徘徊の記憶

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zoom RSS 清三宝大荒神尊

<<   作成日時 : 2017/02/12 19:33   >>

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清三宝大荒神尊(きよしさんぽうこうじんそん) 2010年1月17日訪問

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 護浄院の荒神口通に面した山門の東脇に、清三宝大荒神尊と記された石碑が建つ。一見すると護浄院の建てた寺号を示す碑の様に見えたが、裏側(南面)の建立者を見ると、三宅安兵衛遺志とある。大正15年12月の建立である。三宅安兵衛遺志についてはどこか項を改めて書こうと考えているが、なかなか資料が集まらなく未だ筆を執るに至っていない。ここでは現在分かっていることだけをもとに書いてみる。

 三宅安兵衛とは現在の京都市中京区高倉通六角西入ルに住む織物商であった。この人物の生涯については子の清治郎が父母の十三回忌として昭和7年(1932)6月に私家版として出版した「木の下蔭」がある。しかし、国会図書館なども探してみたものの未だ見つけることができていない。ここでは岩永蓮代著の「文化財保護ありのまま」(六興出版 1988年刊)を参照する。
 岩永蓮代は在野にありながら国分寺と国分尼寺の遺跡保存運動を行ってきた人物で、三宅清治郎の孫に当たる三宅清三氏と昭和50年(1975)10月に出会っている。その際に見た「木の下蔭」を基にして「文化財保護ありのまま」の“第二章 文化財保護に生きた庶民”で、“京都の織物商・三宅安兵衛父子”を書いたようだ。岩永によると清治郎の纏めた「木の下蔭」は30頁程度の小冊子であった。

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清三宝大荒神尊 荒神口通


 安兵衛は天保13年(1842)1月11日、若狭小浜の代々陶器業を営む旧家に生まれている。9歳で父に死別した安兵衛は11で京都五条の木綿商井筒屋に丁稚入りしている。2度も火災にあった主家の復興に尽力したことが認められ、四条烏丸に独立店舗を開く許しを得ている。明治15年(1882)から同20年(1887)頃にかけて、安兵衛は事業に成功するとともに、妻ゆか子との間に嗣子となる清次郎を得ている。安兵衛の前半生は仕事一筋であったが、どうも仕事だけの人生に満足はしていなかったようだ。前述の岩永の書によると以下のような考えを持っていたようだ。

「商業家事、必ずしも勤勉努力耐へ難きに耐へよ、人一倍稼げよと言ふに非ず、応分に働きて余裕を作れ。すべて物は八分目を良しとす。朝早く起きて潔く活動し、用事は正午頃までに成るべくかたつけて、午後は快く遊び、更に明日の元気を養ふべし。人たる価値あり人間味ある生活をせよ。」


 余裕を持って仕事を行うことによってこそ、最上の結果が得られるという考えであったのであろう。勿論締める所は締めていたようで、若い子女店員へのしつけは極めて厳しく「財物を粗略にせず、倹約節制、冗費を省け。常に冥加を知れ。可愛き故に厳しくするなり」という商人として至って真面目な人物であった。

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清三宝大荒神尊 荒神口通に面した山門 2014年10月8日撮影


 安兵衛は還暦を迎える前より日本全国を旅するようになる。先ず本州縦断の旅を行い、東北、関東、信越、東海、中国、四国、九州と北海道と沖縄を除く日本全域を見て回っている。明治35年(1902)の還暦の年には妻を連れて四国から九州に出掛けている。太宰府天満宮を参拝して玉垣を寄付、箱崎宮では金灯籠を奉納している。これが自らの還暦祝いであり、家族の希望した祝宴などは一切行わなかった。
 このような日本全国への旅行を経て、安兵衛の興味は京都内の観光探勝に向っている。「京都は一千年の都にして尊き歴史あり、寸土尺地旧跡ならぬはなく、神社仏閣名所の多きこと、恐らく世界に比類なかるべし。此の有難き地に住みて都名所を知らぬは古聖を蔑むに似たり。然るに京都人にして京都知らぬ者多し、宜しく旅客気分になりて之を探るべし」ということで、還暦以降は京都巡覧に着手している。行った場所は手控帳に記録していたが、やがてこの資料が建碑の基となったようだ。

 大正8年(1919)元旦、安兵衛は当時の一万円を清治郎に託し遺言している。

此の金を予が死後、京都の為め公利公益の事に使用せよ。是が予が幼より故国を出て京都に来り今日迄恩沢を蒙りし御礼の意也。但し其用途の方法時期等は汝に一任す。要は克く予が意を体せよ。疎かに用ふるなかれ、云々


 非常に潔い遺言である。しかし任された清治郎にとっては中々負担の大きな課題となった。恐らく安兵衛は自らの後半生を息子に示し、清治郎にも自分の生き方を見つけるように考えたのであろう。翌大正9年(1920)1月に妻のゆか子が亡くなり、安兵衛も同年12月1日に死去している。

 遺言を託された清治郎は、父が恩沢の地として愛着を感じていた京都の名所旧跡に標石を建て、これを訪れる人のために多くの道標を整備に着手する。清治郎は父の遺した一万円に、さらに一万円を投じ、大正10年(1921)から昭和5年(1930)にかけて京都府下に約400基の建碑を行っている。現在の金額に直すと凡そ1億円になるとされています。そして碑の裏側に建立年月と共に「稟京都三宅安兵衛遺志建之」の文字が彫られている。自らの名を著すことなく、ただ父の名のみ後世に遺した。戦後に教育を受けた者には理解が難しいが、孝心とはこういう無償の行為を言うのであろう。将にこの父にしてこの子ありである。

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清三宝大荒神尊 西面と裏面(北面)が見える


 再び護浄院の石碑に戻る。大正15年12月の建立ということから清治郎の建碑活動の中盤頃のものである。裏面には三宅安兵衛遺志とある。表題は日本最初 清三宝大荒神尊で、碑の西面に以下のような説明が施されている。

三宝荒神尊は災難を除き福寿を与へ給ふ尊神也当院の荒神尊は一千百餘年前開成皇子の安置し」給ひし処にして是吾か国に荒神尊を祭るの最初也以来御歴代朝庭に於て天下泰平叡願成辯の御祈念篤く 」大正の御代に於て上は至尊の御崇敬深く下は十方信人此尊神を仰きて求願成就を祈らぬはなし
勅願所 清荒神別当 護浄院


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清三宝大荒神尊


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