徘徊の記憶

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<<   作成日時 : 2017/06/18 15:56   >>

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宗旦稲荷(そうたんいなり) 2010年1月17日訪問

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相国寺 宗旦稲荷社


 相国寺の経蔵の北側に位置する後水尾天皇髪歯塚に続き宗旦稲荷に参拝する。
 法堂の東側、塔頭・光源院の向かいに洪音楼とよばれる大きな鐘楼がある。元の鐘楼は天明8年(1788)1月30日の大火で焼失している。「相国寺史稿」(「相国寺史料」(思文閣 1984年刊))によれば寛政元年(1789)4月24日に鐘楼を仮設し鐘を架けたとある。大火から3ヵ月後のことである。相国寺の公式HPに掲載されている鐘楼の説明では、「古鐘を買って仮楼にかけ」とあるので、新しい鐘を鋳造する時間がなかったのかもしれない。この鐘には「干時寛永六己已季卯月七日」とあるので寛永6年(1629)の造立と考えられている。ただし「古寺巡礼 京都 2 相国寺」(淡交社 1976年刊)では、「寛永六年は法堂のできた慶長十年から二十四年後であるから、その後の災害をすべて免れてきたものである。」と記し、元より相国寺のものとしているようにも読める。
 現在の鐘楼が再建されたのは天保13年(1842)1月7日のことであった。被災から既に50余年が過ぎた幕末の始まりに差し掛かっていた。様式的には袴腰付鐘楼とよばれるもので、二層楼の構成となっている。下層は城郭の石垣のような反りを持っているため袴腰という名がついている。上層には欄干を巡らしている。この鐘楼のような大型な鐘楼は珍しく、2007年に京都府指定有形文化財となっている。

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相国寺 鐘楼 2016年3月5日撮影

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相国寺 鐘楼 2008年5月17日撮影


 この大きな鐘楼の北東奥に宗旦稲荷が祀られている。この稲荷は宗旦狐の死を悼んだ雲水達が供養したものとされている。宗旦狐についてはWikipediaにも掲載されているほど有名な話である。寛保3年(1743)雑書「諸国里人談」の伯蔵主や天保12年(1841)の奇談集「絵本百物語」の白蔵主にも見られるような、狐が僧に化ける話の一つである。

 相国寺で開かされた茶会で、千宗旦は見事な点前を披露した。その場にいた茶人達は勿論、宗旦の弟子達も見とれるほどであった。しかし宗旦が茶席を去った後、また再び宗旦が現れ遅刻したことを詫びるという出来事があった。そのようなことが何度か続くにつれて、弟子達は宗旦の偽者が存在するのではないかと疑った。
ある日、宗旦が茶席に現れた。弟子達は宗旦本人が自邸にいることを確かめた上で、偽宗旦を問い詰めた。すると偽宗旦は自分は相国寺の藪に住む古狐で、以前より宗旦の点前に憧れていたと云い、自分もそのような点前をしてみたかったので宗旦に化けて現われた白状した。もう二度と悪戯をしないと詫び、狐の姿となって逃げ去ったとされている。

 狐が化けた宗旦とは千家3代で、宗旦流の祖。千利休の後妻となった千宗恩の連れ子であった千少庵が父、母は利休の娘お亀で、天正6年(1578)に生まれている。10歳の時に祖父利休の希望で大徳寺に喝食として預けられ、春屋宗園のもとで禅の修行を積み、得度している。天正19年(1591)2月28日、豊臣秀吉の逆鱗に触れ聚楽屋敷内で切腹している。享年70.
 利休の死後、先妻の嫡男・千道安と少庵は共に蟄居となり、千家は一時取り潰しの状態となった。それから数年を経た文禄4年(1595)頃、徳川家康や前田利家の取りなしにより、道安と少庵は赦免される。道安は堺の本家堺千家の家督を、少庵は三千家の基となる京千家を継いでいる。この時、宗旦は還俗し、弟子らとともに利休流のわび茶の普及に努めたとされている。慶長5年(1600)頃、少庵の隠居に伴い、家督を継いでいる。万治元年(1658)11月19日没する。享年81。

