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zoom RSS 昭和京都名所圖會 その3

<<   作成日時 : 2017/01/22 20:01   >>

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昭和京都名所圖會(しょうわきょうとめいしょずえ)その3

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昭和京都名所圖會 「昭和京都名所圖會 巻一」 洛東-上 今熊野図 竹村俊則画 昭和54年9月
このような広域の鳥瞰図も描いている


 昭和京都名所圖會 その2では、「新撰京都名所圖會」の完結と白川書院の廃業までを書いてきました。この項では「昭和京都名所圖會」の執筆以降を書いて行こうと思います。

 「新撰京都名所圖會」が完結してから6年経た昭和46年(1971)に巻四の第五版が発行されています。この版は第四巻としては新字に改訂してからの最初の刷り増しとなりました。竹村はこの巻のあとがきを全面的に書き換えています。
 この巻は巻三の洛中の部の続編として主に中京区と下京区の旧市内を中心として鴨東や西院や山ノ内そして南区の一部を含むものでした。私の手元にある初版のあとがきには、実地調査の大変さが書いてありました。街中に散在する石仏や古墳と思われる老木や無名の祠そして境外墓地を見落としていないか自転車を使って調査したことが記されています。また繁華街のスケッチは交通が激しいので早朝に行ったことや社寺建築よりゴシック建築のほうが案外描きづらいことが述べられています。特に近代建築の屋上の構造物が地上から確認するのが困難だったため、挿画作成に予想以上の時間を要したようです。
 上記のように竹村が書き改めた第五版のあとがきについては、板井博彦氏の「竹村俊則と新撰京都名所圖會」(京都産業大学日本文化研究所紀要 第12・13号 2008年刊)を参照します。

あとがき

「十年一昔」といわれるように本書第四巻を執筆してから早や十年に及ばんとしている。十年のあいだに都市は大きく変貌した。本書の中にも訂正しなければならぬ箇所がいくつかある。例えば寺町の妙満寺(一四頁)は昭和四十四年頃に左京区岩倉幡枝町に移転し、専修寺別院(一六頁)も塔頭とともに右京区御室その他に分散し、そのあとは広大な駐車場になってしまった。また壬生寺(一一五頁)の本堂は昭和三十七年七月、失火によって本尊地蔵菩薩坐像(重文・鎌倉)とともに消失し、神泉苑(七八頁)の客殿・書院も昭和四十四年十二月末に焼失した。今では本書によってのみ、ありし日の面影をしのぶよりなくなった。さらに四条大宮(一二二頁)や四条烏丸(一三六頁)など市中の景観中にあっても現在とは大いに変ってしまったところがあって、本来なれば再版の都度、これらの箇所は訂正さるべきはずであるが、本書の目的は昭和三十年代の京都のありさまを記録することにあるため、これは一応このままとし、訂正加筆することはやめた。他巻においても同様である。この点読者は筆者の意を諒とし、御寛恕願いたい。いずれ稿を改めて訂正増補をしたいと思っている。

昭和四十六年五月 相も変らぬ日暮の陋巷竹蘆庵に於いて
俊 則 しるす


 上記からも分かるように、竹村は「新撰京都名所圖會」の部分的な改訂を断念し、このまま昭和30年代の京の姿を記録した書として保存しておくこと、そして大幅な増補改訂は別の書とすることを既に決めていたことが分かります。そして、このような決断に至る原因は、昭和30年代から40年代にかけての都市化の波により、特に京都中心部の都市景観が大きく変貌してしまったことにありました。毎日のように古い建物は壊され新しい建物が建設されて行った時代でした。都市の様相は日々変って行くのに鳥瞰図が追い着いて行けなくなっていました。
 「新撰京都名所圖會」の目次を見ると、京都市役所、京都地方裁判所、京都電々ビル、日本銀行京都支店、京都新聞社、京都商工会議所、NHK京都放送局、日本レース、京都地方気象臺、島津製作所三條工場、京都証券取引所、大丸京都店、藤井大丸、高島屋京都支店、京都驛、京都市中央卸賣市場、大阪ガス京都工場、西京極運動公園など名所旧跡とは異なる施設名称が上げられています。昭和30年代には重要な都市機能として、竹村が新たに追加したものです。しかし新しく重要な施設はこの後も次々建設される一方、追加されたものも寺社仏閣などと比較してその変遷が早いものでした。このことがまた「新撰京都名所圖會」の老化を早めたとも考えられます。

