徘徊の記憶

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zoom RSS 薩摩藩戦死者の墓 その2

<<   作成日時 : 2017/05/14 15:18   >>

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薩摩藩戦死者の墓(さつまはんせんししゃのはか)その2 2010年1月17日訪問

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相国寺 薩摩藩戦死者墓 


 薩摩藩戦死者の墓では、薩摩藩と墓地を管理している相国寺塔頭・林光院の関係から甲子戦争の戦闘直前までの状況を書いてきた。この項では甲子戦争の戦闘状況を見て行く。

 甲子戦争は、伏見より進撃した長州藩福原軍が藤森で大垣藩と遭遇することにより始まっている。元々、伏見、天龍寺、山崎の三箇所から御所にほぼ同時期に到達するように出陣している。しかし伏見を子の刻(午前0時頃)に発進した福原軍は、御所に達する以前に大垣兵と遭遇したため開戦が想定より早く始まってしまったのである。伏見からの進撃経路はほぼ伏見街道に限られているため、福原軍がこのような事態に陥ることは、始めから分かっていたことでもある。この戦闘の推移については、京都御苑 凝華洞跡 その5で詳しく説明しているのでここでは省略する。もともと福原軍は天龍寺の国司軍、山崎の益田軍と比べ、萩の士族を主体としているから弱いとされていた。勇将を一人遣して呉れて云うことで、開戦前に天龍寺より太田市之進を送る事となった。しかし太田は一人行っても弱兵ばかりでは仕方がないと辞退している。それではと云うことで、松本鼎三、阿武彦助等20人ばかりを引き連れていったと「忠正公勤王事蹟」(防長史談会 1911年刊)には記されている。開戦前から福原軍は不安を抱えていたことが分かる。

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相国寺 薩摩藩戦死者墓
伏水街道第四橋 福原軍と大垣藩が交戦した直違橋 2016年1月22日撮影

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相国寺 薩摩藩戦死者墓
伏水街道第四橋 2016年1月22日撮影


 福原軍が直違橋(京都市伏見区深草直違橋北1丁目 伏水第四橋のあたり)に差し掛かった所で、大垣藩は砲撃を浴びせている。福原軍は反撃を行いながら前進すると、待ち構えていた大垣藩の第二陣と戦闘状況に入る。ここで敗走したと思われていた大垣藩の第一陣が戦場に戻り第二陣と福原軍を挟撃する。豊後橋(現在の観月橋)守衛の小浜藩も音を聞きつけ、その後部から福原隊に攻撃を仕掛け、さらに竹田街道を守衛していた会津藩、桑名藩そして新選組も福原隊殲滅に加わる。四方から攻撃された福原隊は窮地に陥り、隊長の福原越後も狙撃に遭い、負傷して墨染まで下がって行く。さらに馬上にあることも耐え難くなり、辺りの民家で駕籠を調達し伏見の藩邸へ引き返そうとするが、既に彦根兵によって火が放たれていたため山崎まで退くこととなる。大将を失った福原軍は建て直しを図りながら入京を試みるが、守衛側の壁を打ち破ることができずに、遂に京都に入ることもできずに撤退することとなる。

 天龍寺に篭った国司軍の発進は如何なるようなものであったか。7月19日丑の刻(午前2時頃)本陣にて法螺貝が吹かれ、兵が法堂前に整列を始める。そして一隊毎に本陣内に入り、すぐに戻り元の場所で整列する。これを繰り返した後に、本陣内に太鼓三声が轟き、京に向かって出陣した。これが午前3時頃のことだったようだ。午前6時には福田理兵衛が陣営の返謝として金300円を持参している。毛利家が朝敵となるため、寺門に災いが降りかからないように、長州軍の幕を取り除き、寺門の幕を張り、高張提灯等も取り替えた上で、境内の清掃も行なっている。長州軍の大砲は既に境内にはなく、総門前の木砲2門のみが残っていたようだ。

