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zoom RSS 後水尾天皇髪歯塚

<<   作成日時 : 2017/06/18 06:34   >>

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後水尾天皇髪歯塚(ごみずのおてんのうはつしづか) 2010年1月17日訪問

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後水尾天皇髪歯塚 


 東門から相国寺の境内に入り禁門変長州藩殉職者塔に向う途中、経蔵の北側で後水尾天皇の髪歯塚を見かけた。相国寺の公式HPに掲載されている境内図には下記のような説明がある。

後水尾帝歯髪塚
後水尾上皇(ごみずのおじょうこう)は、承応二年(1653)に、焼失した大塔を再建され、その時、出家落髪の時の髪と歯を上層柱心に納められましたが、天明八年(1788)の天明の大火で焼失し、その跡地に歯髪塚を建てました。


 「相国寺史稿」(「相国寺史料」(思文閣 1984年刊))によれば承応2年(1653)8月18日に、「後水尾上皇、院旨により三層宝塔を再建。この日立柱。」とある。さらに明暦2年(1656)6月16日に宝塔の落慶供養が行われていることが分かる。この宝塔の上層の柱芯に、出家落髪の時の髪と歯を納めたということであろう。しかし天明8年(1788)1月30日に発生した天明の大火により、相国寺は法堂ほか数院を除いてほとんど失っている。後水尾天皇の髪歯を納めた宝塔も、この大火で焼失している。そのため宝塔が建てられていた跡地に歯髪塚を建てたということらしい。つまりこの経蔵と八幡宮の間の地に、三層宝塔が建てられていたのである。

 相国寺の境内にある後水尾天皇の歯髪塚は、法皇の崩御直後に造られたものではなく、天明の大火後のものであったことが分かる。「陵墓地形図集成[縮小版]」(学生社 2014年刊)の陵墓地形図目次には「123 後水尾天皇髪歯塚 図」とある。図には後水尾天皇髪歯塚之図と記され、京都府京都市上京区相国寺門前町という所在地とともに、面積六百二十一平方米五四、枠外には昭和三年測量 昭和四年製図 帝室林野局とある。塚は円丘でその周りに垣を巡らしている。巻末の陵墓所在地一覧では図面番号が95、原図番号S65、陵墓番号は108−2とされている。ちなみに陵墓番号108−1は泉涌寺内の後水尾天皇 月輪陵で、四条天皇陵以下25陵5灰塚9墓同兆域である。

 後水尾天皇と相国寺の関係については、有馬頼底氏が「相国寺とその歴史」(「古寺巡礼 京都 2 相国寺」(淡交社 1976年刊))に記している。
 室町幕府後期、三好長慶の反乱によって、第13代将軍・足利義輝は時の管領・細川晴元と共に近江へ逃れなければならなかった。しかし京を再び奪回するため、細川軍は京に入り相国寺に軍をしいたのが天文20年(1551)7月13日の夜であった。翌日、山崎から攻め上がった三好軍の松永弾正軍と相国寺門前の石橋で激しい戦いを繰り広げた。三好軍の兵が境内に乱入し、日暮れには雲頂院を焼き、鹿苑院、普広院、大智院そして方丈と法堂に戦火が及び、その他諸堂が悉く焼失してしまった。相国寺の門前で行われたため相国寺の戦いとよばれている。
 この境内全焼は、内部からの失火による2回と応仁の乱の兵火によるものとを加えて、4度目のものであった。天文22年(1553)3月18日、方丈再建の地鎮祭が行われたが、その後の再建は決して順調には進まなかった。本格的に復興が始まったのは、天正12年(1584)2月15日、第92世西笑承兌の入寺以降のことであった。天正10年(1582)に本能寺の変、翌年には賤ヶ岳の戦いが起こっている。豊臣秀吉が関白となったのは、同13年(1585)7月11日のことであった。西笑が秀吉の帷幄に参与しやがて政治顧問となっていくのはこの頃からであった。秀吉は相国寺領として1320石余を寄進している。これが相国寺復興の経済的な基盤となった。
 慶長3年(1598)8月18日、秀吉が伏見城で没すると、西笑は徳川家康に従うこととなる。家康は外国との貿易、御朱印船のことを西笑に任せ、慶長6年(1601)5月には寺領1662石を施入している。さらに豊臣秀頼には法堂再建を勧め、米1万5千石を寄進させている。これにより慶長10年(1605)10月8日に落成した法堂は、天明の大火にも焼け残り、現存する法堂の中で最古の建物となった。さらに家康は自らも三門建立の為に2万石を寄付している。同11年(1606)2月に起工した三門は、同14年(1609)4月3日に竣工するが、西笑は落慶を見ることなく慶長12年(1607)12月27日に遷化している。

