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zoom RSS 慶光天皇廬山寺陵 その2

<<   作成日時 : 2016/05/29 20:07   >>

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慶光天皇廬山寺陵(けいこうてんのう ろざんじりょう)その2 2010年1月17日訪問

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慶光天皇廬山寺陵

 
 慶光天皇廬山寺陵では、桃園天皇から光格天皇に至る江戸時代中期の朝廷の様子を中心に幕府の衰退の兆しにも触れてきた。この項では光格天皇によって行われた朝儀の再興、朝権の回復について書いて行く。
 明和8年(1771)8月15日に閑院宮第2代典仁親王の第6皇子祐宮として生まれている。そのままならば兄の美仁親王が閑院宮家を継ぎ、祐宮は安永元年(1772)9月には聖護院宮忠誉法親王の付弟とされ、将来的には聖護院門跡に入る予定であった。しかし後桜町天皇から譲位され即位した後桃園天皇が病弱で欣子内親王一人を残して、安永8年(1779)10月29日に急逝している。同年7月頃から浮腫ができ、10月中旬には様態が悪化していたようだ。それでも22歳と年齢も若いため持ち応えるかと思われたが、急に病状が進んでいる。恐らく後継の準備が間に合わないほどの急変であったのであろう。そのため天皇の喪の発表は一時留められている。そして候補者として伏見宮貞敬親王より年長であるという理由で、11月8日に「帥宮息祐宮九歳養子と為し践祚あるべくの由、叡慮御治定仰せ出され候」という後桃園天皇の叡慮が公表され、翌9日に今暁寅刻に天皇の崩御が告げられている。そして11月25日に践祚が行われている。この時、諱も兼仁に改められた。「光格天皇実録」(ゆまに書房 2006年刊)の11月25日の条には下記のように記されている。

二十五日、践祚アラセラル、御諱ヲ兼仁ト改メサセラル、剣璽渡御ノ儀アリ、是日、関白九條尚實ヲ摂政ト為ス、


 践祚は御桃園天皇の実際の崩御からすぐに行われたものの、即位は翌9年(1780)12月4日となっている。「光格天皇実録」には「四日、紫宸殿ニ於テ即位ノ礼ヲ行ハセラル、」と実に素っ気無く記述されている。
 藤田覚氏の「幕末の天皇」(講談社 1994年刊)では、光格天皇の即位時の年齢が低いことに着目している。光格天皇以前の江戸時代の天皇11人の平均が13歳であったことと比較すると幼い天皇の出現が分かる。明正天皇と桃園天皇が即位したのが7歳で、光格天皇がこれに次いでいる。明正天皇の場合は、後水尾天皇が突如譲位したことでの即位であり上皇が自ら院政を敷いたため天皇の幼さが国政に与える影響はなかった。桃園天皇もまた父である桜町上皇が院政を敷くための譲位であった。光格天皇の場合は先々代の後桜町上皇が健在であり、若い光格天皇の教育役を果たした。しかし上記のように関白の九条尚実が摂政に就任している。藤田氏は同書内で関白と武家伝奏、議奏の両役は天皇を補佐するものの、誤った判断を行った際には厳しく諌める役割を担っていたことを指摘している。これは江戸幕府が朝廷の暴走を防ぐために作ったシステムであり、これにより朝廷内の政務機構によって自らの行動規制を行うようになっていた。宝永享保年間(1704〜36)に霊元上皇が「私曲邪佞之悪臣」関白近衛基煕と近衛家三代を排除する願文を下御霊神社に収めた事例、若き日の孝明天皇が太閤鷹司政煕から承久の乱を持ち出し諌められたこと、そして条約勅許の交渉において関白九条尚忠が幕府側についたことなどは、この朝廷内の政務機構によって全て説明が出来るだろう。

