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zoom RSS 薩摩藩戦死者の墓

<<   作成日時 : 2017/05/14 15:15   >>

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薩摩藩戦死者の墓(さつまはんせんししゃのはか) 2010年1月17日訪問

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相国寺 薩摩藩戦死者墓 


 上御霊神社の西門前の鳥居の傍らにある応仁の乱勃発地の石碑を確認した後、薩摩藩戦死者の墓に向う。相国寺の墓地ではあるものの境内の外に位置する。塔頭の林光院の東側にある東門を潜って外側、上立売通の北側にある幼稚園の西側に墓は建立されている。この場所は林光院の墓地にあたる。

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相国寺 薩摩藩戦死者墓 林光院 2016年3月5日撮影


 林光院は足利幕府3代将軍足利義満の第二子、足利義嗣を弔うために建立された寺院である。義嗣は4代将軍足利義持の弟であったが、応永25年(1418)25歳の若さで早世している。夢窓国師が勧請開山となっている。もとは二条西ノ京にあったとされる紀貫之の屋敷の旧地に開創されている。応仁の乱後、三条坊門万里小路の等持寺の側に移ったが、その後も移転を繰り返している。元亀年間(1570〜73)、豊臣秀吉の命により明・韓通行使となった雲叔周悦の功に報いるため、秀吉は輪番住職となっていた林光院を相国寺山内に移設している。そのため雲叔和尚は林光院の中興の祖とされている。
 慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いの際、西軍に加わった島津義弘は戦場から退却する為に有名な中央突破を行っている。伊賀に落ち延びた義弘の許に、大阪の豪商田辺屋今井道與が急行し、堺港より義弘を乗船させ無事帰国させている。島津家は、この恩に報いるため薩摩藩秘伝の調薬方の伝授が許され、義弘も自ら僧形の像を造り道與に与えている。道與は住吉神社内に松齢院を建立し像を祀っている。後に松齢院が衰退した時、林光院5世住職となっていた道與の嫡孫乾崖梵竺が、義弘の像と位牌を林光院に移し、島津家により遷座供養が行われている。これが林光院と薩摩藩の繋がりの礎となった。

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相国寺 薩摩藩戦死者墓 林光院 2016年3月5日撮影


 同墓所には徳川時代初期の儒者・藤原惺窩の墓もある。これは薩摩藩戦死者の墓の北側にあたる。現在も林光院の管理となっており、鍵がかけられているため墓所内に立ち入ることは出来ないようだ。現在の薩摩藩戦死者の墓は大正4年(1915)10月に建立されている。これは甲子戦争の勃発した元治元年(1864)の51年後にあたる。中央の大石碑には「甲子役 戊辰役 薩軍戦没者墓」とあるので、薩摩藩士の内、元治元年(1964)7月19日の甲子戦争と慶応4年(1868)1月3日から6日にかけて御行われた鳥羽伏見の戦いで戦死した者の墓であることが分かる。東福寺即宗院には、西郷隆盛による東征戦亡之碑があるが、これは戊辰戦争で戦死した524霊を弔うための碑であり墓ではない。甲子役 戊辰役 薩軍戦没者墓は、甲子戦争と鳥羽伏見の戦いという京都で行われた戦闘で命を落とした者の合葬墓である。この墓の右手に駒札が建てられている。既に判読不可能な場所もあるものの、読める範囲で書き写すと以下のようになる。

薩摩藩志士之墓

蛤御門・鳥羽伏見の義戦に身を挺し進んで維新の大業に殉じた薩摩藩士七十二名はここに眠る。
世界の形成を明察し、祖国の進運を図り王政の復古を○○天下の正道なりと宣布し身命を賭してよく日本近代化の礎石となったのは彼等である。
爾来、春風秋雨、百星霜 邦家の前途いよいよ多難なるの○○○○○○集まり、ここに遺業を偲びその大志を顕彰する。

昭和三十九年十一月十八日
蛤御門の戦百年
薩藩戦死者追悼式典実行委員会


 昭和39年(1964)に行われた戦死者追悼式典の際に建てられたものである事が分かる。既に40余年が経過し、木に墨で書かれた駒札も判読できない状態になっている。この駒札から分かる重要な点は、大正4年に合葬された人数が72名ということである。

 元々、薩摩藩邸は中京区東洞院通錦にあったが、薩摩藩の上方での政治活動が盛んになってくると手狭になる。文久2年(1862)あるはその翌年には現在の同志社大学今出川キャンパスの地に新たな藩邸を設けている。敷地面積5805坪とされているので、凡そ20000m2の広大な地であった。慶応4年(1868)刊行の「改正京町御絵図細見大成」(「もち歩き幕末京都散歩」(人文社 2012年刊))を参照すると、薩摩藩邸が今出川キャンパスの西門、すなわち薩摩藩邸跡の碑を西南角としたL字型した敷地であったことが分かる。つまり今出川通には冷泉家を含め公家屋敷があったため、薩摩藩邸が今出川通に直接面することはなかったようだ。甲子戦争の際には、この藩邸から出動した藩兵が公卿門で長州藩を撃破している。また鳥羽伏見の戦いの際には、相国寺塔頭・養源院に薩摩藩の野戦病院が設置され、イギリス人医師・ウィリアム・ウィリスが戦傷者の治療に携わっている。このような立地と前述の林光院との縁により、戦死者の墓が林光院墓地に設けられたことは自然の成り行きであったとも言える。