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相国寺 薩摩藩戦死者墓 国司軍が駐屯した天龍寺 2009年11月29日撮影

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相国寺 薩摩藩戦死者墓 天龍寺


 国司軍の進撃について、末松謙澄著の「防長回天史」(「修訂 防長回天史 第四編上 五」(マツノ書店 1994年覆刻))では以下の様に簡潔に記している。

<blockquote嵯峨方面に在りては十八日夜半国司信濃兵八百余を率ゐて天龍寺を発し途北野を経一条戻橋に至り軍を分て一と為し一は来嶋又兵衛をして率ゐて蛤門に向はしめ一は中村九郎と共に自ら之を率ゐて中立売門に向ふ</blockquote>

 深夜の行軍であったことも含め、土地勘のない長州兵にはどこを通過したか分からなかったのであろう。国司軍の天龍寺から御所までの進軍経路は明らかになっていない。幕府側の史料では、中立売御門、蛤御門、下立売御門前に現れたところから始まる。上記のような長州側の史料においても明確な経路を示していないが、「防長回天史」のように一条戻橋で軍を分けたとする説と「尊攘堂叢書二」(「日本史籍協会叢書 尊攘堂書類雑記」(東京大学出版会 1918年発行 1972年覆刻))に「七月十八日ノ夜京師ニ向ヒ帷子衢ニ至リ兵ヲ三隊ニ分チ国司信濃一隊ヲ率ヰテ中立売門ニ彼(来嶋又兵衛)ハ児玉小民部ト共ニ一隊を率ヰテ蛤門に至リ一隊ヲ伏兵トス」とあるように、帷子ノ辻で軍を分けた説もあるようだ。三原清尭の「来嶋又兵衛傳」(来嶋又兵衛翁顕彰会 1963年刊)は「防長回天史」の一条戻橋で兵を分けた説を採用し、堀山久夫の「国司信濃親相伝」(マツノ書店 1995年刊)では、帷子ノ辻で二隊に分かれ、さらに出水で来嶋又兵衛と児玉小民部が分かれたとしている。特に堀山は、長州藩の手組として夜九ツ時(午前0時)天龍寺を出発して嵯峨街道を進み帷子が辻で二手に分かれたと定めていたため、当日も手組に従って行動したと推測している。嵯峨街道とは下嵯峨村に至る下嵯峨街道のことであろう。
 馬場文英の「元治夢物語−幕末同時代史」(岩波書店 2008年刊)は、国司軍の行軍を下記のように記している。

扨、帷子が辻より二手に分て進む所に来嶋又兵衛・児玉小民部は、「下立売御門より進むべし」とて道を急ぎ走向ふ。又、国司信濃は、「北へ廻り、中立売御門の方よりすすまん」と此手へ走向ふたり。


 7月19日丑の刻(午前2時頃)に陣触れが出され、国司軍は1時間後の午前3時頃から進軍を開始したと考えられている。どの道を使用して洛中に入ったかは明らかでないが、現在のところ一条戻橋で国司信濃と来嶋又兵衛の隊が分かれたとする説を採用する書籍がやや多いように思える。天龍寺の総門から御所の蛤御門まで直線距離で凡そ7.5kmなので凡そ2時間の行軍で到着したとするならば、現在の5時頃には御所の西側に軍勢が集結していたこととなる。この甲子戦争が勃発した元治元年(1864)7月19日は現在の8月20日にあたる。京都の日の出は5時20分であるから、三隊とも日の出前には御所に到着している。その様子を馬場は「元治夢物語」に下記のように記している。

