徘徊の記憶

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zoom RSS 贈 正四位入江九一外七名首塚

<<   作成日時 : 2017/03/05 08:30   >>

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贈 正四位入江九一外七名首塚(ぞう しょうしいいりえくいちほかななめいくびつか) 2010年1月17日訪問

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贈 正四位入江九一外七名首塚 上善寺山門前の碑


 上善寺の山門前には3つの碑がある。先ず一番大きな「第一番六地蔵寺」、六地蔵巡りのためのものであろうが鞍馬口通に面する碑文には上善寺の文字が見えない。次に山門の右手の金属製の柵と築地塀の間に建てられている「七番 地蔵尊」。何の七番なのかは不明である。そして左手の柵の手前に建てられた「贈 正四位入江九一外七名首塚」の石碑である。この石碑はフィールド・ミュージアム京都に掲載されていないものである。この項を書くために調べていて、初めて未掲載石碑であったことに気がついた。そのため誰が何時建立したかも現地で確認していなかった。これは次回訪問する時の課題としたい。

 入江九一は幕末の長州藩士。天保8年(1837)に足軽の入江嘉伝次の長男として生まれている。弟に野村靖(和作)、妹に伊藤博文の最初の妻となった伊藤すみ子がいる。安政3年(1856)父が亡くなり家督を継ぐ。翌4年(1857)に弟の和作が松下村塾に入塾するが、九一が松陰の門下に入れたのはさらに1年後のことであった。入江家の家計を支えるべき立場であったためとされている。吉田松陰は嘉永7年(1854)のペリー再航の際に渡航を試み失敗している。その後、下田奉行所に自首し伝馬町牢屋敷に投獄される。幕府の評定により国許での蟄居が決し、檻送された長州で野山獄に収監される。安政2年(1855)に出獄を許され、杉家での幽閉に変わる。そして安政4年(1857)、叔父の玉木文之進が主宰していた松下村塾の名を引き継ぎ、杉家の敷地に松下村塾を開塾している。入江和作が入塾したのは松下村塾が開かれて間もない頃であった。
 安政5年(1858)幕府は無勅許で日米修好通商条約を締結する。これを聞いた松陰は条約破棄と攘夷の実行を迫るため間部要撃策を提言している。これが藩に受け入れられなかったため、次に参勤交代で伏見を通る毛利敬親を待ち受け、大原重徳とともに京に入る伏見要駕策に参画する。久坂玄瑞、高杉晋作や桂小五郎が反対する中、入江九一と野村和作だけが松陰に付き従うのみであった。長州藩は松陰の過激な思想を危険と感じ、同年12月26日に再び野山獄に投獄している。松陰投獄が決した12月5日、入江九一を含む8名が異を唱え、翌6日に獄に送られている。入江が松陰の下で学べた期間は1ヶ月程度とされている。
 梅田雲浜の捕縛の時期については諸説あるが、安政5年(1859)9月初旬から始まった安政の大獄に於いて、松陰は雲浜の同調者として目されていた。安政6年(1859)5月25日、長州藩は幕府の命に従い松陰を江戸に檻送する。6月25日江戸に到着し藩邸で監禁される。伝馬町牢屋敷に投獄されたのは7月9日のことであった。評定所での鞠門において、松陰は雲浜との関係を否定した上で失敗に終った間部要撃策を自ら進んで告白したことなどによって同年10月27日、伝馬町牢屋敷にて斬首刑に処された。

 入江兄弟が釈放されたのは松陰の処刑から半年後の万延元年(1860)のことであった。安政の大獄を主導した井伊直弼が桜田門外の変で斬殺された後のことであろう。さらに文久3年(1863)には吉田稔麿らと共に足軽から士分に取り立てられている。しかしながら無給の士分という扱いであり、入江家の家計は苦しいままであった。京都で尊皇攘夷のための活動を行なう一方、高杉の奇兵隊創設にも協力し奇兵隊の参謀となった。同年の下関戦争には久坂の率いる光明寺党の一員として参加している。

 文久3年(1863)8月18日の政変から元治元年(1864)までの入江九一の行動については、既に京都御苑 凝華洞跡から京都御苑 凝華洞跡 その5にかけて書いてきた。そして甲子戦争での戦闘状況については京都御苑 鷹司邸跡 その2から京都御苑 鷹司邸跡 その4で書いてきた。特に入江九一の戦死した時の状況を明らかにするため、ここに再掲しておく。

 先ず中平邦平の「忠正公勤王事蹟」(防長史談会 1911年刊)に以下のような記述がある。

入江は鷹司の穴門から出て、落ち延びると云ふ積りであつた、其の時は非常な混雑で、小さな道に人数がコタくして居る、其れを推し分けて、入江が外に出ると、槍で以て顔を突かれ、目玉が飛び出して死んで仕舞つた


 同じ時期に末松澄謙が纏めた「防長回天史」(1912年刊)にも下記のような似た表現となっている。


堺町門の越前兵来り遮り薩會桑の既に蛤門に勝つもの亦来り合し興に長兵に當る長兵力敵する能はずして敗れ久坂義助は傷を被り寺島忠三郎と鷹司殿中に耦刺して死し入江九一は敵槍に斃れ其他死傷算なし