 さらにモータリゼーションが都市景観に与えた影響は、かなり大きなものであったと思います。新しい道路ができたり、道路幅が拡幅されるのは、一つの建物が新築される以上に我々の都市に対する印象を一新します。さらに旧市内の自動車量の増加は、市電廃止へと繋がって行きます。昭和21年(1946)から昭和42年(1967)までの間の市電旅客数は凡そ2億人でしたが、昭和45年(1970)に伏見線 塩小路高倉−中書島と稲荷線 勧進橋−稲荷が市バスに転換され廃止されています。さらに昭和47年(1972)には四条線 四条大宮−祇園、大宮線 四条大宮−九条大宮、千本線 四条大宮−千本北大路も廃止され市バスに転換しています。この年の旅客数は1億人を割り込むようになってしまいました。こうして昭和53年(1978)に河原町線、七条線、東山線、北大路線、西大路線、九条線の廃止しにより京都市電は全線廃止となりました。先の竹村が「新撰京都名所圖會 巻四」のあとがきを差し替えたのが昭和46年のことでしたから、将に大幅な改訂を考えていた時点で、市電の廃止が次々と行われていたわけです。「新撰京都名所圖會」の交通案内は市電の停留所を基準としています。たとえ市電が市バスに置き換えられたとしても、「新撰京都名所圖會」は案内としての実用書の機能を欠くものになってしまいます。

 そのような諸般の事情より、竹村俊則は「新撰京都名所圖會」の書き直しを決意してはいたものの、昭和京都名所圖會 その2でも述べましたように、昭和49年(1974)に臼井喜之介が急死、同54年(1979)には白川書院自体が深刻な経営難から自主廃業になりました。白川書院からの新刊発行の望みは断たれましたが、新たに駸々堂が竹村を招じて名所図会刊行を行うこととなりました。昭和55年(1980)より「昭和京都名所圖會」の刊行が始まり平成元年(1989)に完結しました。
 「新撰京都名所圖會」での反省に立って「昭和京都名所圖會」は作られたと考えても良いでしょう。先にも記しましたように明治以降の近代化の足跡を記述するために加えられた現代建築や都市機能の陳腐化が想像以上に早かったため、「昭和京都名所圖會」は近代よりも徳川時代以前に重心を置き、名所案内というよりは名所考証の趣を強めています。このあたりの変更は版組にも現われています。前者は挿画が本文の中に埋め込まれ、絵の大きさが制限されていたのに対して、後者は独立したページに配されるようになりました。1頁あるいは見開きを利用することで鳥瞰図の細部まで認識できるようになりました。鳥瞰図は全て描き直しております。このあたりは竹村が一番気にしていた部分だったでしょう。昭和京都名所圖會でも触れましたように、 “古き町並みが新しく変わろうとしている姿”といった時代性の表現が後退した感は強く受けます。例えば河原町三条について、「新撰京都名所圖會」では朝日会館を中心に据えた挿画を入れ、本文だけでも1頁に及んでいるのに対して、「昭和京都名所圖會」には挿画はありません。その代わりに「「駸々堂」「丸善」など多くの新本・古本を取り扱う小売書店をはじめ、レストランや喫茶店、各種小売店等が軒をならべ、夜には色とりどりのネオンを掲げて、光彩を放っている。」と文章を以って説明しています。その説明文も半頁程度と明らかに「新撰 京都名所圖會」よりも河原町三条の歴史的な成り立ちや河原者などに対する説明を省略しています。

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昭和京都名所圖會 「新撰京都名所圖會 巻四」 洛中の部1 河原町三条


 また、両書で最初に取り上げている東福寺の鳥瞰図を比較すると、両者の違いが見えてきます。後者は前者の構図を踏襲していますが、紙面を広く使えるようになったためか、その描画範囲を広くしています。後者にだけ最勝金剛院が描かれていますが、これは昭和46年(1971)に再興されたからでしょう。2つの鳥瞰図の違いは後者の説明が増えている所にあります。境内外の各部名称が増えているのは本文での説明箇所が増えたことによると思います。このあたりは改めて両書の違いを比較する際に行うつもりです。

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昭和京都名所圖會 「新撰京都名所圖會 巻一」 東山の部 東福寺

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昭和京都名所圖會 「昭和京都名所圖會 巻一」 洛東-上 東福寺 竹村俊則画 昭和52年9月