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慶光天皇廬山寺陵 2014/10/18撮影


 また藤田氏は「天皇の歴史06巻 江戸時代の天皇」(講談社 2011年刊)でも同じ事を記しているが、光格天皇の出自が閑院宮家という傍流であったことから、周囲から軽んじられていたこと、そして自らも「兼仁眇々たる傍支の身にして辱く天日嗣を受伝へる事」「従傍支して皇統を続奉るは」さらに「愚は宗室の末葉にして」と記していることからも自覚していた。一般的にはこの出自に対するコンプレックスが光格天皇の朝廷復古につながったとされている。
 霊元天皇を始めとする歴代の天皇は、朝廷内の政務機構によって天皇自らの行動に規制がかかることが多くあった。光格天皇にとって幸いとなったのは、摂政を任された九条尚実が践祚の安永8年(1779)時点で63歳と高齢であったことであろう。安永10年(1781)正月に元服の礼ガ行われている。「光格天皇実録」には下記のように記されている。

安永十年正月一日、四方拝、御座ヲ設クルモ、出御アラセラレズ、大床子御膳ヲ供ス、是日、紫宸殿ニ於テ元服ノ儀ヲ行ハセラル、加冠ハ摂政太政大臣九條尚實、理髪ハ左大臣鷹司輔ナリ、


 元服を経ても九条尚実は摂政として政務を見ていたが、天明5年(1785)2月には復辟、すなわち摂政を辞職し関白に就任したが、まもなく発病している。尚実が関白を辞職したのは天明7年(1787)3月1日であった。この時、17歳になっていた天皇は、関白が病気がちになった頃より一、ニの近臣の力を借りて自ら政務を行っていたと藤田氏は見ており、その近臣を議奏の中山愛親であったとしている。

 天明7年(1787)3月1日、九条尚実が引退した後に関白に就任したのは鷹司輔平であった。輔平は初代閑院宮直仁親王の第4王子の淳宮として元文4年(1739)に生まれている。その当時、鷹司家の当主であった鷹司基輝が寛保3年(1743)に急死したことにより、淳宮は養子として鷹司家に迎え入れられている。つまり九条尚実の後を継いで関白となった鷹司輔平は光格天皇にとって叔父にあたるが、年の差は32歳とかなり空いていることから、若い天皇より政務を相談するような間柄ではなかったと想像される。いずれにしてもこの天明7年(1787)から尊号一件が起こる寛政5年(1791)までの間に、さらに2つの異なった事件が発生する。

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京都御所 南門

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京都御所 築地塀と御所用水


 最初の事件は天明7年(1787)6月7日から始まる。御所の築地塀の周りを巡る人々が一人二人と現われた。御千度参りと呼ばれる事件の始まりは数人であった。これは神仏に祈願する御百度参りと同じもので、当時は天明2年(1782)から続く天明の大飢饉の真最中であった。同7年(1787)5月には農村から貧困に耐え切れず都市部に流入した人々により江戸、大阪で打ちこわしが行われている。この天明の大飢餓に対して同年6月に松平定信が老中に就任し寛政の改革に着手することとなる。御所の周りで発生した御千度は、このような世相を打破するため単に神仏に頼るではなく、天皇に訴える行動となった。
 発生の7日には4〜50人程度であった人々も日を追う毎に増え、10日にはなんと1万人あるいは3万人の群集になったという記録もある。実際に一人一人数えた訳では無さそうなので、見た人の感覚によって数が記されたのであろう。いずれにしても大群衆が御所周りに集結したことが分かる。さらに人数は増加し、6月18日の前後4、5日には1日7万人に達したとされている。当時の御所は宝永度御造営内裏であった。東西方向は現在とほぼ同じ、南北方向はやや小さ目で寛政度そして安政度と同じく北東角に大きな切欠きがあった。集まった人々は築地塀の周りを巡り、南門と唐門の前で拝礼し願い事を書いた紙に銭12枚を包んだ賽銭を投げた。あまりの人出のため、菓子や瓜、心太、酒肴を売る露天が5〜600も出たというので、御所周辺が祭礼時の神社の境内のような喧騒とした雰囲気になっていたのであろう。
 禁裏では築地塀を巡る溝を掃除させ御所内の泉水を流し込ませている。御所御用水を群衆に開放したのであろう。また仙洞御所では林檎を3万個用意し、一人一人に配ったものの昼過ぎには終了している。鷹司家では強飯、有栖川宮家や梶井家からはお茶、そして堂上公家からは握飯などが御千度に配られるなど非常に同情的な対応であった。民衆は困窮の打開を奉行所に対して訴えたものの、全く埒が明かなかった。そのため願い事を書いた紙に賽銭を包んで投げ、直接天皇に訴える行動に出た。しかし直接天皇に陳情するのでは捕縛されるため、御千度参りという宗教的な行動に転化して訴えたのである。この御千度参りついて、「光格天皇実録」からは読み取れないが、「史料京都の歴史 第5巻 社会・文化」(平凡社 1984年刊)に所収されている「〔占出山町文書〕米穀高値ニ付一件留書 天明七年 町々申継口上書ノ写」(38)では春に1石200匁であったものが6月には245匁に値上がり困窮した町民は下記のような行動に移したことが分かる。

