徘徊の記憶

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<<   作成日時 : 2017/03/26 19:25   >>

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曹洞宗 万松山 天寧寺(てんねいじ) 2010年1月17日訪問

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天寧寺 山門の奥に比叡山が見える


 上善寺の墓地への入り方が分からなかったため、長州人首塚への御参りはできなかった。鞍馬口通に面した上善寺の山門前から寺町通を下って行くこととした。

 御土居建設時、寺町通に沿って寺院が移築されたため、この場所の寺院は寺町通の東側に一列に並ぶ。寺町頭から最初に現われるのは、曹洞宗の天寧寺である。この寺院は上善寺と同じく、天寧寺門前町として町名となっている。寛永14年(1637)の洛中絵図には既に「天寧前丁」の名を見ることが出来る。さらに宝暦12年(1762)刊行の「京町鑑」では鞍馬口通側を「天寧寺門前町」、寺町通側を「天ねん寺前丁」と記している。「京都坊目誌」(「新修京都叢書第十四巻 京都坊目誌 上京 乾」(光彩社 1968年刊))では下記のように記している。

天寧寺門前町 寺町通寺町通の極端を寺町頭と云鞍馬口地尻南側より。斜に南へ天寧寺門前えお云ふ。天正十八年開通する所也。此町東は愛宕郡鞍馬口村西は御霊馬場町。南は高徳寺町。北は隔道して上善寺門前町に境せり。
町名起源 天寧寺ある故也。往時出雲郡に属せり。因に云ふ維新前鞍馬口通は天寧寺門前町。寺町通は天寧寺前町下中筋上立売八町組に属し枝町たりしの二らり。維新後。合一せり。


 もともと天寧寺を由来とする2つの町が存在し、明治維新後それが一つとなって現在の天寧寺門前町となったことが分かる。

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天寧寺 山門脇の松陰坊遺跡の石碑
2014年10月8日撮影

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天寧寺 山門内の境内 左手に観音堂


 天寧寺のある場所には天台宗延暦寺の末寺・松陰坊があった。現在の天寧寺の山門左側に建つ碑には「天台宗比叡山延暦寺末 休憩法師 松陰坊遺跡」と記されている。この地に天寧寺が移ってきたのは天正年間(1573〜92)とされている。天寧寺は応永28年(1422)に会津にきた傑堂禅師が芦名盛信の建立により創立した寺とされている。開山の傑堂能勝は楠木正成の四男正儀の嫡男であり、若い時期は南朝再興のために戦うも負傷して出家した人物とされている。
 かつての天寧寺は会津曹洞宗の僧録司を兼ね、末寺33カ寺僧堂12を数える大寺で、最盛期には雲水1000名を擁する蘆名氏の菩提寺であった。しかし天正14年(1586)蘆名亀王丸の死によって蘆名氏は血統が途絶えると寺運にも翳りが生じる。伊達氏と佐竹氏の争いの後、佐竹義重の次男・義広が天正15年(1587)に蘆名盛隆の娘と結婚して正式に蘆名家を継いだものの、天正17年(1589)の摺上原の戦いに敗北し米沢の伊達政宗によって会津黒川を追われている。この時、天寧寺も戦火によって焼亡している。

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天寧寺 観音堂

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天寧寺 


 天寧寺10世祥山曇吉は焼け残った本尊や法宝等を収拾し、門人光吉和尚を伴い京都寺町頭の天台宗松陰坊の遺跡で天寧寺を再興している。これが天正年間に天寧寺が寺町頭に移ってきたということである。そして豊臣秀吉による御土居建設と一致している。

 京における天寧寺再興には上杉家の家老・直江兼続、初代京都所司代・板倉勝重が尽力したとされている。上杉家が会津に入るのは慶長3年(1598)で、蒲生氏郷が死去し家内不穏の動きから蒲生家が宇都宮に移された時のことである。直江兼続が天寧寺復興を支援したのは会津入り以後のことかもしれない。また板倉勝重が京都所司代に就任したのは関ヶ原の戦い後の慶長6年(1601)のことである。元和6年(1620)に長男の重宗に職を譲るまでの間、20年近く京都所司代にあったので、この時期が天寧寺の支援が行われた頃であろう。
なお、直江兼続や板倉勝重以外にも天寧寺の再興に尽力した人物として、拾遺都名所図会では、「松平伊賀守侯資料を寄て再興す」とある。上記の「京都坊目誌」では、「直江山城守建立。其後板倉伊賀守。松平伊賀守。再興の資を寄す」としている。松平伊賀守と松平加賀守ではかなり異なる。伊賀守は藤井松平氏で松平忠晴は丹波亀山藩の初代藩主となっている。加賀守は加賀前田家のことである。
 また「京都・山城 寺院神社大事典」(平凡社 1997年刊)では「安土桃山時代の武将直江兼続が再興し、のち板倉勝重・松平乗元が復興に力を尽したという(拾遺都名所図会・坊目誌)」と記している。松平乗元は天文3年(1534)あるいは同6年(1537)に亡くなっているので、板倉勝重と同じ時期の人物ではないため明らかな間違いであろう。

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天寧寺 本堂 山門の先に本堂があるのが一般的な伽藍配置

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天寧寺 本堂


 天寧寺は、天明8年(1788)1月30日に発生した団栗焼けで被災している。鴨川東側の宮川町団栗辻子の町家から出火し、東は河原町・木屋町・大和大路まで、北は上御霊神社・鞍馬口通・今宮御旅所までを焼き尽くした大火であったので、堂宇悉く焼失している。大火後の再興として文化元年(1804)に庫裡、同9年(1812)に本堂、天保14年(1843)に書院、そして嘉永2年(1849)に山門を再興している。天明の大火より50余年をかけ、幕末になってほぼ現在の姿を取り戻したことになる。
 山門を入って左手に建つ観音堂には、後水尾天皇の念持仏と伝わる聖観音像とやはり東福門院の念持仏と伝わる薬師如来像を安置されている。また京都国立博物館に寄託している重要文化財の絹本墨画馬祖龐居士問答図を蔵する。

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天寧寺 比叡山が本堂扱いになっている


 寺内の墓地には茶道宗和流の祖金森宗和、儒者寺島俊則、剣道示現流の祖といわれている善吉和尚などの墓がある。また滋野井家の菩提寺でもあるため、同家累代の宝塔が並ぶ。境内、本堂前のカヤの大木は昭和62年(1987)京都市登録天然記念物に指定される。また、本堂、書院、山門も平成14年(2002)京都市指定有形文化財に指定されている。
 寺町通から山門を通して眺める比叡山は、あたかも額縁に入れたように見えることから、「額縁門」とも呼ばれている。

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天寧寺 山門を見返す


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