頃は元治元年甲子七月十七日、まだ明けやらぬ東雲の頃をひ、何となく騒々しく、炮声頻りに響き、人馬の物音幽かに聞へけれども、遠からず次第々々に物音近く進み、手に取る如く喧びすければ、何事やらんと臥たるままに枕を欹け、耳をすまして考るに、奔走の音かかしましく、「長州様の出立を見よや」と口々に云声にをどろき、只事ならずと寝衣のまま門の戸を開き見れば、最早中立売通には見物の人群集せり。その物陰より旗差物の見ゆるに、長州国司信濃朝相と記したる文字明にして、毛利家の紋所まで顕然たれば、すは大変こそ出来たりと思ひしかども、尚も辺近く進みよりて、其行勢を伺ふに、紛ふ方なき嵯峨天龍寺に屯したる長州の家老国司信濃なり。


 遂に下立売御門で長州藩と守衛の仙台藩の間で戦闘が開始する。長州藩は会津藩以外を敵とせず、着京以来自らの主張を諸藩に回覧していることから、先ずは九門内への進入を諸藩に申し出ている。そのため開戦までに時間がかかり、町人などの野次馬も多数出ていたようだ。

 守衛側から見た開戦時の状況については、山川浩の「京都守護職始末」(東洋文庫 「京都守護職始末 2 旧会津藩老臣の手記」(平凡社 1966年刊))にある。

国司信濃は、すでに夜半に嵯峨を出で、天竜寺に屯集していた兵の一部を率いて、その一手は、中立売門の筑前兵を撃ち破り、門内に闖入してきた。また、ほかの一手は、中立売門の南にある烏丸邸の裡門から邸内に闖入し、それから日野邸の正門を押しひらき、唐門を守衛していたわが藩の内藤信節の軍に砲撃をしかけてきた。
これよりさき、唐門前に集っていた諸藩の守兵は、新在家の砲声が起こるや、ことごとく北にのがれ、いまはただ、わが内藤の一隊だけが門前を守っているばかりであった。賊兵は、日野邸の塀のうちを拠点にしてさかんにわが兵を攻撃したが、わが兵はあいにく拠るべき地物がなかった。そのうち硝薬が尽きたらしく、砲撃は数刻で止んだ。


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相国寺 薩摩藩戦死者墓 京都御所 宜秋門


 この唐門とは公卿門であり、現在の呼び方では宜秋門となる。「日野邸の正門を押しひらき、唐門を守衛していたわが藩の内藤信節の軍に砲撃をしかけてきた。」とあるが、これは前日より既に日野邸に紛れ込んでいた長州兵による奇襲である。同じく守衛側である桑名藩の加太邦憲は、戦後すぐに京都に入り、戦闘に参加した父から実地で教えられた話を「維新史料編纂会講演速記録」に語っている。これによれば、諸藩の兵が北に逃れたことにより、一橋兵が圧迫され、桑名兵も前を塞がれ発砲できない状況になっている。隊が乱れたため桑名兵は守衛する台所門内に一度入り、隊を立て直した後、再び参戦することを試みたが、その号令も届かずさらに混乱が増したとしている。何れにしても公卿門から台所門前の広場は、戦闘に加わっていない諸藩兵によって半ばパニック状態になっていたようだ。山川の「唐門前に集っていた諸藩の守兵は、新在家の砲声が起こるや、ことごとく北にのがれ、いまはただ、わが内藤の一隊だけが門前を守っているばかりであった。」とは、公卿門前の兵が台所門の方向に移動したために生じた空白状態であった。

 以上の会津、桑名の守衛側から見た開戦直後の状況を攻撃側から見ると以下の「元治夢物語」のようになる。

長州方は、他家に目をかけず、唐門の前まで進み、既に宮中へ乗入んとの勢ひに見へければ、会・桑支へかね、唐門の居垣内へ逃入所を、長州付入にせんともみ立れば、会・桑必死と成て防げども、既にあやうく見へたるをりしも、戌亥御門の守衛より薩州の隊長吉利郡吉小松帯刀の弟、三百余人の手勢を卒し、大波のうつ如く走来り、長州方の真中へ数百の鉄炮打ち放せば、長州方、何かは以てたまるべき、新手の強兵に横を打れ、備へ乱れてたじろぐ所を、薩州方、得たりと付込、又後手の銃隊、筒口そろへて打出せば、長州方弥よ乱れ立、右往左往にちり失せたり。


