徘徊の記憶

アクセスカウンタ

zoom RSS 慶光天皇廬山寺陵 その5

<<   作成日時 : 2016/11/06 10:03   >>

ブログ気持玉 0 / トラックバック 0 / コメント 0

慶光天皇廬山寺陵(けいこうてんのう ろざんじりょう)その5 2010年1月17日訪問

画像
慶光天皇廬山寺陵


 慶光天皇廬山寺陵 その4では、尊号一件の目的とするところとその始まり、そして松平定信の老中筆頭への昇格と関白鷹司輔平との交渉の経緯を書いてきた。ここでは朝廷側から申し入れられた“小一条院に準じる待遇”に対する幕府の拒絶から結末までの交渉を見て行く。

 寛政3年(1791)4月22日、京の鷹司輔平より再度の照会依頼が定信に送られてきた。長和6年(1017)に藤原道長の圧力によって自ら皇太子の身位を辞退した第67代三条天皇の第一皇子の敦明親王に小一条院の尊号を前例とし、閑院宮典仁親王への尊号贈与の正当性を訴える内容であった。幕府は6月3日、関白宛へ「小一条院之御儀、古典などにあらくうかゞひ候のみにて、如何の御模様と申候儀も、恐察候様仕候」と返答し、尊号の贈与を拒絶した。ただし、事態の収束を図るため、閑院宮家に一代に限り千石の更なる加増を行い都合三千石とした。
 これまでの朝幕間の交渉に於いて、松平定信は一存で決することなく、当初より同僚と評議を重ね、更に尾張・水戸の両家にも関白との往復書簡を示し意見を求めるという細心の手筈で対応しきた。定信は当初より、この事案が大御所問題に密接に繋がって行くことを確信し、尊号一件に関しては幕府の総意を以って応えたという結果を残そうとしていたのである。

 当時、関白にあった鷹司輔平は鷹司家の嫡子ではなく、閑院宮直仁親王の第四皇子であった。つまり第三皇子であった典仁親王とは異母弟にあたり、光格天皇の叔父にあたる人物であった。藤田覚氏は「天皇の歴史06巻 江戸時代の天皇」(講談社 2011年刊)の中で、輔平と直仁親王との関係を説明した上で、「その鷹司輔平が、尊号宣下に反対した真意はよくわからない。」としている。また徳富蘇峰は近世日本国民史 第24 松平定信時代(民友社 1940年刊)で以下のように記している。

鷹司輔平の此の事件に対する態度が、自から自余の公卿と異なるものがあり、その事なる所以は、定信より吹き込まれた為めであらうと、想像せらるゝからである。


 つまり輔平は幕府との交渉において、この様な申し出が承認される可能性が全くないことを知っていたからとしている。
 鷹司輔平は寛政3年(1791)8月20日に関白職を辞している。同日に関白に就任したのは一条輝良であった。既に輔平は同年正月、そして2月にも辞職を申し出ていたので、この8月に関白辞任がやっと認められたこととなる。輔平は天明7年(1787)3月1日に九条尚実より関白を引継いだため、その任期は4年余に及んでいた。当時の平均的な関白の在任期間が凡そ8年とされているので、それに比べれば短命であった。この関白の交代を徳富蘇峰は、「輔平の辞職は、未だ必ずしも、尊号問題の為めではなかつたであらう。されど尊号問題が、彼の進退に関係あるは、云ふ迄もない。」と表現している。尊号贈与を得られなかったための更迭ではなかったものの、輔平にとって関白に留まることが困難な立場となったことは確かであろう。ともかく鷹司輔平の辞職により、重石が外れたかの如く尊号一件は急速に展開して行く。

画像
京都御苑 閑院宮邸

画像
京都御苑 閑院宮邸


 先ず、久我信通が寛政3年(1791)11月23日に武家伝奏を辞することとなった。その後任として正親町公明が同年12月25日に武家伝奏に就いている。信通は、12月に光格天皇が41名の公卿に下した「太宰帥親王尊王宣下あるべき哉」との勅問に賛否を表明しなかった人物である。それだけに消極的な対幕府交渉者と目されていたのであろう。なおこの勅問に信通と同じく保留したのは冷泉為章中納言と庭田重嗣中納言の2名、そして不可を婉曲に表明したのは前関白鷹司輔平と左大臣鷹司政煕父子の2名であった。京にあっては光格天皇が推進する尊号宣下が圧倒的な勢いを持っていたことが分かる。
 寛政4年(1792)正月9日、松平定信は鷹司輔平の前年12月25日付けの書簡で京の動きを知ることとなった。上記のように参議以上の諸卿に対する勅問の結果を示すことで幕府に対して尊号宣下を迫ることが内報された。定信は「御国体にとり不容易儀」という表現からも分かるように、この問題に対する危機感を一層高めた。

