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zoom RSS 慶光天皇廬山寺陵 その4

<<   作成日時 : 2016/09/25 20:08   >>

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慶光天皇廬山寺陵(けいこうてんのう ろざんじりょう)その4 2010年1月17日訪問

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慶光天皇廬山寺 


 慶光天皇廬山寺陵 その3では、天明8年(1788)1月30日に発生した天明の大火による御所焼失から寛政度の復古造営までの朝幕交渉について見て来た。御所御千度参において幕府との交渉の機会を得た光格天皇は、これを前例として御所造営の際には復古様式の採用を幕府に認めさせることに成功している。この項では御所御千度参と寛政度御造営に前後して発生した尊号一件について書いて行く。

 既に京都御苑 閑院宮邸 その2でも記したように、尊号一件は光格天皇が父である典仁親王に太上天皇号を贈ろうとしたことから始まっている。その始まりは正確には分かっていない。中山愛親の家記には天明8年(1788)4月に後高倉院と後崇光院の前例を調べたことが残っている。当時光格天皇は18歳であった。
徳富蘇峰は近世日本国民史 第24 松平定信時代(民友社 1940年刊)で、この事件の発端として中山愛親の家記を引用した上で、下記のように感想を述べている。

抑々尊号事件は、事件其物として、別に重大の問題でもなく、又た面倒の問題でもない。されど其の関係する所、影響する所は、重大でもあり、面倒でもあり、松平定信の就職の初より、辞職の際に至る迄、殆んど彼を苦しめ抜き、困らせ抜いた。然も彼は当初より確乎たる方針を定め、其事の難易如何にも拘らず、其の初心を貫徹した。彼の此の事件に処したる当否如何は、姑らく措き、彼は実に萬難を排しても、其の所信を遂行するの政治家と云はねばならぬ。


 尊号一件そのものが困難な事件であったという認識が蘇峰になかったことが分かる。そして定信は最初の方針、つまり幕府として贈号を認めることは出来ないとする方針を一度も翻すことも無かった。つまり尊号一件について、定信は自らの判断が誤ったものであるという認識も無く、当初の方針通り処置している。それでも松平定信が遂には辞職せざるを得ない状況に追い込まれたのは、尊号一件に関わる案件の影響によるところが大きかったとしている。つまり、当時幕府に於いても、徳川家斉が天明7年(1787)に15歳で第11代将軍に就任し、実父の一橋治済に対して大御所の尊号を贈ろうとする大御所事件が同じく天明8年(1788)に発生している。
安永3年(1774)当時将軍の候補者の一人であった定信を久松松平家の庶流で陸奥白河藩第2代藩主松平定邦の養子とさせた張本人が一橋徳川家当主・治済であった。さらに同年9月8日の田安治察死去により田安家の後継が不在となった際も、養子解消の願い出が許されなかった。田安治察は定信の実兄であったので、定信の養子縁組を解消すれば田安家の相続が可能であった。しかし御三卿の当主に子供のいない場合は相続を認めないとする御三卿の創設者である徳川吉宗の意向が示され、認められることは無かった。そして田安家は十数年にわたり当主不在となった末、将に天明7年(1787)一橋家の徳川治済の五男斉匡が相続している。このような状況より、一橋治済に隠居した前将軍に贈られる大御所の尊称に対して、松平定信が反発するのには充分な背景があった。
 また一橋治済に大御所を贈ることにより権力が、若い将軍から治済に移ることに定信は強い危機感を抱いていたようだ。そのため定信としては一橋治済の大御所就任を阻止するためにも、典仁親王の上皇就任を拒否すべき立場を譲ることは出来なかった。