何方共なく六月上旬之比より京中人民、禁裏御殿え拝参群集して、御宮中之御築地之外を千度歩ミ廻るトテ、一遍廻りて凡十二町在之由、大暑残暑之比、其厭ひなく段々追々参る事にして、後ニハ町々組合大勢男女老若幼年迄参りて、御南門を奉拝五穀成就之祈念をば奉成たり。此儀を御内裏ニ被聞召たる事と言儀也


 占出山町とは現在も中京区に残る町名で、烏丸通から錦小路通を西に入った南北町である。御所からそれ程離れていない町の人々も御千度参りに加わったことや、最初は個人の参拝だったのが大群衆に変って行ったことが、「後ニハ町々組合大勢男女老若幼年迄参りて」から良く分かる。

 光格天皇は6月14日に、関白鷹司輔平を通じ武家伝奏を京都所司代に面会させ、幕府によって事態を打開することを依頼している。幕末の朝廷と幕府との交渉とは異なり、あくまでも朝廷は下手に出ざるを得ない。書面を以って天皇の内慮を伝達するのではなく、口頭で依頼したことが誤って伝わることが無いように念のために書面に認めたということであった。この当時の幕府と朝廷との交渉は宝暦、明和事件の後であるから、朝廷にとっては実に慎重なものであった。しかしこのような前例を積み重ねる事で、やがて朝廷からの要求が幕府に伝えられるようになって行く。7月8日に救い米500石の放出が京都所司代から奉行所に命じられ、翌8月5日にも追加1000石の放出が行われている。6月の下旬には御所に集まる人々も減少したが、この年の9月になっても御所周辺に人々の姿が残っていた。
 当時、京都所司代を務めていたのは元宇都宮藩藩主・戸田忠寛であった。父である戸田忠余が養子として宇都宮藩第2代藩主に入っている。家督は次男の忠盈が継いだが、寛延2年(1749)に島原藩に移封されている。忠盈は病気を理由に宝暦4年(1754)に弟の忠寛に家督を譲って隠居している。そのため忠寛は第2代島原藩主を経て安永3年(1774)に再び下野宇都宮に転じている。天明2年(1782)に大阪城代そして同4年(1784)に京都所司代に任命されている。御千度参りが収束した天明7年(1787)12月に所司代を辞し旧領である宇都宮に転封されている。この時、京都伏見での市人争訟の計らいが不十分であったとされ、出仕が停められているが、もしかしたら藤田氏の指摘しているように朝廷の前例のない行動を許した事が罪に問われたのかもしれない。多くの所司代経験者は老中に昇進しているが忠寛にはその機会が遂に訪れなかった。

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慶光天皇廬山寺陵 2014/10/18撮影


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