徘徊の記憶

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zoom RSS 贈 正四位入江九一外七名首塚 その2

<<   作成日時 : 2017/03/08 06:39   >>

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贈 正四位入江九一外七名首塚(ぞう しょうしいいりえくいちほかななめいくびつか)その2 2010年1月17日訪問

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贈 正四位入江九一外七名首塚


 贈 正四位入江九一外七名首塚では首塚の主である入江九一の略歴、甲子戦争での最期の状況について越前側の視点も含めて見て来た。ここでは首塚が発見されて碑が建立された経緯を書いてみたいと思う。

 長人首塚についての記述は、「京都維新史蹟」と「京都史蹟めぐり」に見ることができる。竹村俊則の「昭和京都名所圖會 5洛中」(駸々堂出版 1984年刊)には「長州藩士入江九一外九名の墓がある」という紹介のみである。
 「京都維新史蹟」は京都市教育会が昭和3年(1928)にカワイ書店から刊行した書物で、前半に図版が掲載され後半に各史跡の説明が記されている。発行者である京都市教育会会長の土岐嘉平は序文中で「今本書を公にせんとする蓋斯の大典を記念し、其光栄を銘せんとの意に出づ」と述べていること、さらに発行日が昭和3年(1968)11月10日になっていることから、その日に京都御所で行われた昭和天皇の即位の大礼に合わせて刊行されてことが分かる。続く緒言で、図版の写真の出所として写真蒐集家・小川忠三郎の名前を挙げるとともに、京都に於いて維新当時よりその状態を維持して現存する史蹟を取り上げた旨を述べている。建物が建替えられたことにより維新時の様子が伝わらなくなった史蹟については標石を建立し、その位置を示した写真を掲載している。確かに佐久間象山寓居之址、後藤象次郎寓居之址、横井小楠殉節地などは京都市教育会が建立した石碑の写真が維新史蹟に代わるものとしてとして添えられている。同会の活動については横井小楠殉節地において、中村武生氏の「京都の江戸時代をあるく 秀吉の城から龍馬の寺田屋伝説まで」(図書出版 文理閣 2008年刊)をもとに既に書いているのでご参照ください。明治35年(1902)に創立した京都市教育会は、大正4年(1915)11月に京都で行われた大正天皇の即位の大礼の際にも建碑が行われている。
 昭和初年に多くの石碑を建立した活動がここからも伝わる。国史教科書に掲載されているにもかかわらず、未だ標石のないものとし60の候補を挙げ、その内44基を大正3年(1914)から大正5年(1916)までの3年間に建立している。それ以降、この昭和の大礼まではあまり行われなかったようだ。
緒言の最後に下記のように記されている。

一 尚本書の編集には、予てより維新史蹟の顕彰に熱心なる寺井萬次郎氏が本会の為に他だな援助をなし、史蹟の探訪、史実の説明等奔走尽瘁されたる処多大なり。


 この書物の説明の多くに寺井萬次郎が携わっていたことは明らかである。

 目次には一番の孝明天皇 英照皇太后 後月輪東陵から始まり、五十五番の小松原薩州勤番所址 戊辰戦争に使用せる弾薬庫までが並ぶ。上善寺の首塚は、四十の入江九一遺墨 上善寺の座敷 入江九一以下ノ首塚として掲載されている。図版には、「覚悟之事」から始まる入江九一が文久3年(1863)正月25日にしたためた書、「京都市上京区鞍馬口寺町東入にあり 此の座敷は松平春嶽候と志士の密議の場所なり」という注釈のある上段の間の写真、そして「上善寺墓域にあり 入江九一以下七烈士の首を埋むるもの」という注釈のある首塚の写真が掲載されている。
 後半の小傳及解説では、「上善寺内松平春嶽密議の座敷と長州人首塚」と題されている。解説の中では上善寺が松平越前候の菩提寺であり。春嶽が上洛した際には小松帯刀、西郷吉之助、大久保市蔵等と寺内の座敷で密議を行ったと記している。上善寺の墓地には「春嶽候の情誼に依り葬れる長州人首級と標せる石碑」があったのを、明治36年(1903)に山口県人の桂半助という人物が発見している。誰の首級が埋まられているのかを探した結果、当時まだ存命であった元越前藩士軍務官の桑山重蔵によって明らかになったとしている。桑山が述べたとする内容は以下のものであった。