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京都御苑 閑院宮邸 2008年5月13日撮影


 光格天皇が父・典仁親王に尊号を贈ることに思い至った背景については、藤田覚氏の「幕末の天皇」(講談社 1994年刊)が明らかにしている。御所内の座次については、慶長20年(1615)7月17日、二条城において大御所徳川家康、二代将軍秀忠、前関白二条昭実の3名の連署をもって公布された禁中並公家諸法度で定義されている。全17条からなる制定法は江戸時代を通じ、一切改訂されなかった。その第二条に「一 三公之下親王」とあるように、親王を太政大臣、左大臣、右大臣の下位と定めている。ただし第三条「一 C花之大臣、辭表之後座位、可爲諸親王之次座事」とあるので、親王の上位は現役の摂関家の三公のみということだろう。光格天皇にとっては臣下である三公より実父を下に扱わなければならないことに憤りを感じたのであろう。ただ禁中並公家諸法度を改正することは250年以上行われなかったことから不可能であると理解し、尊号を贈ることにより典仁親王を三公より上位に位置付けようと考えたのであろう。
 藤田氏によれば、典仁親王へ尊号を贈る動きは既に天明2年(1782)にあったとしている。光格天皇が明和8年(1771)8月15日誕生であるので、数えで12歳の時期である。これが天皇自らの意思であるならば、幕府に対して有利な交渉に導いて行くというような政治的な駆け引きではなく、純粋な御気持ちの現われて見るべきであろう。この時は所司代との内談が行われ、親王一代限り家領を千石増加し、二千石としている。
また天明5年(1785)にも武家伝奏に対して、幕府と交渉を行うことを命じている。さらに天明7年(1787)と翌8年にも御内慮を伝えようとしたが、大嘗祭の復古や御所焼失があったため延期されたようだ。恐らく蘇峰が引用した中山愛親の家記は天明8年(1787)4月としているので、この時期に後堀河天皇と後花園天皇が何れも父君に尊号を宣下した経緯を調べている。蘇峰も尊号一件の発端が、議奏であった中山愛親の調査以前からあったことも想定していたが、明確に記録に現われたのはこの時としている。

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京都御苑 閑院宮邸 2008年5月13日撮影

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京都御苑 閑院宮邸庭園


 尊号を典仁親王へ贈りたいという御内慮が正式に幕府に伝えられたのは、寛政元年(1789)8月のことであった。しかし慶光天皇廬山寺陵 その3でも記したように、天明8年(1788)5月には老中松平定信が上京し、関白鷹司輔平と話し合いを持っている。京都所司代戸田忠寛の引継ぎのための出張であり、将軍輔佐拝命を京に伝えるためのものであった。この会見について、定信の自伝「宇下人言」には以下のようにある。

上京のとき御造営之義いづれ御失費はかりあるべからず。ことに復古之思召しきりなれば、いかやうなる御沙汰に可及もしれざれば、関白殿に謁見してその事のわけくはしくいはむと庶幾す。幸ひ関白殿にもあひ給ひたきと之事にて侍るまゝ、そのよし関東へも申上てかつ由緒もある也。一日謁見せしに、丁寧にさたし給ひ、盃なども出、もてなされし。畢て復古とてその古制之分寸を追ひ侍るは末の事にて侍る。そのうえへ古と今は時勢もたがひぬる事、その外節倹を示さるべき事等、一々呈出せしが、大によろこばれて今にして公武御したしみの処もくまなく侍るべしとて、それより当職中は御書付など度々下し給ひけりすでに此末尊号之事もこの謁見故によくもその意を得たり。


 引用文の最後にもあるように、「すでに此末尊号之事もこの謁見故によくもその意を得たり。」と尊号一件についての処理について関白と老中首座の間で検討がなされている。
 この寛政元年の御内慮は同年2月には武家伝奏を経て京都所司代に伝えられていることが、やはり中山家の家記から分かる。その文書には前年、すなわち天明8年(1788)春にも伝えようとしたが御所焼失により留めた事や後堀河天皇と後花園天皇の事例が添えられていたことが分かる。
 2月に武家伝奏が伝えた御内慮が江戸に達したのは同年8月のことであった。恐らく朝廷が申し出を延引したのか、京都所司代での詮議が長引いたためであろう。何れにしても所司代・太田備中守が松平越中守(松平定信)等老中に送った書簡は同年8月25日付けであった。
 松平定信は江戸での評議の末、同年11月に所司代に対して、「是等の御先例は、いづれも、承久、応仁衰乱之時代之儀にて、御引用可之儀に而は、嘗て有之間敷奉存候」と尊号宣下は不可であることを知らせている。さらに11月19日付、閣僚連名で所司代に指令を与えている。この書簡の前半で下記のように尊号の経緯を説明している。