 「昭和京都名所圖會」は縦二段組から縦一段組になり、下部に脚注を設けられるように改めています。これは雑誌での連載が無かったこともあり刊行本として読み易さを最優先した結果でしょう。この変更により、より詳細な情報すなわち交通アクセス、出典や参考写真を用いることが可能になりました。前者では口絵のみに写真が使用されていましたが、後者ではより積極的に写真を使用しています。この脚注の新設と写真の多用により名所考証を深めることが可能になりましたが、鳥瞰図以外の挿画が減少し書籍としての味わいが失われた感もあります。ちなみに本文は新字で平易なものとなり、交通案内も市バスの停留所に統一されました。
 板井氏は「竹村俊則と新撰京都名所圖會」で、以上のような竹村の編集方針の変更を「都名所図会」など江戸時代の図会の註釈を通じて得たと見ています。昭和40年(1965)に「新撰京都名所圖會」を完結した後の昭和43年(1968)に角川文庫の都名所図会 上下巻の校注を行い、昭和51年(1976)には同書の新版も手がけています。この他にも日本名所風俗図会の京都の部分(第七巻と第八巻)の編集、校注そして解説を担当しています。っこのような経験が自らの著作「昭和京都名所圖會」に活かされたという見解は正しいのかもしれません。

 昭和55年(1980)に洛東-上から始まった「昭和京都名所圖會」は平成元年(1989)の南山城を以って完結します。「新撰京都名所圖會」の時は各巻にあとがきがありましたが、今回はどういう訳か巻六のみとなっています。

平塚瓢斎も同書にならって<幕末に『花洛名勝図会』を著わそうとしたが、東山篇のみを刊行しただけで、他は実現するに至らなかった。
その後、明治・大正・昭和に至るまで『都名所図会』に匹敵する名所案内紀は、世に刊行されることはなかった。いずれは誰かが執筆するだろうと期待はよせられたが、一向に執筆するような気配はみられなかった。
その理由は後日になって分かったことであるが、この作業は労多くして報われることが少なく、賢明な人のやるべきことではないということである。
それにも拘らず、自らすすんで決行しようとした動機は、郷土に対する報恩の一言に尽きる。
大正生れのものは、今次の大戦で大なり小なりに犠牲を強いられたが、京都生れの筆者は幸い戦火をこうむることもなく、無事平穏にすごすことができたのは、まったく京都に済んでいたからである。


 以上が竹村俊則の2度に亘って昭和の京都の名所図会を纏めるに至った本質的な動機です。この後、竹村は全5巻の「今昔 都名所図会」(京都書院 1992年刊)で名所図会と現在の風景の比較を行っております。自ら描いた鳥瞰図や挿画は一切使わず、オリジナルの竹原春朝斎の挿画に5人の写真家の作品を添えた編集となっています。また世間に好評だった鳥瞰図の方は、平成3年(1991)に淡交社から「図会 京都名所100選」という形で出版しています。平成11年(1999)死去。享年84。
 竹村が晩年になって増補改訂した「昭和京都名所圖會」も2000年の駸々堂及び駸々堂出版の自己破産申請によって残念ながら廃刊となっています。つまり新たな覆刻がない限り「昭和京都名所圖會」も新刊として購入できる見通しが無いということです。本が持つ情報としての生命力が経済によって押し殺されたといってもよいのではないでしょうか。
 さらに板野氏が指摘していますが、後から発刊された「昭和京都名所圖會」の巻一の初版第一刷だけが糸綴でそれ以外は無線綴となっています。簡略化された製本方法である無線綴は耐久性も低く、竹村が望んでいた五十年百年後も役に立つ書籍には最初から成り得ないものでした。確かに両書をスキャニングするために一頁一頁ガラス面に当ててみると、一見古書に見える「新撰京都名所圖會」の方が安心して扱えましたが、20年も若い「昭和京都名所圖會」はかなり綴じが弱くなっており、頁が脱落するような危険性も感じました。
 すでに国会図書館では「新撰京都名所圖會」とともに「昭和京都名所圖會」のデジタル化が完了しています。どちらもインターネット公開ではありませんが、館内閲覧あるいは図書館向けデジタル化資料送信サービスで利用できます。東京都立中央図書館あるいは区立、市立中央図書館での閲覧も可能なので、興味を持たれた方はどうかご参照下さい。

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昭和京都名所圖會 「新撰京都名所圖會 巻四」 洛中の部1 壷井地蔵
新撰京都名所圖會には生活感のある画が多い

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