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zoom RSS 慶光天皇廬山寺陵 その3

<<   作成日時 : 2016/09/20 23:55   >>

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慶光天皇廬山寺陵(けいこうてんのう ろざんじりょう)その3 2010年1月17日訪問

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慶光天皇廬山寺 南北に長く複数の墓石が配置されている

 
 慶光天皇廬山寺陵 その2では、元々病弱であった後桃園天皇の急逝、安永8年(1779)11月25日の光格天皇即位から始め、天明7年(1787)6月7日より発生した御千度参りを中心に書いてきた。当時、天明2年(1782)から続く天明の大飢饉の真最中であり、同7年(1787)5月には農村から貧困に耐え切れず都市部に流入した人々により江戸、大阪で打ちこわしも行われている。御所の周りで自然発生した御千度参りは、このような世相を打破するため単に神仏に頼るではなく、天皇に訴える行動となった。
 御所御用水を群衆に開放し、仙洞御所では林檎を3万個一人一人に配るなど、光格天皇は自らの意思によって救民を行っている。6月14日には関白鷹司輔平を通じ武家伝奏を京都所司代に面会させ、幕府によって事態を打開することを依頼している。孝明天皇御宇の対幕府交渉とは異なり、翳りが見えたとは云えども幕威が確実に存在していたこの時代、朝廷は幕府に対してかなり下手に出ざるを得なかった。大政委任されている幕府としても、困窮した民衆を救うための政策を打ち出すことは本来の役割でもあった。それだけに天皇より救民の指図を受けることは政権を続けて行く上で大きな問題でもあった。光格天皇にとっても、ここで幕府に対して直接交渉の実績を作ったことが、後に大きな力を得ることに繋がって行くこととなる。

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京都御所 築地丙の外側に御所御用水が見える


 光格天皇は既に中絶していた朝儀を再興するだけに留まらず、略式に行われてきた朝儀を古式に復古させることにも尽力している。天明6年(1786)11月1日には朔旦冬至旬を行っている。19年一度巡ってくる11月1日の冬至の日に天皇が紫宸殿に出て廷臣に酒肴を賜わるための宴を行うことであった。実に宝徳元年(1449)以来、337年ぶりの再興となった。
 翌7年(1787)11月27日には大嘗祭を古式によって挙行している。既に貞享4年(1687)に再興されていたが、貞観、延喜式に戻したのは光格天皇であった。新嘗祭も元文5年(1740)に再興されたものの安永7年(1778)以来中絶していた。これを天明6年(1786)に再興している。しかし元文に再興された際、神嘉殿ではなく紫宸殿で行われたため、再興した光格天皇も紫宸殿で行っている。本来は内裏の西にある中和院の正殿である神嘉殿で天皇が親祭するものであった。寛政3年(1791)に幕府に相談することなく神嘉殿を造営し、新嘗祭を古式に復古させている。かなり強引なやり方であったため、幕府も光格天皇の行動に注意を払うようになったとされている。

 上記の御所御千度参が終結した時期に天明の大火が発生している。天明8年(1788)1月30日未明、鴨川東側の宮川町団栗辻子(現在の京都市東山区宮川筋付近)の町家から出火。折からの強風に煽られて瞬く間に南は五条通にまで達している。火は洛東におさまらず、鴨川対岸の寺町通に燃え移っている。そして当日夕方には二条城本丸が炎上、続いて御所にも燃え移っている。最終的な鎮火は、2日後の2月2日の早朝であったとされている。
 この天明の大火は京にとって応仁の乱以降最大の災厄となった。御所及び仙洞御所が悉く灰燼に帰している。大火の中、天皇は御所を出て鴨川を渡り下賀茂神社に一時避難した後、南の聖護院に移り、ここを仮御所に定めている。当時、御所の造営は幕府の責任で行われていたため、3月22日に老中松平定信が御所造営総奉行に任命されている。朝廷側も翌23日に中山愛親、広橋伊光、勧修寺経逸を御所造営掛に任じている。
幕府は寛政の改革に着手するなど財政再建が喫緊の課題であったあったため、焼失前と同規模の造営をする計画であった。光格天皇が朝儀の再興と復古に熱心であったことから、朝廷は禁裏御所も復古的な造営を望むという不一致が最初から存在していた。朝廷は宝暦8年(1758)に宝暦事件に連座し、30年間蟄居謹慎となっていた裏松光世の謹慎を解き、参内を許している。これは裏松が謹慎中に文献や古絵図をもとに行った平安大内裏の研究、すなわち大内裏図考証を造営の基本設計に据えようと考えていたためである。さらに天皇は関白や左大臣に内裏造営に古儀を用いることの可否について勅問し、その同意を取り付けた後に幕府との交渉に入っている。所司代へ造営に関する光格天皇の意向が伝えられた。再興・復古させた朝儀を行う上で焼失前の紫宸殿や清涼殿では狭い上、朝儀の威厳が欠けるというのが復古造営の根拠となった。