 こに対して馬屋原二郎の「元治甲子禁門事変実歴談」(馬屋原二郎 防長学友会 1913年刊)には、もう少し詳しい記述がある。

南貞助氏云ふ。あの時は一旦邸内に踏留り戦死すべき決心でありましたが議論が変りまして、一同邸外に切つて出で活路得たる者は天王山で再挙を謀ると云ふ事に相決し、夫れ故吾々は同邸の裏門から切り出る際、入江は彦根兵の槍にて右の眼を衝かれ其時入江は『アヽやられた』と云ふと一緒に並び居たる余は入江を介抱し此時右の眼球突出し血線地上に曳く一旦邸内に連れて這入り誰かに入江の附添を頼み、再び裏門口に至り辛うじて脱出する事を得た。入江は夫より奥へ行き久阪、寺島等と一緒に屠腹せられたのであらうと思はる。


 入江の近くに居て負傷した入江を邸内に戻したのが南貞助であったことが分かる。しかし南も入江の最期を見届けることがなかったようだ。さらに鷹司邸での戦闘に参加した河北義次郎が入江の実弟の野村靖に語った情景として、「元治甲子禁門事変実歴談」に以下のように掲載されている。

河北又余ノ為メニ家大兄最後ノ状ヲ語リテ曰ク入江君已ニ久阪、寺島ト別レテ軍士ト共ニ囲ヲ衝キ天王山ニ走ラムト欲スレドモ敵兵已ニ鷹司邸ノ四面ニ充満シ我軍躊躇進マズ君之ヲ見命ジテ後門ヲ開カシメ手ヅカラ鎗ヲ把リ吶喊シテ先ヅ進ミ敵兵ヲ刺ス而シテ君モ亦眼球ヲ傷シテ此機ニ乗ジ我軍均ク囲ヲ潰シテ出ルコトヲ得タリ君已ニ傷ヲ蒙リ退キテ邸内土柵ノ側ニ坐シ自ヲ兜ノ紐ヲ解カントシ玉フモノヽ如シ予之ヲ見テ走リ到リ介錯スベキヤ否ヤヲ問ヒシニ君已ニ声ヲ発スルコト能ハス唯手ヲ以テ予ヲ推シ速ニ去ルヘキコトヲ示サル余ハ教ニ従ヒ倉卒囲ヲ衝テ走リ其終焉ヲ見サリシハ今ニ至ルマテ遺憾已ムコト能ハズト


 河北も南と同様に鷹司邸を取り囲む幕府方を破り生還したため、入江の最期を見届けることが出来なかったようだ。

 鷹司邸に討ち入った越前兵が見た光景が「続再夢紀事」(「日本史籍協会叢書 三」(東京大学出版会 1921年発行 1988年覆刻))に記されている。

斯て忽ち邸の一隅より火起り漸次延焼して殿宇残りなく焼亡しけるか此時我兵士等か分捕せし武器物具の中に敵の姓名を記せるは鎧に青木与三郎鉢銕及ひ肩印小旗に田村育三鉢巻に品川弥次郎肩印小旗に粟屋良之助小林友之輔安藤誠之輔内田左兵衛寺田勘右衛門肩印小旗及撃発銃に福島熊五郎福島一ニ稻葉に作る宮田藤七三浦栄之進撃発銃に吉田忠恕石川寅吉梅津齋安原真之助近藤新吾板井兼造野原音槌吉田謙造澄川東太郎礒野清十郎中村藤馬野村光則胴巻に入江九一等なりし又邸内邸内にて二十余名の死屍を見出せしか多くハ焦け爛れて入江九一の外ハ其姓名明ならさり


 激しい戦闘の後、鷹司邸が全焼するような火事となったため、残された長州方の死体の判別が困難な状況になっていたことが分かる。なお「続再夢紀事」の元治元年(1864)7月のあたりには、入江等の屍骸を上善寺に葬ったという記述が見られない。この年の4月、参与会議が崩壊し島津久光等は帰国している。春嶽も4月18日に京を発ち、23日には福井に入っている。そして翌慶応元年(1865)は領国から出ていない。再び京に戻るのは慶応2年(1866)6月29日で、幕府の命を受けてのことである。文久3年(1863)6月29日の初の入京から数えて3回目となる。春嶽は安政5年(1858)7月5日の不時登城の罪を問われ、隠居、謹慎の処罰を受けていたので、島津久光などと比べ上洛する機会が少なかったのかもしれない。
 参与会議の決裂により、元治元年春には一橋慶喜と松平容保を除く多くの大名は京都を去っている。そのため甲子戦争当時は京にいる大名は少なかった。政治的にも軍事的にも空白な状況になった京都に久坂玄瑞は長州軍を率いて入ったことによって甲子戦争が引き起こされたのである。
 「越前松平家家譜 慶永」(福井県文書館 2011年刊)にも戦争の翌日となる7月20日に京都所司代松平定敬より「伏見其外屯集之長州人、御所近辺押寄乱妨及ひ、処々放火等致し不容易形勢ニ付、早々上京候様可被致候」という要請があったことを記すのみである。また春嶽が明治になって纏めた「逸事史補」(「松平春嶽全集 1」(原書房 1973年刊))に自ら「却説七月、長藩士福原越後等堺町の動乱、一橋会津ノ兵ト戦ひしとハ、余在国中故、委詳これをしらす、故ニ記載せす。」と記している。越前藩兵の奮戦により堺町御門での戦闘に勝利したにも係わらず、春嶽の筆致に妙な素っ気無さを感じるのは私だけだろうか。

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