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zoom RSS 慶光天皇廬山寺陵

<<   作成日時 : 2016/05/29 19:56   >>

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慶光天皇廬山寺陵(けいこうてんのう ろざんじりょう) 2010年1月17日訪問

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慶光天皇廬山寺陵

 
 薬医門の右脇に大阪皇陵巡拝会が建立した慶光天皇廬山寺陵への道標が残されているように、廬山寺の境内には慶光天皇の陵墓が築かれている。慶光天皇とは京都御苑 閑院宮邸 その2でも記したように閑院宮第2代典仁親王である。閑院宮家は四世襲親王家として現在のところ一番新しく作られた宮家である。伏見宮・有栖川宮・桂宮の宮家がいずれも当時の天皇家とは遠縁になっていることより、皇統の断絶が危惧されるならば天皇の近親者によって新たな宮家を創設するべきという新井白石の建議によっている。最初の世襲宮家である伏見宮の始祖は北朝3代崇光天皇の皇子・栄仁親王で実に南北朝時代まで遡ることとなる。桂宮の始祖は第106代正親町天皇の皇孫・智仁親王、有栖川宮も第107代後陽成天皇の皇子・好仁親王といずれも江戸時代初期には天皇家から分かれ親王家を300年間継承している。そのような事情から享保3年(1718)正月、第113代東山天皇の第6皇子・直仁親王が閑院宮家を創設することとなった。閑院宮の宮号は霊元上皇より賜ったものであるが、清和天皇の皇子・貞元親王の号であった閑院に由来するとされている。しかし貞元親王が閑院宮を称していたかは明らかではない上、平安時代の天皇の皇子であり近世の閑院宮には直接のつながりはないと考えても良い。
 閑院宮第2代典仁親王は寛保2年(1742)2月、桜町天皇の御猶子とされ、翌3年(1743)9月に親王宣下を受けている。親王は正妃に中御門天皇の第5皇女である成子内親王を迎えたが、2人の間には子供がなかった。そのため閑院宮第3代は宝暦7年(1758)大中臣祐智の女に生まれた第1皇子・美仁親王が継ぐことが決まっていた。美仁親王は宝暦12年(1762)12月、先代と同じく桃園天皇の御猶子となり、翌13年(1763)10月に親王宣下を受けている。
 後に光格天皇となる祐宮は明和8年(1771)女房・大江磐代を母として生まれている。生母である大江磐代は鳥取藩の家老荒尾氏の家臣であった岩室宗賢と鉄問屋の娘であった母の間に生まれている。父は浪人し町医者となったため、磐代が9歳のときに上京している。そして養女となり櫛笥家に仕えるなどを経て籌宮成子内親王の侍女となっている。そのため成子内親王が閑院宮典仁親王に嫁ぐ際に磐代も女房として親王家に入り、後に寵愛を受け三人の皇子を儲けている。磐代は天皇の生母として、当時としては異例の出自の低さであったようだ。典仁親王没後、磐代も出家して蓮上院となり、聖護院門跡宮家を継いでいた第7皇子・盈仁入道親王の許で暮らしている。この聖護院門跡宮家を本来継ぐ予定であったのは第6皇子の師仁親王であったが、以下に述べる経緯で光格天皇として即位したため弟宮に順番が巡って行ったのであろう。

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慶光天皇廬山寺陵 紫式部歌碑と廬山寺陵への道標 2014/10/18撮影