 ここで始めて薩摩藩が登場する。薩摩藩側から見たこの日の戦闘は、山崎忠和著の「柴山景綱事歴」(非売品 1896年刊)が詳しい。

薩州勢ハ既ニ天龍寺ヘ押寄ントセシ処ニ長州勢ガ逆寄セスルト聞キ透サス一番隊二番隊則三番隊什長柴山景綱伍長篠原国幹戦兵桐野利秋肝付十郎永山休清田實善之助岸良俊助大脇某等ヲ引率シ直ニ錦邸ヲ繰出シ近衛家ノ裏門ヨリ表門ヘ不意ニ出テ行ントテ則一番二番三番ト順ヲ遂テ繰リ出ス時ニ道路狭クシテ直ニ進行スルヲ得ズ然ル処不意ニ砲声四方ニ起ル就中公家御門ノ一方最モ勵シ是ノ時ニ方テ景綱ガ戦兵桐野利秋肝付十郎共ニ鑓ヲ提ケ直ニ隊ヲ脱シテ道ヲ今出川通ニ横切リ公家御門ニ向ツテ走ル景綱大声ヲ発シテ叱テ曰ク誰ソヤ軍令ヲ敗ル者ト桐野肝付顧ミ笑ヒナガラ此ノ時ニ當リ軍令所カト尚疾駆スレバ永山休清田實善之助大脇某等モ皆相継テ走ル篠原国幹亦出ツ景綱其隊ヲ好ク整ヘント欲シテ同ク之ニ尾シ近衛家ノ表門ニ駆ケ付見ルニ隈之城物主野村ハ手勢ヲ引具シ桑名勢ト公卿御門ヲ固メシカ敵兵勧修寺家日野家ヲ破リ不意ニ駆ケ来リ襲撃シテ大ニ戦ヒ討死シ其戦兵又打死セシ者二三中ニモ一橋勢ハ長兵ノ為ニ大敗シテ近衛家表門ニ向テ崩レ来ル桐野肝付等ヤアーくト声ヲ掛ケ槍ヲ左右シ以テ之ヲ遮ル我カ三番隊一番ニ駆付小銃ヲ乱発シテ大ニ敵兵ヲ破ル又一番二番ノ隊モ馳来リ黒木七左衛門山口仲吾等ハ乾門ニ備ヘアル大砲ヲ押シ来リ撃チ出ス敵発砲スルヲ得ズ


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相国寺 薩摩藩戦死者墓 蛤御門

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相国寺 薩摩藩戦死者墓 
来島又兵衛討ち死の地とされる清水谷家の椋 2014年10月8日撮影


 柴山景綱が什長であった三番隊は、桐野利秋や肝付十郎等が軍令に従わず近衛家の裏門から御所内に入ったため、当初の作戦とは異なり先発となった。既に戦闘に入っていた隈之城物主の野村勘兵衛を応援し、日野邸の長州兵に当たったが、三番隊に続き、程なくして一番隊、二番隊も参戦している。黒木七左衛門山口仲吾等が乾門に備えてあった大砲を押して来たとあるので、最初に到着した野村勘兵衛は大砲を持たずに駆け付け討ち死にしたようだ。「柴山景綱事歴」には、公家門前の戦闘で長州兵を制圧した薩摩兵は日野邸に入り残留する長州人と降参の交渉を行ったことが記述されている。劣勢にあった長州兵も強かで、味方を裏門から逃がす為に時間稼ぎを行っている。これに気が付いた薩摩兵は烏丸通に打って出て、残った国司隊の掃討に当たっている。この日薩摩藩が討ち取った首級が21、生け捕りが24人であったと柴山は記している。

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相国寺 薩摩藩戦死者墓 


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