元治元年七月十九日堺町御門の変にて越前藩の為に囲まれし益田右衛門の幕下久阪義助、入江九一、半田門六、原道太、那須俊平、田村育造、小橋友之助、緒方弥左衛門等大争闘の後何れも割腹憤死せしを、主君越前守春嶽候は、当時越前藩隊長なりし予に命じ、『敵とは云へ何れも皇国の為に働く尽忠の士、首級を清めて厚く葬れよ』と、当藩の菩提寺なる上善寺へ密かに葬り、『長州人首級』と標したり

 
 続いて八氏の氏名を以下に記している。

入江九一弘毅   原道太盾雄  半田門吉成久 
那須俊平重任   田村育造直道 小橋友之助以義
緒方弥左衛門真澄 外一名未詳

 なお、入江九一の小傳では、「九一は囲を切り抜け脱出せんとする際、敵弾に中りて門前に斃れ自刃して死す、年二十七。」とある。ここでは銃撃による致命傷を受けて自刃したとしている。

 以上のような「京都維新史蹟」の編集に多大な関与をした寺井萬次郎が昭和9年(1934)に刊行した「京都史蹟めぐり」では少し記述が変っている。この書物の発行人は西尾勘吾で寺井は寺井史郎という名で編集人を務めている。凡例に書かれた以下の文書より本書を纏めた趣旨が伝わる。

一、 本書の収むる所の史蹟は、主として其状態を維持現存するものを写真に採つたのであるが、其営造物の既に改造せられ因縁なきものは、標石、又は樹木、墓等により其地点を示すに止まる。


 これは全く「京都維新史蹟」と同じである。凡例では20冊の参考文献名の後ろに「其他参考書数十冊」と記した上で、本書の編集において、「史実に造詣深き岩内誠一氏、並に薄田茂彦氏」が多大な援助を添えられたことを謝している。

 「京都史蹟めぐり」は京都の沿革、京都皇宮の沿革を述べた後、伏見区の部(19)から始まり、東山(45)、左京(20)、上京(78)、右京(28)、中京(113)、下京(60)と京都市の史蹟を反時計回りで取り上げている。括弧内の数字は目次の上に記された各区の史蹟の数であり、総計363件に及ぶ。「京都史蹟めぐり」は幕末維新時の史蹟に限っていないものの、55件の「京都維新史蹟」に比べても網羅する史蹟が明らかに多い。また、上記のように史蹟の現状を写真を用いて説明しているが、前述の「京都維新史蹟」のように図版と解説が分かれることなく、本文中に写真を入れている。そのため写真より解説文が優先される構成になっている。
 「京都史蹟めぐり」において上善寺は、上京区ノ部に「上善寺と長藩士入江九市以下の首塚」と題されて掲載されている。先ず上善寺の成り立ちを説明した後、松平越前候の菩提寺にして春嶽侯の宿陣として使用されたことから、薩摩藩の小松帯刀、西郷吉之助、大久保市蔵等と密議を行ったことまでは同じ記述である。首塚についても、明治36年(1903)山口県人の桂半助という人物が発見し、当時まだ存命であった元越前藩士軍務官の桑山重蔵によって明らかになったとしている。桑山が桂に述べたとされる内容もほぼ同文である。
 「京都史蹟めぐり」が「京都維新史蹟」と大きく異なる点が2つある。第一は首塚に埋められた人々の氏名が明らかにされていないことである。上記のように桑山が久坂義助以下の名前を述べているので重複を避けたとも考えることもできるだろう。第二は「京都史蹟めぐり」の下記の記述である。