 さて第119代光格天皇より3代前の第116代桃園天皇の御宇より明治維新の基となった尊王思想の発達について見て行きたい。先ず特筆すべきは事柄としては、桃園天皇の時代に竹内式部による宝暦事件が発生していることが挙げられる。徳富蘇峰は近世日本国民史「宝暦明和篇」(時事通信社出版局 1964年刊)において、桃園天皇の御宇が15年であったことは必ずしも短いものではなかったが、在位が7歳から22歳までのことであったので、「頗るあつけない」と記している。それでもこの御宇を重大に取り扱うのは竹内式部事件が京都に発生し、「而して此の事件が、恐れながら桃園天皇を中心として、有志の公卿を周環として、出で来つたからである。」と考えている。さらに「此の事件は、単に京都に於ける、内輪の事にして、広く天下を声動したる程では無かつたが、然も世の趨勢を察する者に取りては、頗る重大なる徴候として、之を見逃す訳には参らぬであらう。」という感想を述べている。確かに下級に近い公卿が天皇と結びつき、摂関家が建前上では承久の乱を恐れてこれらを排除するという構図は安政から文久にかけての朝廷内における動きを予感させるものでもある。
 徳大寺家の家臣で山崎闇斎門下に師事していた竹内式部が、桃園天皇の近習である徳大寺公城をはじめ久我敏通・正親町三条公積・烏丸光胤・坊城俊逸・今出川公言・中院通雅・西洞院時名・高野隆古等に神書・儒書を講じていた。これらの若手の公家達は、幕府の専制と摂関家による朝廷支配に憤慨し、ついには竹内式部による桃園天皇への進講を実現させている。式部は日本書紀神代巻の講義と称し、単に古書の意義を述べるではなく、古書を借りて当時の朝廷と武家の関係について説いていたとされている。式部の説は直接的に倒幕を目指したものではないものの、武家政治の現状は本来の日本の国体から見て不自然な状況にあり、これを改める必要があると主張している。今の世の中ではそれ程、危険を感じるような学説であるが、当時の幕府にとって式部は危険思想の持ち主とされた。幕政全盛の時代にこのような反幕的な意見を、あろうことか天皇に進講したのであるから、その処罰が追放に留まったのは蘇峰の指摘する通りむしろ寛大な沙汰であったと云っても良いだろう。いずれにしてもこの事件は朝廷と幕府の正面衝突にはならなかった。安政の大獄のような幕府による公卿への弾圧ではなく、朝廷内の権力争いとして捕らえるべきであろう。つまり下級な公卿が天皇の信を得たことにより、古来保持してきた特権が犯される危機を感じた摂家の一同が一致協力して、これ等を叩き潰したということである。

 竹内式部父子に対する追放の処罰が申し渡されたのは宝暦9年(1759)5月6日であった。その2日後の5月8日には堂上方に対する三本木事件の処分が行われている。三本木事件とは宝暦8年(1758)5月29日鴨川で洪水が発生した際に、川沿いの三本木の座敷を借り見物をしたと公卿がいたということのようだ。これは鹿ケ谷の密談のような陰謀の類ではなく、単なる公卿達の物見遊山であったようだ。しかし式部の門人であった人々が多く関与し、市中の風評に上ったためこれを名目に罰することとなった。そして更なる処罰は翌10年(1760)4月29日に下されている。徳大寺、正親町三条、烏丸、坊城、高野、西洞院、中院の7名に対して落飾が仰せ付けられ、一家に預けられ永蟄居となった。また今出川、高倉、西大路、桜井、裏松、町尻の7名は所労を名目として出仕致さないように申し付けられている。このようにして桃園天皇が近臣と頼んだ垂加説を奉ずる公卿達は見事一掃された。若い天皇の失望はとても大きなものであっただろう。そして天皇も宝暦事件の処罰が下された2年後の宝暦12年(1762)7月21日に世を去っている。

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廬山寺墓地 墓地への参道 左塀の裏側は源氏庭

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廬山寺墓地 仁孝天皇皇子鎔宮墓と孝明天皇皇子寿萬宮墓の墓


