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<<   作成日時 : 2016/12/31 20:39   >>

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史跡・御土居(しせき・おどい) 2010年1月17日訪問

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廬山寺 御土居


 廬山寺墓地の東側、河原町通との間に南北に並ぶ木の列が見える。墓地の地盤に比べてやや高台になっている箇所が、豊臣秀吉の天正の地割りと共に築かれた御土居の東端にあたる。中村武生氏の「御土居堀ものがたり」(京都新聞出版センター 2005年刊)によれば、御土居建設は天正19年(1591)年に入ってすぐに着手されている。同書では近衛信尹の「三藐院記」を引用し、「閏一月に開始して、二月に過半ができた」としている。凡そ22.5Kmに及ぶ大土木工事を少なくとも2ヶ月、長くみても4ヶ月以内に完成させたこととなる。このように短期間の建設だったため、かなりの人手が必要であったようで、同年1月から閏1月にかけて、京都の有力な寺社や諸大名に対して大動員がかけられた。さらに労働者の中には京都以外から呼び寄せた者も多くあったようで、格式の高い上賀茂神社では「河並普請衆」の寄宿は免れたが、多くの社寺がその宿泊に使用された。
 なお、秀吉の時代に造られた御土居の位置と規模を示す資料は残っていないとされている。現在、多くの書物に掲載されている御土居の位置は、江戸時代に入ってから作成された絵図によっている。凡そ北は鷹峯・紫竹より東は鴨川、南は九条通、西は紙屋川に囲まれた東西3.5Km、南北8.5Kmの範囲、つまり御所と院御所そして聚楽第を始めとし、相国寺、大徳寺、北野天満宮、本願寺、東寺等を囲うように御土居は建設された。つまり京における主要施設を取り囲む都市城壁(惣構)として役割を御土居は担ったとされている。上記のように、御土居建設に最長の4ヶ月間を費やしたとしても1日当たりの進捗速度150mとなる。これは重機を使用しないでの施工としては驚異的である。勿論、当時も複数の工区に割られ、寺社・諸大名に担当が分け与えられたであろうから、1日毎に150m延伸していった訳ではない。それでも目に見えるように京の風景が変っていたことが想像される。

 御土居は堀と土塁から構成されていた。先ず外側に幅20m、深さ4mの堀が掘られ、その内側に掘った土を盛り上げた台形状の土塁が築かれた。土塁の底部は20m、頂部で5m、そして高さ5mとかなり大きな堤防のようなものであった。堀の底から測ると土塁の頂部まで9mとなる。西洋の都市城壁は石垣やレンガで構築されているのに対して、御土居は土を盛っただけの土塁であったため、防護壁というイメージからは大きく外れてしまう。しかし外敵の侵入から京の町を護るために造られたことは確かである。その外敵とは何か?御土居が築かれたのは、上記のように天正19年(1591)のことであった。秀吉は既に天正13年(1585)には関白職に就き、政権を確立している。同15年(1587)には九州平定、同17年(1589)に小田原征伐と天下統一を果たしている。そして天正16年(1588)4月14日には聚楽第に後陽成天皇を迎えるなど、徳川家康を始めとする有力大名に対しても忠誠を誓わせている。この御土居建設に着手した当時、秀吉政権に対して弓を引く勢力はなかったことより、京都急襲に備えたものという説は考え難い。また土塁の頂部に物見櫓等ではなく竹が植えられていたことからも、この城壁を盾にして攻撃兵を撃退するものではなかったようだ。もし堅固な壁が必要ならば大阪城や聚楽第のように石垣を築けば良いのに、それを行わなかったということは単に経済的な問題だけではなかったようだ。あるいは鴨川と紙屋川の氾濫から都市を守るための堤防として作られたのかもしれない。水をたたえた堀を巡らし土塁の頂部に竹を植えたことより、中村氏は同書で御土居建設のひとつの目的として都市修景を揚げている。これもまた戦乱によって荒廃した京都の町並みに対する秀吉の復興施策であったとも考えられる。