去る天明二年、備後守其地勤役中、追々掛合に有之、同四年 御内慮之通、閑院一品宮一代、格別之訳を以、現在中千石被進候段被仰出候処、其後 主上段々御年被長候に付ては、御孝道之儀専被思召、太上天皇尊号之事 御内慮被進度御沙汰に候旨、伝奏衆持参之書付写被之、被申越候趣令承知候。


 上記の文中の備後守とは天明元年(1781)から同4年(1784)まで京都所司代の役職に在った常陸笠間藩主・牧野貞長のことであろう。貞長は京都所司代の後、寛政2年(1790)まで老中にあった。将にこの所司代への指令に連署した老中の一人であった。この一文が尊号一件の発端が天明2年(1872)にあったとするものであろう。何れにしても幕府は、「右尊号之儀は不容易義に付、今一応厚く御評議之、猶又御内慮有之候様、伝奏衆へ可達候」と再考を促すように仕向けているが、明らかなる拒絶の言い渡しでもある。
 松平定信は更に11月13日、関白の鷹司輔平に書を贈り尊号に関する関白の意を確認している。輔平からの返書は翌寛政2年(1790)3月7日の差出となっている。中4ヶ月を経た返答になったことには京都の事情が複雑であったためであろう。定信は3月16日付で「已然読書之頃、妙出之品とり集候儀に付」と尊号について調査編纂した資料を輔平に贈っている。

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京都御苑 鷹司邸跡 

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京都御苑 鷹司邸跡 


 寛政3年(1791)正月26日、京の鷹司輔平より再度の照会依頼が定信に送られてきた。後堀河天皇と後花園天皇の事例は承久、応仁の乱という混乱期の事例であるが、それ以外にも追贈した事例も存在しているので、平時には全く存在しないとする定信の論に対して反論を試み、是非とも尊号宣下が遂行されるように検討して欲しいとの依頼であった。定信は寛政3年(1791)2月に再度尊号の不可なるを説き、京都側に反省を求めた。これに対して再び4月22日に関白鷹司からの書状が届き、小一条院の先例に準じることを提案してきた。小一条院とは第67代三条天皇の第一皇子の敦明親王のことである。藤原道長の圧力の前に長和6年(1017)8月9日に自ら皇太子の身位を辞退している。その見返りとして准太上天皇としての待遇を得たことで知られている。源氏物語では光源氏が「太上天皇になずらふ御位」についたとされるが、歴史上准太上天皇の実例はこの敦明親王のみであり、小一条院の院号と年官年爵を与えられ、上皇同様に院庁を設置されている。しかし明確に准太上天皇という称号が与えられたわけではなく、院号の授与や院庁の設置、年爵の賦与により上皇に准じた待遇を与えられたに留まっている。
 江戸では再び閑院宮に小一条院に準じる待遇をとの思召しに対する評定を行い、6月3日に関白宛に、「小一条院之御儀、古典などにあらくうかゞひ候のみにて、如何の御模様と申候儀も、恐察候様仕候」と返答し、閑院宮家に一代に限り千石の更なる加増を行い都合三千石としている。なお「古典などにあらくうかゞひ候」とは、京都側の小一条院に関する考証が室町時代の一条兼良による源氏物語註釈花鳥余情を参考にしていたためである。
 松平定信は当初より同僚と評議を重ね、更に尾張・水戸の両家にも関白との往復書簡を示し意見を求めるという細心の手筈で対応している。この対応が大御所問題に密接に繋がって行くことを最初から定信が認識していたからであろう。老中首座にあり一存で決せる案件であっても、尊号一件に関しては非常に慎重に対応していたことが分かる。

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慶光天皇廬山寺  手前左側の墓


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