 天明8年(1788)5月、上京した老中松平定信は関白鷹司輔平と内裏造営について話し合いを持っている。これは京都所司代戸田忠寛の引継ぎの為の出張であり、将軍輔佐拝命を京に伝えるためのものであった。そのためこの出張は、天明の大火以前に予定されていた。しかし御所の焼失に伴い新たなる御造営が必要となったことも出張の新たな目的に加えられた。
 藤田覚氏は「天皇の歴史06巻 江戸時代の天皇」(講談社 2011年刊)で、財政改革を推進する定信が、復古造営が幕府にとって困難であり大名に負担を転嫁すれば必ず人民に苦しみを与えることに繋がると威し賺したと記述している。ただし、この会見について、定信の自伝「宇下人言」には以下のようにある。

上京のとき御造営之義いづれ御失費はかりあるべからず。ことに復古之思召しきりなれば、いかやうなる御沙汰に可及もしれざれば、関白殿に謁見してその事のわけくはしくいはむと庶幾す。幸ひ関白殿にもあひ給ひたきと之事にて侍るまゝ、そのよし関東へも申上てかつ由緒もある也。一日謁見せしに、丁寧にさたし給ひ、盃なども出、もてなされし。畢て復古とてその古制之分寸を追ひ侍るは末の事にて侍る。そのうえへ古と今は時勢もたがひぬる事、その外節倹を示さるべき事等、一々呈出せしが、大によろこばれて今にして公武御したしみの処もくまなく侍るべしとて、それより当職中は御書付など度々下し給ひけりすでに此末尊号之事もこの謁見故によくもその意を得たり。


 勿論、定信の自伝であるから関白を恫喝するような発言を残すことはない。この話し合い自体は御所造営についての交渉ではなく、むしろその後の老中筆頭と関白との公武政策を確認するものであったようだ。定信は続けて下記のように記している。

それよりして御造営の事ども申決。いづれ復古てふとてもそのほどもあるべき也。新制度は履霜之漸おそるべければ、巳後御新制之義は所司代にてかたく御ことはり申上可然。此義よくくあと役へも申伝維持すべき旨被仰付に決しぬ。こたび両殿の御物数寄はまづとげられ可然に決、並に公義之御入用をもて可仰付に決しぬ。


 この復古造営を松平定信が全面的に反対したのではなく、その復古の度合いを当時の幕府の財政状況に合わせようと苦労していたことが伝わる。定信は松平豊後守と細川越中守に働きかけ二十万両づつ献上させ、五万石以上の大名に対して御築地金の供出も行っている。

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京都御所 現在の建築様式に改まったたのは光格天皇による寛政度御造営以降


 工事は寛政元年(1789)より始まり、3月27日に御地築始があり、7月4日辰刻に木造始が行われ、8月13日卯刻には紫宸殿、清涼殿、内侍所、小御所、常御所等の御礎、そして午刻に御立柱の規式が行われている。翌2年(1790)8月26日の巳上刻に上棟の規式があり、9月26日より7日間新殿で安鎮の御祈が阿闍梨妙法院天台座主真仁入道親王によって勧修されている。真仁入道親王は閑院宮典仁親王の第5皇子であるので、天皇にとって異母兄にあたる。光格天皇が新殿に還幸されたのは寛政2年11月22日午刻のことであった。
 寛政度御造営は古儀に基づいたため各殿舎の規模も大きくなっている。そのため内裏の敷地自体も宝永度造営に比べ南北方向に拡張され、規模的には現在の京都御所に近づいている。つまり安政度御造営の際に南西、南東隅の切欠きを無くし、そして慶応元年(1865)に有栖川宮邸を移し、東北隅にあった切欠きを御所敷地内に組み入れたこと以外はこの寛政度御造営によって現在の京都御所の形が定まったと考えてよいだろう。

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慶光天皇廬山寺 手前右側の墓

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