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zoom RSS 薩摩藩戦死者の墓 その3

<<   作成日時 : 2017/05/14 15:27   >>

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薩摩藩戦死者の墓(さつまはんせんししゃのはか)その3 2010年1月17日訪問

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相国寺 薩摩藩戦死者墓 


 薩摩藩戦死者の墓 その2では、甲子戦争での薩摩藩の戦闘状況を書いてきた。この項では薩摩藩戦死者の墓に祀られている人々の行動を墓に埋められた陶板と幕末維新全殉難者名鑑を比較しながら明らかにすると共に、靖国神社への合祀までの道程について記す。

 幕末維新に斃れた人々の事跡について調べるために、明田鉄男氏の「幕末維新全殉難者名鑑」(新人物往来社 1986年刊 以降、全殉難者名鑑とする)を参照する。元治元年(1964)7月19日の甲子戦争の薩摩藩の戦死者は8名。その内5名が当日死亡、残りの3名は傷が元で後日亡くなっている。8名は以下の通りである。

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相国寺 薩摩藩戦死者墓 基壇に陶板が埋め込まれている


禁門の変(元治元年七月十九日)

[守衛側薩摩藩]
赤井兵之助 直荘 元治元年七月十九日禁門で戦死。二十二歳。靖国。
来田源四郎    元治元年七月十九日禁門で戦死。
野村勘兵衛 盛芳 盛方とも。隈之城部長。
         元治元年七月十九日禁門で戦死。靖国。
野村藤七郎 盛次 隈之城郷士。源七の子。
         元治元年七月十九日御所公卿門で戦死。
         二十歳。京都・相国寺と郷里大源寺に墓。靖国。
浜田藤太郎 良儀 出水郡阿久根郷士。
         元治元年七月十九日烏丸中立売で傷、二十九日死。
         十八歳。京都・相国寺に墓。靖国。
松平矢七郎 定次 松下弥七郎。出水郡阿久根の郷士。
         元治元年七月十九日蛤門で傷、三十日死。
         二十六歳。相国寺に墓。靖国。
宮内彦二  維寧 清之進の二男。江戸昌平黌学頭、
         帰藩して造士館教授。文久二年上京。
         元治元年七月十九日中立売門で戦死。
         二十六歳。鹿児島・福昌寺に墓。靖国。
森 喜藤太    元治元年七月十九日禁門で傷、八月九日死。靖国。


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相国寺 薩摩藩戦死者墓 中央陶板の拡大 2016年3月5日撮影


 墓の正面中央に埋め込まれている陶板には以下のように記されている。

元治元年甲子七月十九日公卿御門御警護戦死
外城隊隊長    野村勘兵衛 盛芳 丗五歳
 仝戦兵     野村藤七郎 盛次 廿 歳
 仝戦兵     松下弥七郎 定次 廿 歳
 仝戦兵     赤井兵之助 直荘 廿二歳

仝年仝月仝日未明中立売ニテ戦死
 斥候役     宮内 彦二 維寧 廿六歳

大正四年乙卯四月十三日靖国神社江合祀セラレシ諸士

元治元年甲子八月九日死
         森 喜藤太    廿七歳
仝年七月三十日死
         濱田藤太郎


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相国寺 薩摩藩戦死者墓 外城隊の兵士達が戦死した公卿門 宜秋門


 全殉難者名鑑では野村藤七郎の戦死地が「御所公家門」、野村勘兵衛は「禁門」となっている。恐らく勘兵衛の戦死した場所までは確定できなかったためであろう。この他にも「烏丸中立売」、「中立売門」そして「蛤門」などで戦死者が出たことから、薩摩藩と長州藩との交戦が広範囲に及んでいたことが分かる。
 この全殉難者名鑑と「甲子役 戊辰役 薩藩戦死者墓」の台座に埋められた陶板と比較すると、先ず来田源四郎の名前が陶板に無いことに気が付く。来田については諱、出自、年齢そして戦死した場所、さらには靖国神社に祀られたという記述もない。恐らく名前以上の情報が得られなかったのであろう。この地に合葬された72名には含まれていないことは確かである。残りの7名については陶板に記されているので、一応72名の中に含まれている。全殉難者名鑑は、野村藤七郎・浜田藤太郎・松平矢七郎(松下弥七郎)の3名については「相国寺に墓」としているので、林光院に埋葬されたことを確認しているようだ。その他の4名については、「相国寺に墓」の記述がない。その様なことより明田氏は別の資料を参照して戦死者リストを作成したと考えるべきなのだろう。

 陶板の方では、隊長・野村勘兵衛以下、野村藤七郎、松下弥七郎、赤井兵之助は外城隊に所属し、公卿御門御警護で戦死としている。全殉難者名鑑では、野村藤七郎のみを「御所公卿門で戦死」、松下弥七郎を「蛤門で傷、三十日死」、隊長の野村勘兵衛を含めた3名を「禁門で戦死」としている。