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南禅寺 金地院 2008年5月12日撮影


 西笑の示寂により宗教政策の中心が相国寺から南禅寺に移る。新たな家康の政治顧問の座に就いたのが金地院崇伝であった。元和元年(1615)崇伝により「五山十刹諸山之法度」が起草される。この法度により僧録司と蔭涼職は一旦廃止され、同5年(1819)に崇伝が新たな僧録になっている。宗教政策の中心から外された相国寺にとって、更なる厄災が降りかかる。元和6年(1820)2月26日、相国寺西側の新町辺りから出火した火が、相国寺に飛び火し、方丈、開山塔を始め、二堂、十三院を失うこととなる。
 この窮状に手を差し伸べたのが後水尾上皇であった。上皇は禅僧との交流が多く、特に第94世マ叔顕啅、第95世鳳林承章との関係は有名である。マ叔は公家の日野輝資の子であり、鳳林も勧修寺晴豊の六男で、上皇とも外戚関係にあった。つまり鳳林の父である晴豊の妹が勧修寺晴子であり、永禄10年(1567)から誠仁親王に女房として仕える。そして元亀2年(1571)12月15日に和仁親王を生んでいる。誠仁親王は正親町天皇の嫡男であったが、天正14年(1586)7月に早世している。そのため正親町天皇の皇孫に当たる和仁親王が同年11月7日に譲位されて後陽成天皇となる。鳳林にとって叔母である勧修寺晴子は、後水尾天皇の祖母にあたるということだ。このような関係があったためか、鳳林が住持を務めていた鹿苑寺に後水尾天皇が行幸されることがしばしばあった。

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相国寺 慈照院 桂宮東ノ墓地 2016年3月5日撮影


 後水尾上皇は、上記のように応仁の乱で失われた宝塔を再建するため、承応2年(1653)に新たな三層宝塔を建立している。これ以前にも、寛永18年(1641)3月28日には方丈の再建のために旧殿が下賜されている。また寛文6年(1666)崇寿院を再興している。これは第11皇子の穏仁親王の追善として建立する寺院を、鳳林等の奉請により開山塔の再建に変更されている。親王は寛永20年(1643)に生まれ、承応3年(1654)八条宮智忠親王の養子となっている。寛文2年(1662)養父智忠親王の薨去を受けて、宮家を継承する。しかし寛文5年(1665)10月3日薨去。享年23。相国寺内の塔頭・慈照院にある桂宮東ノ墓地に親王の墓がある。上記の「陵墓地形図集成[縮小版]」では「121 相国寺内桂宮東ノ墓地 桂宮西ノ墓地 図」となる。桂宮東ノ墓地を入った正面に、初代の智仁親王を挟む形で北に第2代・智忠親王そして南に第3代・穏仁親王、さらに南に第4代・長仁親王と並ぶ。もちろん公開されていないので測量図上での確認である。
 崇寿院の釿始めは寛文6年(1666)5月10日に始まり、同年10月24日に上棟、翌7年(1667)3月23日に開山堂落慶供養が行われている。

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後水尾天皇髪歯塚 


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