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zoom RSS 相国寺 その3

<<   作成日時 : 2017/06/16 06:45   >>

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臨済宗相国寺派大本山萬年山 相国承天禅寺(しょうこくじょうてんぜんじ)その3 2010年1月17日訪問

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相国寺 法堂


 相国寺 その2では創建前後の政治的状況を中心に、若き将軍・足利義満と春屋妙葩と義堂周信の関係について見てきた。この項では、相国寺の位置と規模について書いてみる。

 まず「古寺巡礼 京都 2 相国寺」(淡交社 1976年刊)の有馬頼底氏著の「相国寺とその歴史」を参照する。有馬は久留米藩主有馬家の分家・有馬正頼男爵の次男として昭和8年(1933)東京で生まれている。昭和16年(1941)8歳の時に大分県日田市の岳林寺で得度。昭和30年(1955)相国寺僧堂に入門し、大津櫪堂老師に師事する。昭和43年(1968)相国寺塔頭大光明寺住職を経て、相国寺派教学部長、相国寺承天閣美術館設立時の事務局長、開館後は館長、さらに京都仏教会理事長などを歴任。平成7年(1995)には相国寺第132世・相国寺派7代管長に就任し、現在に至る。
 「相国寺とその歴史」は、最も精通している人物が書いた相国寺の歴史であることが分かる。まず、相国寺が建立された地は伝教大師(最澄)が開創した出雲寺の存在した地であり、源空(法然)上人の神宮寺すなわち現在の百万遍知恩寺の前身となる寺院も今出川の北側にあった。さらに臨済宗聖一派の秀峰尤奇開山の安聖寺の跡地でもあった。相国寺建立に伴い、安聖寺の建物は万寿寺や東福寺栗棘庵に移され相国寺塔頭の鹿苑院が設けられている。このように由緒の正しい場所に建設されている。有馬氏は、創設時の相国寺の規模を下記のように記している。

創立当時は総門が室町一条にあったといい、一説に、足利将軍家の室町邸の総門と兼用であったともいう。


 その上で「蔭涼軒目録」を引用し、「一条をもって南の基準とすることができるそして北は上御霊神社の森、東は寺町、西は大宮通りにわたり、二十町四方を領有していたということである。坪数でいうと百四十四坪となる。」と記している。
 有馬氏の引用した「蔭涼軒目録」(「大日本佛教全書 第75巻」(鈴木学術財団 1972年刊))の寛政4年(1463)正月22日と4月10日ではなく4月3日の条は下記のとおりである。

勝定院御成之事也。御成。(中略)法界門再興并馬場可松之事。以飯尾左衛門大夫于盛都聞之由。被仰出也。


法界門東辺一條面。可下于寺家旨申之。即御領掌也。


 前半は第8代将軍・足利義政が盛都聞に相国寺法界門の再興を命じるものである。同年2月15日の条に「法界門造畢」とあるので早くも完成したようだ。後半は相国寺の法界門が一条にあり、その東側が寺領であったという意味であろうか。これが有馬氏の根拠となっているようだ。
 さらに「その後、天和二年(1682)七月の調書によると、東西四町、南北六町とある。今でも東門前には「塔之段」という地名が残っており、かつての七層宝塔所在の旧址といい、「毘沙門町」は毘沙門堂の址、西門前の「風呂の図子町」は浴室の址といわれる。」と説明している。
それにしても、百四十四坪とは想像を絶する数値である。平方米に直すと4,760,330m2、方形の敷地ならば一辺2200mとなる。現在の京都御苑が東西約700m、南北1400mであるので,いかに広大な敷地であったか分かる。

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相国寺 総門 2008年5月17日撮影


 これに対して、「京都・山城 寺院神社大事典」(平凡社 1997年刊)の記述は異なっている。先ず応仁の乱以前の景観を描いたとする中古京師内外地図を参照している。東は万里小路、西は東洞院、南は上立売と北小路すなわち現在の今出川通の中間、北は寺之内通を東へ延長した範囲としている。万里小路は現在の柳馬場通のことである。これは現在の相国寺の境内に比較的近いものである。
 さらに応仁の乱以後の景観とされる中昔京師地図も参照している。東はやはり同じ万里小路、西は烏丸まで拡張されている。南も同じ北小路で、北は上御霊社とやや延びている。2つの地図に描かれた相国寺の寺域は、現在の相国寺の境内とそれ程大きくは変わっていないようだ。さらに江戸初期の寛永14年(1637)の洛中図より、東は相国寺藪ノ下北半町、西は烏丸、南は相国寺六おんノ町、北は上御霊社の範囲が相国寺の寺域としている。