 宮内彦二に関しては斥候役とし、「仝年仝月仝日未明中立売ニテ戦死」したと陶板には記されている。これは馬場文英の「元治夢物語−幕末同時代史」(岩波書店 2008年刊)の以下の記述に該当すると思われる。

此時、烏丸通南の方より、薩州の軍目付野村勘五兵衛・内田仲之助、二人、馬を飛して走来るを、長州方、敵と見てければ、切て掛るを、二人も、「左知ったり」と太刀をぬき、長州方の中へ面もふらず割て入、いどみ戦ひけるが、内田は難なく此場を切ぬけ、北の方へ走去りぬ。野村は大衆の中に取かこまれ、逃るる道なく、終にうたれければ、其首を取て、蛤御門前なる川端道喜の表車除の石の上に乗せたり。


 「元治夢物語」の編者である徳田武氏は、この野村勘五兵衛を公家門前の戦いで戦死した野村勘兵衛としている。しかし野村勘五兵衛は、勘兵衛の誤りではなく宮内彦二のことであったと考えられる方が自然である。この交戦は公卿門前の戦闘が始まる以前のものであり。恐らく当日の薩摩兵の戦死者の第一号が宮内であったのであろう。「仝年仝月仝日未明」という記述がそのことを物語っている。

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相国寺 薩摩藩戦死者墓 宮内彦二が討死した中立売御門外


 甲子戦争を通じて守衛側で最も戦死者を出したのは会津藩の58名であり、続いて越前藩の20名であった。この二藩はそれぞれ蛤御門の守衛と鷹司邸攻略を引き受けることとなったためである。次に彦根藩の11名、薩摩藩の8名、桑名藩の4名である。その他に淀藩の2名と幕府兵の3名を加えると守衛側の戦死者は106名となる。

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相国寺 薩摩藩戦死者墓 靖国神社 2017年4月2日撮影


 この項のまとめとして、甲子戦争での戦死者が靖国神社へ合祀されるまでの道程について書いてみる。陶板に「大正四年乙卯四月十三日靖国神社江合祀セラレシ諸士」とあるが、いつの時点で守衛側の薩摩藩士が合祀されたのか。
 明治元年(1868)5月10日に新政府は2つの太政官布告を発している。一つは、「癸丑以来唱義精忠天下ニ魁シテ国事に斃レ候諸士及草莽有志之輩冤枉罹禍者不少(中略)今般東山之佳域ニ祠宇ヲ設ケ右等之霊魂ヲ永ク合祀可被致旨被 仰出候」(法令全書第385)。もう一つは、「當春伏見戦争以来引続東征各地之討伐ニ於テ忠奮戦死候者日夜山川ヲ跋渉シ風雨ニ暴露シ千辛年苦邦家之為メ終ニ殞命候段深ク不憫ニ被 思食候(中略)此度東山ニ於テ新ニ一社ヲ御建立永ク其霊魂ヲ祭祀候様被 仰出候」(法令全書第386)である。つまり、前者はペリー来航以来国事に奔走し斃れた者すなわち殉難者を東山に祀り、後者は鳥羽伏見の戦以降の戊辰戦争の戦死者を祀るために新たに東山に社を建立するということである。同日に発せられた太政官布告であるが、国事鞅掌者と戊辰戦争の戦死者は分けて祀る筈であった。この時、新政府は京都にあったが、慶応4年(1868)7月17日に江戸が東京と改称され、同年9月に元号が明治に改められている。そして同年10月13日に天皇が東京に入り、明治2年(1869)に政府が京都から東京に移されている。明治2年(1869)6月12日、大村益次郎の献策で新たな招魂社は東京招魂社という名称で東京九段に建立されることが決定している。早くも同月29日に五辻安仲を勅使とし、軍務官知事仁和寺宮嘉彰親王を祭主に戊辰の戦没者3588柱を合祀鎮祭している。創祀時は未だ仮神殿の状態で、本殿が竣工したのは明治5年(1872)であった。函館五稜郭の開城が5月18日であったので、東京招魂社の創建が決まる前に戊辰戦争が終結し、戦死者を祀る準備に入っていた。

 上記のように最初に祭神となったのは、第1回合祀祭の戊辰戦争で戦場に斃れた人々であった。明治12年(1879)別格官幣社となった際に、東京招魂社から現在の靖国神社へ社名を改めている。そして軍の管轄から神社行政を総括していた内務省へと移っている。
 明治16年(1883)6月の第13回合祀祭で、土佐藩の坂本龍馬、中岡慎太郎、武市瑞山、吉村寅太郎を含む土佐勤王党の80名が靖国神社に合祀されている。これが、靖国神社に初めて合祀された維新前殉難者である。土佐勤皇党の合祀が他に比べて早かったのは、田祐介氏の「明治維新「志士」像の形成と歴史意識」によれば、土佐藩は他藩より早くそして熱心に殉難者履歴書を作成し、その履歴の事蹟に疑わしい部分がなく合祀適合の判断が早く下されたためとされている。つまり明治8年(1875)に内務省が東京招魂社への合祀を標榜し、全国の府県へ維新殉難者の履歴を調査・提出させることを企図した達を布告している。土佐藩は同年8月から翌9年(1876)10月にかけて総計105名分の履歴書を纏め、内務省へ提出している。恐らく旧藩主である山内容堂が明治5年(1872)に亡くなり、土佐勤王党復権が容易になったことが維新殉難者一号という形になったとも言える。