而して当首塚碑名に久坂義助の名現はれざるも首を埋めたる事は、確に証明するものがある。


 以上が「京都史蹟めぐり」の記述であるが、残念ながらその確たる証明となるものは示されていない。また久坂玄瑞と共に自刃した寺島忠三郎の行方も寺井は明らかにしていない。
 その他にも気になる点がないことではない。「京都維新史蹟」も「京都史蹟めぐり」も、明治中期に元越前藩士・桑山重蔵が挙げた人名を埋葬者としている。明治23年(1890)に纏められた「続再夢紀事」(「日本史籍協会叢書 三」(東京大学出版会 1921年発行 1988年覆刻))には、家譜を引用した甲子戦争の戦況報告がある。8頁に及ぶ戦記の5頁後半に下記のような記述が見られる。

表門の敵は再ひ門外へ出さりけれと東殿町なる路次門の方午の刻頃に至り敵三名小銃又は槍を執り匍伏して出二三間許進ミ来りやかて立上りけるを我補兵隊小銃を以て狙撃し三名共其場に斃したり尋て更に数十名許各刀槍を執り路次門を出直ちに西殿町なる我兵を衝かむとせしか此敵ハ孰れも必死を期したりと見えけれは我兵も其意を得て同しく刀槍を執り大呼突進して之に応し鷹司邸の艮の方なる築墻の下に接戦しけり(中略)軍事方堤五市郎等進み出各当の敵に渉り合既に其七名を斃しけるか残る二三名の敵は遂に邸内に逃け入けり此戦に我兵浅井常次郎討死し敵兵田村育蔵那須俊平武田次郎原盾雄等の首七級を得たり


 鷹司邸の表門は堺町御門から御所へつながる南北路の東側にあった。九条邸は堺町御門の西側に位置していたため、鷹司邸と上記の通を隔てて面していた。西殿町は九条邸の北側であり東殿町は鷹司邸の北にあった。鷹司邸の路次門を出た長州方の兵は西殿町に入ったところで越前兵と衝突している。田村育蔵等が討死したのは鷹司邸の「艮の方なる築墻」、すなわち東北方向であったようだ。越前軍によって押し戻されたのかもしれない。つまり、首塚に祀られている田村育蔵、那須俊平、原盾雄等は鷹司邸内で割腹憤死していたのではなく鷹司邸外の斬り合いで討死していたようである。そしてこの戦いで越前藩が得た首級は七つであり、これに入江九一を加えると丁度8となる。
 さらに付け加えるならば、甲子戦争後から慶応2年(1866)6月29日まで松平春嶽は京にはいなかった点である。「主君越前守春嶽候は、当時越前藩隊長なりし予に命じ、『敵とは云へ何れも皇国の為に働く尽忠の士、首級を清めて厚く葬れよ』」というような出来事は、京の越前藩邸で行われた訳ではない。また春嶽が自ら纏めた「逸事史補」(「松平春嶽全集 1」(原書房 1973年刊))にも首塚の話は出てこない。政局の大勢に影響しないことだから記述を省いたとも考えられるが、もしかしたら全く関知していなかったのかもしれない。桂半助が発見したとされる明治36年(1903)より以前の明治23年(1890年)6月2日に既に春嶽は死去している訳だから。

 山門の左手に建てられた贈 正四位入江九一外七名首塚の碑について以上のようなことを考えた。首塚は上善寺の墓地の南西にあるとされている。山門を入って右手奥に黒い扉があり、その奥が墓地のようだが扉が明かなかった。そのためこの訪問時は墓参を断念した。この次に訪問した時、お寺の方を境内でお見かけしたので墓参をお願いしたら、庫裏を経由して墓地へ入ることが許された。ここから先のことは次回に記す。

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贈 正四位入江九一外七名首塚 長州藩士首塚
2016年3月5日撮影
 

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