 輔平からの書簡の通り、正月20日付で正式に武家伝奏より京都所司代・太田備中守に「閑院一品宮御事」という書付が齎された。寛政元年8月の申し入れからの交渉の経緯を記した後、「仙洞思召も勿論御同様之御事故、猶又今度厚御評議有之に付、勅問衆其余前官大臣、大納言、中納言、参議、聴本坐輩迄も被所意候付、勅答中詞之写も別に相達候。」とある。仙洞とは後桜町上皇のことである。上皇は桜町天皇の第二皇女であり、現在のところ最後の女帝であった。既に後桃園天皇が安永8年(1779)に崩御されているため、皇統が閑院宮系に移る以前の最後の天皇でもあった。「仙洞思召も勿論御同様之御事故」とは、尊号宣下が閑院宮系の意志だけではないことを示そうとしていたのかもしれない。
 「勅答中詞之写も別に相達候」という言葉通り、一条関白以下の勅問奉答の一冊も添えられていた。書付の最後には、尊号宣下された新院に対して新たな御殿造営は必要なく、現在の閑院宮の修繕を行うこと、さらに新院の御例格7000石のところを4、5000石で構わないという内慮が記されている。朝廷側も譲歩を示すことで、尊号宣下を確実なものとしようとする作戦でもある。この書付と同時に武家伝奏から差し出された別の書付には、「一品宮御事、被音高年候間、於此節は、何卒無御猶予仰出度候間、関東之御返答早被仰進候者、嘸々可 御満悦候。」と返答に猶予がないことを告げている。
 上記のような新たな申し入れに対して松平定信等は協議の上、2月28日付で京都所司代・太田備中守宛に、「折角御深厚御内意之事故、猶又深御勘考可遊旨被仰出候。右之趣に付、急に御沙汰可在候趣にも不相伺候に付、此段先申進候間、程能両卿へ被達置候様にと存候。」と指示している。極めて婉曲であるものの京の申し入れを拒絶している。この様に問題の繰り延べを行えば、一品宮が高齢により猶予がないと再度の申し入れが生じることを想定し、定信は所司代に詳細に交渉方法を書き送っている。

 容易ならざる事件に付き、御熟考という一点張りの関東よりの返答に、満足できなかった京都側は寛政4年(1792)6月に武家伝奏より再び京都所司代を通じて督促を行った。これによると、正月の照会に対する2月に返事の後、5月上旬に武家伝奏が所司代に内談を行っていることが分かる。6月下旬の江戸からの返事もまた御考慮一点張りであったため、閑院一品宮親王が御高齢の上、中風を患われたので主上も速やかに宣下ありたしとの叡慮であると督促している。これに対しても江戸の幕閣は閑院宮の御病状を伝えることを7月13日付で所司代に命ずるのみであった。ただし念のために、「若し危急も無心元程之容態にも候はゞ、刻限飛脚にて、其趣申越、又一体寛成様子にも候はゞ、否差急に不及候」と付け加えている。江戸は一日でも問題の解決を繰り延ばそうとしてきたが、断じて尊号宣下は行うべきではないという意思であったことは確かである。

画像
廬山寺墓地 雲水ノ井跡 2014年10月8日撮影


 次の京からの督促は武家伝奏より所司代を通じて8月8日に江戸に届いている。中山愛親の日記に拠れば8月3日に太田備中守に示談したとあるので、僅か5日間で至急報として江戸に伝えられている。今回の督促は11月上旬の期限を設け、その叡慮践行を迫るものであった。松平定信は自らの「とかく不御為儀に付、 尊号 宣下之義は、決て御無用に思召候段々被仰出、外に御孝心相立候儀は、何分猶又御内慮被仰出候様にとの御事と申趣、被仰進候かたと奉存候」との意見を表明した上で、他の老中更には尾張大納言、水戸宰相の意見をも集め、8月20日に将軍に伺いをたてた。
 翌21日、尊号一件に関する将軍の決裁が下る。同月4日付で太田備中守は病により京都所司代の任を免ぜられ、27日付で堀田相模守が京都所司代に就任する。そして8月28日付けで「御名器は不軽儀に付、 尊号 宣下之儀は、決て御無用に可遊旨可申上との御儀に候」と老中連名の尊号宣下御無用の達しが遣わせられる。御名器とは太上天皇号であり、定信は天皇の地位に就いた事ない者に、「御私の御恩愛」によって尊号を宣下することは道理に反するものと強く反対している。
 これに対して、武家伝奏の萬里小路政房と正親町公明は、「近々新嘗御親祭之節、 叡慮不穏御子細も有之候へば、難黙止候間、是非十一月上旬には、可 宣下候。」と高圧的な回答を返している。

 定信は、武家伝奏・議奏衆を相招き尋問黜陟し不忠の者を退けるという尊号一件に関する処分案を9月28日付で再び将軍に伺いとして上げている。そして10月朔日付で正親町前大納言、中山前大納言、広橋前大納言の召喚を伝えた。10月2日、これに前後するように京都側では所司代に10月上旬には閑院宮に宣下の内意を伝え、11月上旬には宣下を実行する旨を伝えている。堀田相模守は江戸よりの返答がないので受け取れないと上記の申し出を返上している。その上で、所司代は京の逼迫した状況を江戸に告げている。これは4日後の10月6日には松平定信を筆頭とする老中連に伝わっている。
 幕府による三卿召喚の申入れは10月4日に京に届くと、同日朝廷の評議が行われ、尊号宣下の御取り止め、新嘗祭御親祭の御中止、三卿下向の不認可が決する。この後、朝廷と幕府間の交渉が続き、中山前大納言と正親町前大納言の下向出立は寛政5年(1793)正月26日となった。その後の江戸での詰問と両卿及びその他の堂上に対する最終的な処分、そして明治17年(1884)に行われた尊号贈与については、再び慶光天皇廬山寺陵を訪れた時に記すこととする。

画像
慶光天皇廬山寺陵 2014年10月8日撮影


テーマ

注目テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文
慶光天皇廬山寺陵 その5 徘徊の記憶/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる