり、三方の勝利きこえけれは、図書殿は近衛公の御館より、備後殿は日の御門より出られ、近衛殿の門前にて、御旗合せ首実検して凱旋せらる、此時所々の兵火いよ〈燃え起り、翌日まても消え果す、洛中なかはは焦土となれり


 伊知地はこの日の戦果を首級38、捕虜14人としている。そして近衛邸の門前で、島津図書すなわち島津久治と島津久光の四男である島津備後・島津珍彦の前で首実検が行われたことが分かる。紹述編年がいつ書かれたものかは分からなかった。堀次郎が江戸藩邸を自焼させたのが文久元年(1861)12月7日であった。島津久光の参府を延期させるための口実を作るための自作自演であったが、翌2年(1862)8月3日に幕府に発覚し同月10日に江戸から鹿児島に檻送されている。以後は薩摩藩の政治活動の第一線からは退き、貨幣局出仕、琉球在番、修史の編纂に携わっている。つまり伊知地は京で戦争が行われた時期は鹿児島にいたため、当時の御所の状況を実見したわけではない。紹述編年のこの部分は史料に書いたものであろう。伊知地は維新後、内務省に出仕しているがすぐに免職しているので、明治初年から死去した明治20年(1887)までの間に書かれたものと思われる。

 山崎忠和が明治29年(1896)に出版した「柴山景綱事歴」(非売品 1896年刊)の「元治元年大ニ下ニ防戦シタル事」には下記のような記述が見られる。

蛤御門内ニテハ肥後藩高木藤五左衛門初メ積屍麻ノ如シ又貴島又兵衛ノ屍ハ傍ノ邸ニ暫時横フアルヲ見ル此日薩ニ獲ル所ノ首級二十一首数ハ是レカ真実ナリ生擒セラルヽ者廿四人衣服等悉ク厚ク給セサルナシ後各之ヲ国ニ送還ス景綱等朝夕往テ之ヲ慰ス擒中ニ両三人面首寵スヘキ者アルヲ見テ屢贈ルニ財物ヲ以テス宮城殿重富殿二将其得ル所ノ首級ヲ近衛家ノ門前ニ撿ス桂小五郎ノ首ニ姓名ノ付箋アリ当時人皆以テ真トス


 「柴山景綱事歴」はその名称の通り、柴山から幕末維新の体験を聞き取ったことを後年に纏めたものである。同時代に書かれたものではないので、記憶違いがあることも考慮しなければならない。しかし「御門内ニテハ肥後藩高木藤五左衛門初メ積屍麻ノ如シ」など、戦闘後の雰囲気をよく伝えている。貴島又兵衛は勿論、長州藩士・来嶋又兵衛のことであり、自刃した後遺体は何れかの公卿の邸宅に安置されていたことが窺える。力士隊の菊ヶ浜片山常吉によって来嶋の遺体は天龍寺まで運ばれ、そこで埋められたという話もあるので、運び出すまでの間に柴山が見かけたのかもしれない。またこの日、薩摩藩が挙げた首級は21であったと語っている。さらに「首数ハ是レカ真実ナリ」と注記しているので、記憶に自信があったのであろう。相国寺の首塚の副碑にある「或曰葬首二十一級或曰葬二十九級」の21は柴山の証言によっているのかもしれない。「柴山景綱事歴」が記されたのは墓が整備される10年以上前のことである。
 なお、文中にある宮城殿とは宮之城島津家の当主・島津久治、重富殿も重富島津家当主の島津珍彦のことである。この二将が立ち合い、近衛邸の門前で首実検が行われている点は伊知地の紹述編年の記述と一致する。そして桂小五郎の付箋が付けられた首があったので、桂の戦死を信じ込んでいたようだ。

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相国寺 禁門変長州藩殉難者塔


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