 桃園天皇の崩御後、皇位は宝暦8年(1758)に生まれた第1皇子・英仁親王に継承されると見られていたが、未だ幼いことより姉の智子内親王が即位し後桜町天皇となった。つまり後桜町天皇は英仁親王が成人するまでの中継ぎとして即位であった。現在のところ8人10代の女帝が歴史上存在しているが、現在のところ後桜町天皇はその最後の女帝となっている。英仁親王は明和5年(1768)立太子し、同7年(1770)譲位を受けて、後桃園天皇として即位する。しかし、元々病気がちであった天皇は、安永8年(1779)11月9日に急逝する。その在位は同年12月16日となっているのは、余り崩御が急であったため後継の準備が間に合わなかったことによっている。天皇には女御・近衛継子との間に第1皇女・欣子内親王がいたため、内親王を中宮とする者が次の天皇となることとなった。内親王は安永8年1月24日(1779)に中御門天皇の唯一の玄孫として生まれている。後継者候補には閑院宮美仁親王と弟の祐宮師、そして伏見宮貞敬親王の名が上げられた。先ず既婚者であった美仁親王が外れ、残り2人の内でも内親王に年が近いという理由で明和8年(1771)生まれの師仁親王が選ばれている。貞敬親王は安永4年(1776)生まれであり、師仁親王よりは5歳年下にあたる。師仁親王と貞敬親王の年の差よりは、後桜町上皇と前関白近衛内前が推す貞敬親王に対して現関白の九条尚実が擁立した師仁親王が競り勝ったと見てよいだろう。

 光格天皇の御宇は第11代将軍・徳川家斉の治世とほぼ一致し、江戸に於いて徳川幕府が次々と改革を行うものの、ついには成功できずに衰微して行く時期に丁度当たっている。明和8年(1771)生まれの天皇に対して家斉は安永2年(1773)御三卿の一つである一橋家の当主一橋治済の長男として生まれている。そして安永8年(1779)第10代将軍・徳川家治の世嗣である徳川家基の急死後、天明元年(1781)に家治の養子になり、江戸城西の丸に入って家斉と称している。第11代将軍に就任したのは天明7年(1787)であった。光格天皇が即位したのが安永9年(1780)であったので7年余り遅かったことが分かる。
 家斉の将軍就任とともに、家治時代に権勢を振るった田沼意次は罷免され、徳川御三家から推挙された陸奥白河藩主・松平定信が老中首座に任命されている。この後、定信は寛政の改革に着手する。幕府財政の建て直しのため積極的な改革が断行されるが、田沼政権にどっぷり漬かり切っていた江戸の人々にとっては、かなり厳格であったようだ。やがて将軍や幕府上層部からの批判が起こることとなった。
 このような窮地で尊号一件が生じ、ついに定信もこれを以って寛政5年(1793)7月に罷免されている。そして家斉の大御所時代が始まる。松平定信の後任には三河吉田藩藩主松平信明や駿河沼津藩藩主水野忠成を用いてきたが、天保5年(1834)より遠州浜松藩主水野忠邦に幕政を任せている。定信から信明にかけては贈賄を禁じてきたが水野忠成の時代より贈賄を公認し収賄を奨励するように変わって行った。また家斉も奢侈な生活を送るようになり、異国船打払令を発するなど度重なる外国船対策として海防費支出が増大したことと合わせて、幕府財政は破綻に向けて転がり落ちて行った。この腐敗横行と財政再建のために文政期から天保期にかけて8回に及ぶ貨幣改鋳・大量発行が行われ物価の高騰に直結した。この江戸幕府の衰退を招くこととなった家斉の治世は、天保8年(1837)に次男の家慶に将軍職を譲ったものの天保12年(1841)閏1月7日の逝去まで続いた。大阪で大塩平八郎の乱が発生したのも天保8年(1837)2月19日のことであった。
 徳川家斉が家慶に将軍職を譲るよりもかなり早い文化14年(1817)に、既に光格天皇は仁孝天皇に譲位を行い、自らは太上天皇となっていた。太上天皇とは、譲位により皇位を後継者に譲った天皇に贈られる尊号である。一般には上皇と略することが多い。明治以降の皇室典範では譲位を認めていないため、制度上太上天皇は存在しない。すなわち光格天皇が今のところ最後の太上天皇ということになる。

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慶光天皇廬山寺陵 道標 2014/10/18撮影


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