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相国寺 宗旦稲荷社


 宗旦狐の基本的な話は上記の通りであるが、それ以外にも、雲水に化けて相国寺で勉強をしていた、他の雲水たちと共に座禅を組み、托鉢に回る。あるいは門前の家で碁を打つも、熱中するあまり尻尾を出してしまうなど、色々なエピソードが残されている。相国寺の塔頭・慈照院の第7世仏性本源国師(マ叔顕啅)は織田有楽斎や千少庵、宗旦とも親交があった。宗旦により頤神室と呼ばれる茶室が造られ、宗旦は度々来て茶の点前をしている。ここにも宗旦狐が現れ、丁度点前をしている所を本物の宗旦に見られたため、慌てて窓を突き破って逃げたとされている。そのあとを修理したため、普通の茶室より大きくなったという言い伝えが残されている。
 相国寺のHPでは、宗旦狐が文献に現れるのは、天保元年(1830)に刊行された「喫茶余録」が初出だとしている。「喫茶余録」は、先行する茶書十四点から、茶・茶器・茶人の逸話を尾張藩士の深田香実が抜粋編術した茶書。この中に宗旦教示に続いて、宗旦狐の図という項目と共に杖を曳く老人の絵が出てくる。

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相国寺 慈照院 2016年3月5日撮影


 また、京都新聞は「宗旦狐」と題して、2007年8月7日に紹介している。その後半で宗旦狐の最期について、「寺の近くの豆腐屋「子字屋」に伝わる最期のエピソード」として触れている。

 ある日、店で油揚げを作っているところへネズミが落ちてきた。店の外に捨てたが、油のにおいに誘われたのか、夜になって宗旦狐がネズミを食べた。すると、神通力が効かなくなり、正体に気付いた犬に追いかけられる。必死に逃げ回り、相国寺のやぶの中に飛び込んだが、古井戸に落ちて死んでしまったという。
 そんな宗旦狐をしのび、寺の雲水たちが供養のために作ったほこらが宗旦稲荷だと伝わっている。毎年二月と十一月には初午(はつうま)祭と御火焚(おひたき)祭が営まれ、供えものとして子字屋の油揚げが並ぶ。


 相国寺のHPでは以下のように記されている。

 宗旦狐は店先から油揚げを盗み、追いかけられ井戸に落ちて死んだとも、猟師に撃たれて命を落としたとも伝えられています。化けていたずらをするだけでなく、人々に禅を施し喜ばせていたという宗旦狐の死を悼み、雲水たちは祠をつくり供養しました。それが今でもこの宗旦稲荷として残っています。


 また、Wikipediaにも下記のような似たエピソード(2017/6/18現在)がある。

 ある年の盆。門前の豆腐屋が資金難から倒産寸前に陥っていた。宗旦狐は蓮の葉をたくさん集めて来て、それを売って金に換えて大豆を買うよう勧めた。豆腐屋はそのお陰で店を建て直すことができた。お礼をしようと考えた豆腐屋は、狐の大好物である鼠の天婦羅を作って宗旦狐に贈った。しかし宗旦狐は、それを食べると神通力が失われるといって遠慮した。とはいうものの目は大好物に釘付けで、つい我慢できずにそれを食べてしまった。途端に宗旦狐はもとの狐の姿に戻り、それを見た近所の犬たちが激しく吼え始めた。狐は咄嗟に藪の中に逃げ込んだが、慌てたために井戸に落ち、命を落としてしまった(別説では猟師に鉄砲で撃たれた、または自ら死期を悟って別れの茶会を開いたともいう)。
 相国寺は寺のために尽くしてくれた宗旦狐の死を哀れみ、宗旦稲荷として祠を築き、狐を僧堂の守護神とした。現在でも宗旦稲荷は、相国寺境内に祀られている。


 油で揚げたものを食べたことにより、宗旦狐は霊力を失い井戸に落ちて死んだというような内容である。
 ところで、京都新聞に宗旦狐の最期を語ったのは、安政3年(1856)創業の子字屋の五代目店主・森本茂雄さんであり、話に出てくる豆腐屋は子字屋の前身に当たる店舗であったとしている。子字屋は、「相国寺周辺で場所を変えながら営業を続け、現在は上京区今出川通寺町東入ルで店を構えている。」とされているが、上京区今出川通寺町東入ル米屋町にあった丁子屋の誤りだったようだ。ただし現在、同場所には豆腐屋らしき店舗が見当たらず、かつての電話番号も2012年以降には失われているように思われる。京都新聞の記事は2008年のものなので、その当時は実在していたのであろう。

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相国寺 宗旦稲荷社


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