徘徊の記憶

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zoom RSS 相国寺 その2

<<   作成日時 : 2017/06/13 07:24   >>

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臨済宗相国寺派大本山萬年山 相国承天禅寺(しょうこくじょうてんぜんじ)その2 2010年1月17日訪問

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相国寺 


 相国寺の塔頭・林光院の墓地にある薩摩藩戦死者の墓について調べてみたら、その2その3その4と続き、当初考えていた以上の長編になってしまった。次の目的地も相国寺墓地内にある禁門変長州藩殉難者塔であるので、上立売通から相国寺の境内に入る。相国寺は2008年5月の最初の京都訪問以来となる。もともと観光客に対しての公開が少なく、法堂と方丈が春秋の特別公開時、開山堂及び庭園は秋期、浴室も春期のみの拝観となっている。その春秋の特別公開期間も、それぞれ凡そ2ヶ月間程度なので、1年の内の半分以上は非公開ということになる。その上、定期的に公開している塔頭も現在のところないため、京の夏の旅などの非公開文化財の特別公開を利用しない限り拝観できない。そのため相国寺の境内は観光客もまばらで、禅寺としての落ち着いた雰囲気を保っている。今回も公開期間外であるので法堂や方丈を拝観することはできない、前回の訪問の際に一応、相国寺の略歴を書いているので、創建当時の将軍足利義満を取り巻く政治的な状況を中心に記すこととする。

 相国寺の正式な名称は、臨済宗相国寺派大本山萬年山 相国承天禅寺である。足利幕府第3代将軍・足利義満が相国寺建立に着手したのは永徳2年(1382)である。正平13年(1358)生まれであるから、24歳の時のことである。それよりも15年ほど前の貞治6年(1367)9月29日に、義満は天龍寺に参拝し、住持の春屋妙葩から仏弟子として受衣している。これが春屋との初めての出会いとされている。
 この前年の貞治5年(1366)8月には貞治の変が起きている。第2代将軍足利義詮が軍勢を集結させ自らの側近で有力守護大名であった斯波高経に対し、陰謀が露見したので処罰を下すと宣言している。抵抗できない情勢を悟った高経は、自邸を焼き払い領国に落ち延びている。この政変は幕府内の京極氏や赤松氏等の高経への強い不満が、将軍義詮への圧力となり引き起こされたと考えられている。領国の越前へ下った高経に対し、京極高秀、赤松光範、山名氏冬、土岐頼康、畠山義深等による幕府の大軍が派遣され、高経の杣山城と栗屋城を包囲している。翌貞治6年(1367)7月、高経は復権することなく場内で死去している。
 斯波氏が失脚すると、将軍義詮はその領国である若狭・越前・越中・摂津の守護職を没収し、幕府の御料所とする。これは有力な守護権力を抑制すると共に、幕府の権威を高めることにつながる行動となった。さらに義詮は南朝方に降った細川清氏を讃岐で討った細川頼之を京に召還し、佐々木氏、赤松氏の支持を取付け管領に推挙している。その前後に発病した将軍は、同年12月7日に没する。義詮の遺言により、新将軍義満を管領細川頼之が支える体制が非常に短い期間で完成した。

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天龍寺 2009年11月29日撮影


 南朝が衰微したといえ、いまだある程度の勢力を確保している上、幕府内でも政変が相次ぐなど、新将軍の基盤は不安定この上ないものであった。頼之は幕府による土地支配を強固なものとするため応安大法を行うと共に、京都や鎌倉の五山制度を整えて宗教統制も図っている。さらに南朝の勢力圏であった九州に今川貞世と大内義弘を派遣し、南朝勢力の弱体化と幕府権力の強化を推し進めている。頼之が南禅寺派を支持し、さらに五山制度を推進したことにより、比叡山を中心とする旧仏教勢力との対立が鮮明になった。
 発端は応安2年(1369)の南禅寺山門の新築にあたり、資金調達のために関所を作り関銭の徴収を始めてことにある。三井寺の僧と通行について争いが生じ、南禅寺側に死者が出る事件が発生する。三井寺は延暦寺と共に僧兵を繰り出し関所破りを実行したため、南禅寺の定山祖禅は三井寺を激しく批判する「統正法論」を書いている。これに怒った三井寺は南禅寺の山門の破却と定山祖禅と春屋妙葩の流罪を強訴する。春屋は管領の細川頼之を頼ったが、僧兵の強訴を恐れた朝廷と諸将によって、定山の遠江への流罪と山門の撤去を実行せざるを得なかった。この裁定に抗議の意を表すため春屋も勝光庵に隠れてしまう。
 ほとぼりが冷めた応安4年(1371)、管領自ら南禅寺の旧観に復すべく、春屋に南禅寺入寺を要請する。春屋は頼之の要請を辞し、門弟を引き連れ丹後の雲門寺へと隠れてしまう。管領・細川頼之に反発する勢力が大きくなりつつあるのを見ながら、近い将来に失脚することを確信し協力を断ったのであろう。

