徘徊の記憶

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<<   作成日時 : 2017/03/05 08:25   >>

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浄土宗 千松山遍照院 上善寺(じょうぜんじ) 2010年1月17日訪問

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上善寺 


 出雲路橋の西詰北側の公園にある出雲路鞍馬口石碑師範桜碑を確認した後、鞍馬口通を西に進むと寺町通の突き当り北側に上善寺の山門が現れる。鞍馬口通から今出川通にかけての寺町通に面した一帯を寺町頭とも呼ぶらしい。これからこの寺町頭の寺院を北側から順番に見てゆくこととなるが、まずは一番北側にある上善寺から訪問する。

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上善寺 境内 右手に地蔵堂


 寺伝によると上善寺の草創は貞観5年(863)、円仁大師によるものとされている。
円仁大師は最澄・空海・常暁・円行・恵運・円珍・宗叡とともに入唐八家の一人に数えられる平安時代初期の高僧で、後に第3代天台座主となっている。延暦13年(794)下野国の豪族壬生首麻呂の子として生まれている。15歳の時、唐より最澄が帰国して延暦寺を開くと、すぐに比叡山に入り最澄に師事している。師に忠実に仕える一方で学問と修行に専念したことより、最澄が止観を学ばせた弟子十人の内に入る。さらに師の代講を任せられる唯一の弟子になったとされている。
 弘仁5年(814)言試に合格し翌年には得度している。そして弘仁7年(816)には三戒壇の一つ東大寺で具足戒を受ける。この年、師最澄の東国巡遊に従って故郷下野を訪れている。この最長の巡遊は、天台宗を全国に広めるための布教活動であり、若い円仁も師の活動を支援していた。承和2年(836)、1回目の渡航を試みるも失敗する。翌年の2回目の渡航にも失敗する。承和5年(838)6月13日、博多津を出港し、揚州東梁豊村まで8日間の航海で渡海を果たす。4隻の船団の内1隻は遭難し、円仁の乗船した船も船の操舵が利かず渚に乗り上げる形で大陸に到着している。

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上善寺 本堂


 この円仁達の渡海は、歴史的には最後の遣唐使となっている。その前の遣唐使は延暦23年(804)出国の大同元年(806)帰国と30年以上も前の出来事であった。この回には、師である最澄や空海が含まれていた。
円仁は請益僧という短期間の留学僧であったため、天台山への旅行許可が下りなかった。それでも天台山への入山を願った円仁は、遣唐使一行と離れ不法に唐に留まることを決意し、それを実行に移した。しかし天台山に辿り着く前に捕獲され、再び遣唐大使一行のところに連れ戻されてしまう。この遣唐使は入国1年後の承和6年(839)に帰国している。円仁は大使一行から離れ、新羅人社会に身を寄せることで唐に留まることに成功した。しかし入国時からの目標であった天台山入山はかなわず、新羅人層からの忠告によって修行先を五台山に変更している。承和7年(840)58日間をかけて五台山に入る。「未決三十条」の解答を得るとともに、まだ伝来していなかった五台山所蔵の仏典37巻の書写をも行っている。その後、53日を要して長安に入る。そしてこの地で金剛界曼荼羅を入手している。
 承和8年(841)初めて日本への帰国を申し出るが容易に許可は下りなかった。その後も唐朝に帰国を申し出るも許されない内に会昌の廃仏が起こり、外国人僧の国外を追放という形で帰国を」果たす。承和14年(847)のことであった。

 円仁は貞観6年(864)まで生きて、目黒不動や浅草の浅草寺そして松島の瑞巌寺などを開いたされている。その数は関東でも200寺を超え、東北では300寺以上とされている。上善寺の寺伝が正しいならば、最晩年に草創された寺院ということになる。