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相国寺 薩摩藩戦死者墓 靖国神社の大村益次郎像 2017年4月2日撮影


 明治21年(1888)5月の第16回合祀祭で長州藩士民601名、土佐藩士5名が合祀されている。この合祀には安政の大獄で刑死した吉田松陰、池田屋事件で闘死した吉田稔麿から四境戦争で病死した高杉晋作や長州で暗殺された中山忠光までが含まれているが、凡そ240名が甲子戦争で戦死あるいは自刃したものである。つまり責任を負って切腹した三家老や斬首された四参謀を含め久坂玄瑞、寺嶋忠三郎そして入江九一等松下村塾門下生から来島又兵衛までがこの時にまとめて合祀されている。さらに驚くべき事は、甲子戦争の守衛側の戦死者に対する合祀は行われなかったことである。このことは長州藩の正当性を明らかにするため甲子戦争を含めた維新史を書き直したと言ってもよいだろう。さらにそれを補うように、同年11月に第17回合祀祭が行われ、天王山で玉砕した真木和泉守以下と原道太を含む久留米藩の18名が加えている。ちなみに第16回合祀祭で土佐藩は5名を追加したが岡田以蔵だけは忌避されている。

 翌22年(1889)5月の第18回合祀祭に於いて水戸藩出身者1460名が合祀されている。安政の大獄に連座した安島帯刀、茅根伊予之助そして鵜飼父子を始め桜田門外の変の金子孫二郎、高橋多一郎等そして元治元年(1864)天狗党の乱で刑死した武田耕雲斎、藤田小四郎同藩士民1390名。これに宍戸藩主・松平大炊頭以下63名、守山藩士・中村修之助等9名も加わった。同年11月の第19回合祀祭では薩摩藩の有村次左衛門、有馬新七等16名、坂下門外の変に連座した河野顕三や天王山で自刃した広田精一等の宇都宮藩士民から橋本左内、梅田雲濱までの61名であった。
 同24年(1891)11月には全国43府県の1272名が合祀されたが、このうちの549名が維新前殉難者であった。宮部鼎蔵、頼三樹三郎、平野國臣、野村望東尼、清河八郎、藤本鉄石、田中河内介、古高俊太郎そして龍馬暗殺の場に立ち合って斬殺された山田藤吉等が含まれている。そして残りの内で711名が戊辰戦争に関連した者であった。第1回合祀祭で戊辰戦争の戦死者の合祀が行われたが、この明治24年には戦傷死から病死、船舶沈没に伴う溺死や暗殺、斬殺、自殺した者まで合祀の条件を拡げた結果であった。このように明治20年代前半に、国事奔走者の多くが維新前殉難者として合祀され、戊辰戦争の追記も行われてきた。

 政府は明治24年11月の第20回合祀祭を以って維新前殉難者の合祀を終了しようとしたが、まだ追加要請が出たため、明治26年(1893)11月に第21回合祀祭を行い、茨城県、熊本県、東京府などの80名を追加している。ここで合祀されなかった主な者とその理由として、窪田伴治、野村勘兵衛、野村藤七郎等が「禁門守衛戦死につき除外」、本間精一郎が「事蹟疑義に渉るにつき除外」、岸静江が「長防の役戦死につき除外」であった。この後、甲子戦争の守衛側が合祀されるのは、薩摩藩戦死者の墓が建立された大正4年(1915)4月の第39回合祀祭のことであった。大正9年(1920)4月の第41回では靖国神社を創設した大村益次郎と共に明治26年に忌避された堺事件の土佐藩士13名が合祀されている。大村が暗殺されたのは戊辰戦争終結後であり、同じく暗殺された横井小楠、広沢真臣、大久保利通や病死した木戸孝允合祀されていないことを考えると特別な処遇であったことが分かる。

 さらに昭和4年(1929)4月の第45回合祀祭では姉小路公知、月性、所郁太郎、住谷寅之助、相楽総三そして伊東甲子太郎等15名、昭和8年(1933)4月の第47回合祀祭では四境戦争において幕府側で戦死した岸静江等浜田藩士が最後の維新前殉難者となっている。そして昭和10年(1935)4月に行われた第49回合祀祭で二本松藩の三浦権太夫が最後の戊辰戦争での殉難者となった。土佐藩の80名が合祀されてから50年が過ぎていた。維新前2876、戊辰戦争4418、維新前後殉難者は合計7399柱となっている。

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相国寺 薩摩藩戦死者墓 靖国神社の桜 2017年4月2日撮影


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