 既に、京都御苑 清水谷家の椋 その3の項で書いたように、「甲子役 戊辰役 薩軍戦没者墓」の石碑の足元には、戦車者の氏名が記された陶板が埋められている。石碑の前面、すなわち上立売通に面する部分に3枚の陶板がある。その中央が甲子戦争で戦死した7名、その両脇は鳥羽伏見の戦いの戦死者を記録したものである。玉垣が巡らされているため、近くで石碑を確認することはできない。そのため望遠レンズで撮影したものを元に中央の陶板を書き写すと下記のようになる。

元治元年甲子七月十九日公卿御門御警護戦死
 外城隊隊長   野村勘兵衛 盛芳 丗五歳
 仝戦兵     野村藤七郎 盛次 廿 歳
 仝戦兵     松下弥七郎 定次 廿 歳
 仝戦兵     赤井兵之助 直荘 廿二歳

仝年仝月仝日未明中立売ニテ戦死
 斥候役     宮内 彦二 維寧 廿六歳

大正四年乙卯四月十三日靖国神社江合祀セラレシ諸士

元治元年甲子八月九日死
         森 喜藤太    廿七歳
仝年七月三十日死
         濱田藤太郎


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相国寺 薩摩藩戦死者墓
京都御苑の凝華洞跡 京都守護職・松平容保の仮宿舎


 先ず、甲子戦争の勃発する以前の陣割を見て行く。一度、京都御苑 凝華洞跡 その4で記したが、ここで再度掲載しておく。幕府は福原越後が伏見に入って以来、諸藩に守口を下記の様に定めている。


伏見
 一ノ先  戸田采女正氏彬 病気に付重臣名代 大垣藩
 二ノ先  井伊掃部頭直憲          彦根藩
  但シ掃部頭は禁闕を守るべし且桃山は井伊家にて只今より取布べし
 二ノ見  松平肥後守容保          会津藩
      松平越中守定敬          桑名藩
  但し職柄に付方面の諸軍を令し進退を司るべし
伏見長州屋敷へ入る
      蒔田相模守廣孝 京見廻組々頭   備中浅尾藩
 監事   御目付 某
  但二ノ見に在りて諸軍に令を伝ふべし
 遊兵   有馬遠江守道純          越前丸岡藩
      小笠原大膳太夫忠幹        小倉藩
  但伏見勝利の後戸田小笠原有馬の三手地形を爰に備へ其余山崎の奇兵たるべし
 八幡   松平伯耆守宗秀          丹波宮津藩
  但事発せざる前に付八幡山取布事肝要也
山崎
 先手   柳沢甲斐守保中          郡山藩
 二ノ見  藤堂和泉守高猷          津藩
  但し藤堂は八幡も心得べし
 東寺   一橋中納言慶喜
 本陣警護 会津藩
 監軍   御目付 某
 奇兵   細川越中守慶順          久留米藩
天龍寺
 右一ノ先 島津修理太夫茂久         薩摩藩
 右二ノ先 本多主膳正康穰          近江膳所藩
 右二ノ見 松平越前守茂昭          越前藩
 左一ノ先 大久保加賀守忠禮         小田原藩
 左二ノ見 松平壱岐守勝成          豫州松山藩
 洞ヶ峠  九鬼大隅守隆都          丹波綾部藩
      織田山城守信氏          丹波柏原藩
 坂本   栃木近江守綱張          丹波福知山藩
 伏見土州屋敷
 山内土佐守豊範          土佐藩
  市中廻り 市橋下総守長和          近江仁正寺藩
  長州対州屋敷押
       前田筑前守慶寧 名代重役    加賀世子
  監事   御目付 某
   但二ノ見に在りて方面の諸軍へ令を伝ふべし
  遊兵  青山因幡守忠敬          丹波篠山藩
  締り役  前田筑前守慶寧 名代重役    加賀世子
   但三條辺に在りて機に応じ応援すべし
  豊後橋  間部卍治            越前鯖江藩
       小出伊勢守英尚         丹波園部藩
   但宇治橋も心得べし
  老ヶ坂  松平豊前守信篤         丹波亀山藩
  下加茂  仙石讃岐守久利         丹波仙石藩
  上加茂  池田相模守慶徳         因幡藩
  鷹ヶ峰  池田備前守茂政         備前藩
  上加茂より川側手前
       尾州勢

宮門
  中立売門                 築前藩
  蛤門                   会津藩
  蛤門内南                 藤堂藩
  清和院門                 加賀藩
  下立売門                 仙台藩
  堺町門                  越前藩
  寺町門                  肥後藩
  石薬師門                 阿波藩
  今出川門                 久留米藩
  乾門                   薩摩藩
宮門外
  南門前                  水戸藩
  其東                   尾張家老 渡辺飛騨守
  公家門前                 会津藩
  台所門前                 桑名藩
  日門前                  尾州藩
  其南                   紀州藩
  其北                   小田原藩
  猿ヶ辻                  岡藩
  朔平門前                 彦根藩


 薩摩藩に与えられた役割は、第一に「天龍寺 一ノ先」という攻撃隊の派遣である。山崎、伏見、天龍寺という三箇所の敵陣の内、最も精強と考えられた天龍寺に対する攻撃の内でも主力が負かされている。そして第二に宮門警護として「乾門」の守衛である。これに対して京都守護職の会津藩は、「伏見 二ノ見」、「本陣警護」、「蛤門」、「公家門前」と攻撃よりは守衛に力を割くことになっている。同様に京都所司代の桑名藩も「伏見 二ノ見」と「台所門前」の二箇所、越前藩も「天龍寺 二ノ見」と「堺町門」と守衛側に廻っている。

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相国寺 薩摩藩戦死者墓 昭和39年(1964)に行われた戦死者追悼式典の際に建てられた駒札


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