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南禅寺 山門 2008年5月12日撮影


 康暦元年(1379)、斯波派、土岐氏、山名氏等の反頼之派は義満に対し、頼之の排斥と討伐を要請する。この頃、近江では反頼之派に転じた佐々木高秀による挙兵、鎌倉公方足利氏満が中央進出への蜂起が相次いで起こる。同年4月13日、義満が斯波義将等の圧力により佐々木高秀や土岐頼康らを赦免すると、反頼之派は軍勢を率いて将軍邸の花の御所を包囲し、義満に頼之の罷免を迫る。閏4月14日、罷免された頼之は自邸を焼いて一族を連れて領国の四国へ落ち延びる。斯波高経の貞治の変と同じことが、康暦の変として繰り返されたわけである。この下国の途上で頼之は出家までしている。
 康暦の変は細川頼之からの自立を望んだ義満によって引き起こされたとする説もあるが、斯波氏と細川氏両派の抗争を利用し、相互に牽制させることによって守護大名の強大化を防ぐ狙いがあったことは確かであろう。変の終結後、後任の管領には斯波義将が就任し、幕府人事も斯波派によって塗り替えられる。そして丹後で隠棲していた春屋妙葩も京に呼び戻されている。同年6月、南禅寺に入寺し僧堂を始めとする諸堂の再建を果たす。そして同年10月13日、義満は勅旨を奉じて春屋を天下僧録司に任じている。
 時間が前後するが、義満が邸宅を三条坊門より北小路室町に移し幕府の政庁としたのは、康暦の変より前の永和4年(1378)のことであった。敷地の東側を烏丸通、南側を今出川通、西側を室町通、北側を上立売通に囲まれた東西一町南北二町になる。後に花の御所と呼ばれ、その所在地により室町幕府と呼ぶこととなる。

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天龍寺 臨川寺三会院 2009年11月29日撮影


 永徳2年(1382)9月29日、嵯峨の三会院において夢窓国師の法要が営まれている。相国寺の公式HPに掲載されている「相国寺のあゆみ 寺号」によれば、参詣した義満は春屋妙葩と弟弟子の義堂周信を招き、「一寺を建立して道心堅固な僧侶50名ないし100名を止住させ、自らもまた何時となく道服を着けて寺に入り、皆とともに参禅修行をしたいのだがどうか」と新たな寺院の建立を相談している。
 さらに10月3日に義満は二師を招き、造営について後小松帝に奏請して勅許を得るため、新しい寺院の寺号を諮っている。春屋は義満の官位である左大臣の中国名から相国寺を提案している。義堂は中国には大相国寺があることを述べた後、天子の思し召しを承ることから承天相国寺とすることを勧め、これが寺号となっている。本山及び塔頭所蔵の文書・史料を纏めた相国寺史料(思文閣出版 1984年刊)の第1巻に所収されている「相国考記」には空華日用工夫略集の永徳2年(1382)10月3日の条として下記のような一文が残されている。

十月三日、府君義満召僧録普明国師干時住天龍泊義堂和尚干時住等持寺曰、吾新欲建小寺、去月晦日、於三会院、略説其事、両和尚記之、君曰、然則奏于内裏、要承天気、今日々吉、請安寺号、僧録曰、宣在君意、君曰、吾那得知其由乎、僧録曰、君今位至承相、為相国寺如何、義堂曰、余所趣向与僧録同、唐土東京有大相国寺恰好、府君大喜、義堂又曰、寺号或有四字者、或有六字者、又奏承天気、喚作承天相国可乎、府君・僧録肯之