 上京区相国寺門前町が、現在の相国寺の境内と同志社大学の一部を占めている。相国寺の名称が付く町名は相国寺門前町だけであるが、もとの町名は相国寺門前、大門町、鹿苑院門前東町、鹿苑院門前西町、九軒町、二本松町、石橋横町の7町であった。文久2年(1862)、相国寺の南部に薩摩藩邸が出来た時に相国寺門前町と石橋町に分かれたが、明治2年(1869)に再び相国寺門前町に合併している。上記の相国寺六おんノ町とは鹿苑院門前東町、鹿苑院門前西町のことである。
 現在、この相国寺門前町を取り囲むのは、御所八幡町、玄武町、常盤井殿町、下塔之段町、上塔之段町、毘沙門町(上立売通)、毘沙門横町、藪之下町そして高徳寺町、上御霊馬場町と上御霊前町である。この内、下塔之段町、上塔之段町は相国寺の大塔があったことから名付けられた町である。中古京師内外地図には「相国寺ノ大塔、高三百六十尺、横三百六十尺、南北三百六十尺」とある。大塔は足利義満が父の義詮の供養のため応永6年(1399)に建立したが、応仁元年(1467)に焼失している。中山定親の日記「薩戒記」によれば、「仲塔在寺外 入道内府所建立 彩色之間也、在富小路ノ東、毘沙門堂南也」とあるので、相国寺の境外、下塔之段町、上塔之段町辺りと考えてよさそうである。また「山州名跡志」にある塔壇は、下塔之段町と上塔之段町に数町を加えた総称で、現在もこの辺りを「とうのだん」と呼ぶことがあるようだ。

 相国寺建立時の伽藍の様子は、東坊条秀長著の「相国寺供養記」(「群書類従 第24輯」(続群書類従完成会 1980年刊))に記されている。

相国寺供養記 式部大輔秀長卿

明徳三年歳次壬申八月廿八日丁丑。天顔快晴。秋気清爽。今日万年山相国承天禅寺供養也。(中略)今者金殿玉堂。朱楼宝閣。周垣廿余町也。所造之殿門等。

  棑門。妙荘厳域。 惣門。万年山。
  山門。相国承天禅寺門前。有池有橋。 仏殿。覚雄宝殿有之。東西有廊。
  土地堂。冥資。 祖師堂。密符。
  法堂。雷音堂。 庫院。香積院。
  僧堂。選仏場。 方丈。 
  浴室。宣明。 東司。西浄。
  講堂。 鐘楼。
  塔頭。鹿苑院。三重塔婆 常徳院。 資寿院。 雲頂院。 大智院。
   
  帰一集雲以下。寮舎等不毛挙


 なお「相国寺供養記」の「周垣廿余町也。」を創建当時の境内の周長と考えるならば、東西と南北の和が十町すなわち1100m程度になる。これは現在の境内と比較してもそれほど違和感がない数字である。

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相国寺 勅使門 2008年5月17日撮影


 最後に江戸時代以降の地図をもとにして、相国寺とその周辺の変遷を見てゆく。「相国寺研究 三 近世の相国寺」(相国寺教化活動委員会 2008年刊)は、伊藤真昭氏が「相国寺文書調査からわかったこと」というタイトルで行った研修会の講義録である。伊藤氏は、文久2年(1862)に薩摩藩邸が相国寺の西南に造られた際の契約書などを含めた文書を紹介しているが、その前段として江戸から明治に至る相国寺の変遷を18種の地図を使い説明している。最初に取り上げたのは、中井家文書として残されている「中むかし公家町之絵図」である。慶長16年(1611)から元和元年(1615)年頃の御所を中心とした公家町の様子を描いた絵図である。相国寺自体は描かれていないが、その周辺の様子が良く伝わる。現在の京都御苑の北西隅とは町屋があったことが分かる。今出川通の北側も冷泉家と山科家を除くと町屋である。文久2年(1862)に薩摩藩邸に土地を貸した経緯を見ると、これらの町屋は相国寺の借地に建てられたものであったことが分かる。
 今出川御門の北側、相国寺の南門へつながる道沿いには浄土宗の浄福寺と報土寺がある。浄福寺は元和元年(1615)に現在地である上京区浄福寺通一条上ルに移り、報土寺も寛文3年(1663)頃に上京区仁和寺街道六軒町西入ルに移っている。

 貞亨3年(1686)に刊行された新撰増補京大絵図には、現在の玄武町に伏見宮邸と同じく常盤井殿町二条家邸が描かれている。二条家は今出川通の北側のこの地に移転したのは、寛文3年(1663)、霊元院へ譲位した後西院の院御所用地が必要になったためである。また烏丸通が柳之辻子で突き当たりになっている。この烏丸通が北に延長されたのが大正天皇の大典の時である。新撰増補京大絵図では、柳之辻子以北の相国寺の境内は烏丸通より西側に一本入った室町通まで拡がっている。相国寺門前町の北側が烏丸通の西側に入っているのは、元の境内であったからであろう。この絵図から、その北限が上御霊神社にほぼ接していたことも分かる。

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相国寺 宗旦稲荷社


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