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上善寺 地蔵堂


 文明年間(1468〜87)に後土御門天皇と後柏原天皇の戒師を務めた春谷盛信が再興し、後柏原天皇の勅願寺として不断念仏道場の綸旨を賜っている。もともと円仁が草創した天台宗の寺院で文禄3年(1594)には千本今出川にあったが、豊臣秀吉の天正の町づくりで鞍馬口に移っている。この地には上善寺門前町という地名があるが、これは上善寺が今出川千本から移転してきた後の地名である。なお千本今出川には上善寺町と南上善寺町の町名が残る他にも同名の上善寺という寺院もある。
 天明7年(1787)秋に刊行された「拾遺都名所図会」には以下のように記されている。

上善寺〔同街にあり、浄土宗知恩院に属す。開基は春谷盛信上人、後土御門院、後柏原院両帝の戒師なり〕
本尊阿弥陀仏〔行基の作、坐像三尺余、古へは嵯峨今林蓮華清浄寺の本尊なり。寛永十一年九月九日後水尾院の勅によつて当寺にうつす〕善光寺如来画影〔化人の筆、是いにしへの本尊なり。後柏原院叡覧あつて勅願所不断念仏之道場の宣旨を賜ふ、執達は万里小路秀房卿なり〕
〔当寺は鎮西派末院の大廈にして、塔頭寺内に十院あり。方丈客殿等の庭中真妙にして奇石麗樹多し、中にも藤の棚連ね組て弥生の美観とす〕


 現在の本尊である阿弥陀如来坐像は行基作で嵯峨にあった今林蓮華清浄寺の本尊であり、これを寛永11年(1634)9月9日、後水尾院の勅によって移したということらしい。元の本尊は「化人の筆」すなわち仏が描いたとされる善光寺如来画影であった。これを後柏原院が御覧になり、万里小路秀房卿を執達として不断念仏道場の綸旨が下されることとなった。
 拾遺都名所図会は、「塔頭寺内に十院あり。方丈客殿等の庭中真妙にして奇石麗樹多し、中にも藤の棚連ね組て弥生の美観とす」と記していることから近世の上善寺は現在以上に繁栄していたことが分かる。五所八幡、間臥禅庵、曙桜とともに描かれた図会からその様子が伝わる。

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上善寺 墓地入口前の石仏


 境内にある地蔵堂に祀られている地蔵尊は、もと深泥池の畔にあったものを移したもの。そのため深泥池地蔵と呼ばれている。また上善寺は下記の京の六地蔵巡りの一つとされている。

1 大善寺−奈良街道−伏見六地蔵
2 浄禅寺−西国街道−鳥羽地蔵
3 地蔵寺−丹波街道−桂地蔵
4 源光寺−周山街道−常盤地蔵
5 上善寺−若狭街道−鞍馬口地蔵
6 徳林庵−東海道 −山科地蔵





 8月22日と翌23日の両日に、都の入口にある六ヵ所のお地蔵さんを巡拝して、家内安全、無病息災を祈願することを六地蔵巡りとされています。各寺で授与された六種のお幡を玄関口に吊すと、厄病退散、福徳招来するといわれている。

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上善寺 天道大日如来


 上善寺の山門が鞍馬口通に面するため、本堂は南面する。この訪問の時は、境内の右手側に方形の地蔵堂が建っていた。2016年8月に新しい地蔵堂が六角堂として建替えられている。そして古い地蔵堂は山門側に移築され観音堂に改められたようだ
 古い地蔵堂と山門の間には、墓地への黒い門を背にする形で多くの石仏が並んでいる。その中でも祠に入った天道大日如来は鎌倉時代中期の作とされている。高さ1.6メートルの花崗岩で両手を合わせた大日如来像を厚肉彫りで刻んでいる。竹村俊則は「京のお地蔵さん」(京都新聞社 1994年刊)で、鞍馬口地蔵(深泥池地蔵)とともにこの大日如来坐像を取り上げている。これらの石仏も新しい地蔵堂の建立と古い地蔵堂の移築に伴い、その位置と向きを改めたようだ。今度訪問できる時に確認したいと思う。

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