 次いで21日には義堂と新しい寺の規模について話し合っている。義堂は、「従来開かれた禅苑としては、鎌倉の建長、円覚、京都の南禅、天龍などいずれも千人以上の僧衆を入れるだけの規模宏大であります。せっかく発願ならば、仏種紹隆のため、よろしく大叢林を建立されよ」と勧告している。最初の義満の「或五十人、或百人、要選僧侶共住、吾以道服不時入寺行道、是建寺本意也」から比べると飛躍的に規模が拡大されている。義満は義堂の言葉に励まされ大伽藍建立の決意をしている。

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足利将軍室町第址


 前述のように義満は永和4年(1378)に北小路室町に幕府の政庁を移している。新しく創建する寺院は東隣の安聖寺付近と定め、家屋の移転がはじめられた。安聖寺は臨済宗聖一派の寺院で開山は秀峰尤奇。建物は聖一派所縁の万寿寺や東福寺栗棘庵に移され、跡地には相国寺の塔頭・鹿苑院が設けられた。その周辺には御所に仕える公家達の屋敷が立ち並んでいたが、貴賎の区別無く他所へ移されたため平家の福原遷都にも似た強引なものだったと「続史愚抄」の10月6日の条は伝えている。
 永徳2年(1382)10月29日には、春屋妙葩を最高責任者として法堂、仏殿の立柱が行われている。永徳3年(1383)12月13日、春屋は住持として入寺、至徳元年(1384)3月、大仏殿立柱。この時寺号を万年山相国承天禅寺と定める。
 至徳3年(1386)には三門の立柱上棟を行っている。義満は相国寺を五山に列するために、亀山天皇の建立された南禅寺を五山の上位にするという義堂の進言を採り入れ、五山第二位に列位させている。この年の10月26日、76歳となった春屋は法灯を空谷明応に譲り退職している。その後も義満や空谷を支援したが、落慶を待たずに嘉慶2年(1388)8月13日に示寂されている。

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相国寺 東門


 工事は順調に進んで行く。嘉慶元年(1387)7月に梵鐘が鋳造され、同2年(1388)僧堂が落慶、明徳元年(1390)閏3月には足利尊氏の三十三回忌法要が行われている。同2年(1391)4月、法堂が完成し、10月には巨鐘を造るなど完成に着々と近づいている。明徳3年(1392)8月、永徳2年(1382)から始まった相国寺創建の工事は10年の歳月を経て完成する。同月28日、勅旨により慶讃大法会が修せられる。
 相国寺の創建に尽力した春屋妙葩は既に嘉慶2年(1388)に示寂している。建立が始まった永徳3年(1383)10月1日、足利義満は天龍寺金剛院に春屋妙葩を訪ね、新たな寺の開山となることを懇請している。既に天龍寺の住持を退き金剛院に居られた春屋は固く辞退し、代わりに当時の名僧を幾人か列挙している。しかし義満が何れも受け入れなかったため、やむなく夢窓疎石を追請して開山始祖とし、自ら第二世住持となることを条件に春屋は引き受けた経緯がある。そのため相国寺の開山は夢窓疎石、第2世が春屋妙葩、実際に建設に携わった空谷明応が第3世、その後、嘉慶2年(1388)7月22日に大清宗渭が入寺、同年11月8日には雲渓志山が入寺と続く。そして第6世に絶海中津が竣工した明徳3年(1392)10月3日に入寺している。第5世の雲渓志山が明徳2年(1391)11月14日であったので、絶海が入寺する間の約1年間は住持がいなかったように思われる。
 さらに絶海は七層の大宝塔の建立計画を進め、翌4年(1393)6月に立柱、9月に中国に注文していた法鼓及び洪鐘が到来している。なお360尺の七重大塔が竣工するのは応永6年(1399)のことであった。伽藍が完成した2年後の応永元年(1394)9月24日、真歳寮という寮舎から出火し伽藍ことごとくを焼き尽くしている。これが相国寺の最初の被災となった。

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相国寺 


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