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廬山寺 御土居


 京都の中心部を包み込む様に築かれた御土居であるが、勿論外部とを結ぶ口が数箇所造られている。前述のように創建時の状況を伝える資料が残されていないため、何箇所の出入口が最初に造られていたかは明らかになっていない。前述の「三藐院記」によれば「十ノ口アリト也」とあるので、当初は10箇所しか出入口が造られなかったことが分かる。中村氏は、この十口を三条口、長坂口、寺之内口と共に鞍馬口、大原口、五条口、七条口、八条口と推定している。
 また四条通には御土居の出入口が設けられなかったため、祇園社(八坂神社)から出た神輿は四条橋を渡っても寺町四条の御旅所に直接入ることが出来なかった。そのため三条橋に迂回して御土居内に入ったと考えられている。四条通に御土居の口が設けられるのは関ヶ原戦以降の徳川政権下の慶長6年(1601)とされているので、10年近く祇園祭の神輿は迂回していたこととなる。
 江戸時代に入ると出入口の数は飛躍的に増えて行く。御土居を建設した豊臣家から徳川家に政権が移行したため、当初の形を護る必然性がなくなったのであろう。また京都で生活する人々の利便性を考えるならば十口は余りにも少な過ぎた。元和年間から寛永初年(1615〜24)の京都の町並みを描いた洛中洛外図屏風には、既に40の出入口が数えることができるようになっている。徳川幕府は、御土居を秀吉の遺産と見なして破却することはなかったようだ。やや下った寛文9年(1669)には角倉家に御土居支配を命じ、その管理を民間に委ねている。角倉家は御土居の巡見を実施し、現状が維持されているかの確認を行っている。届けなく改修した箇所が発見された時は当事者に対して原状回復を命じる権限を有していた。しかし一方では御土居の私有地化も始まっている。東北部分の御土居では土塁を造成し民家建設も行われている。これは今出川以南の鴨川に寛文新堤が築かれたため、堤防としての御土居の役割が不要となったため、希望する公家や寺社に譲渡されていったようだ。御土居の東側の一部は開発されたが、それ以外の北、西そして南は公儀の御土居薮として維持されていった。
 寛政年間(1789〜1801)には70以上の出入口が築かれ、ほぼ軍事的な機能を果たせないものになっていた。それが明らかになったのは、建設後最初の戦となった元治元年(1864)の甲子戦争である。嵯峨と山崎に駐屯していた長州軍が一度も交戦することなく御所に達している。昔より京都は守り難い都市と謂われてきたが、まさにそのことを明らかにされた戦いでもあった。中村武生氏は「禁門の変の戦争過程 近世都市惣構の実態解明のため」(軍事史学194号 2013年9月刊)において、「出入口の増加にくわえ、そもそも囲う面積が広すぎた」と軍事的な機能を果たせなかった原因をあげている。

 御土居が失われて行く契機となったのは、明治3年(1870)9月に布告された悉皆開拓令であった。米穀、野菜、桑、茶などを植えつけるには、人家が近い御土居を耕作するのが容易であったからであり、申請を出せば自由に開拓できるようになった。明治に入り都が東京へ移り、京都自体の活性化を図れるような産業の育成が急務となっていた。米穀や野菜は日々消費するものであったが、茶や桑は輸出産業へと繋がってゆく。御土居開拓は殖産興業を背景に推進されて行った。最初は借地として農地化が進められたが、明治10年(1877)以降には土地の私有が認められ始める。これが御土居の大規模な破壊へと繋がって行く。特に明治30年代以降、急速な近代化により鉄道の敷設、工場の建設等により全国的な土地開発が推進され、土地に結びついた文化財の多くが破壊されてきた。その中で大正8年(1919)に史蹟名勝天然紀念物保存法が布告されている。これは現行の文化財保護法の前身にあたる。昭和4年(1929)5月、京都府社寺課は御土居の破壊から守るため、史蹟指定を前提とした調査が行われている。昭和5年(1930)3月7日、鷹ヶ峯の北区旧土居町2北区旧土居町3、紫竹の北区紫竹上長目町・堀川町、盧山寺の上京区寺町広小路上る北之辺町、西ノ京の中京区西ノ京原町市五郎神社境内、平野の北区平野鳥居前町、紫野の北区紫野西土居町そして大宮の北区大宮土居町の計8箇所に対して指定の内定が決まり、同年7月8日に正式に史蹟名勝天然紀念物に指定されている。その範囲は面積として3.6ヘクタール長さ1.1キロメートルと全長に対して20分の1程度が史跡指定されたことになる。この後、昭和40年(1965)にも北野天満宮の境内として上京区馬喰町が追加され、現在では9箇所が御土居の遺跡として保護されている。

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廬山寺 御土居


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