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zoom RSS 廬山寺墓地

<<   作成日時 : 2016/05/15 18:44   >>

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廬山寺墓地(ろざんじぼち) 2010年1月17日訪問

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廬山寺墓地

 
 廬山寺 その2でも触れたように、2008年5月13日に廬山寺を拝観した際には廬山寺陵の存在を知らなかった。そのため御土居と陵墓を訪れることはなかった。その後、陵墓に関係するHPや文献を調べて見逃していたことに気が付き、今回の訪問では予定に繰み込んだ。

 廬山寺の墓地は本堂の東側、御土居沿いに作られている。山門及び本堂が寺町通に西面しているので、自然と寺地の奥に墓地を作ることとなったのであろう。つまり寺町通から山門を潜ると正面の大師堂に至る。もともと北側の山門は大師堂のために造られた門と考えても良いだろう。そのため南側の薬医門が本堂への入口となっている。本堂は山門、大師堂の軸線上の東側に位置し南面するように配置されている。そのため大師堂と本堂の間に玄関が作られ、この玄関を介して大師堂と本堂は接続されている。薬医門は通常使用することが無いようだが、この門を潜って境内に入り、直進すると本堂南庭を囲む塀に突き当たる。ここには南庭、すなわち源氏庭に入るための門と紫式部 第弐三位歌碑が置かれている。そのため薬医門から境内に入り、歌碑に向って直進して後に左に90度回転すると正面に玄関が現われる構造になっている。しかし薬医門は通常は開けられることがないようなので、山門から入った拝観者は、境内を斜めに南東へ進むこととなる。
 さて本題の廬山寺墓地への順路は、本堂に上がらないので、玄関には向わない。薬医門のほぼ正面にある歌碑の右手側、南庭を囲む築地塀の南西角に建てられた道標を目標に進む。そして源氏庭の南限の築地塀沿いに東に進むと墓地の入口が見えてくる。つまり山門が開いていれば、本堂を経由しないで墓地へと向かえるようになっている。ただし源氏庭を眺めることは出来ない仕組みなっている。
 廬山寺の墓地は南北方向に長く作られている。Google Mapの航空写真で見ると廬山寺の北側に隣接する清浄華院も本堂の東奥に墓地を築いていることが良く分かる。つまり寺町沿いの寺院は御土居に沿って墓地を作ってきたように見える。最初に訪問した時はこの位置が関係が分からず、そのまま玄関から山門を経て寺町通に戻ってしまった。現在、廬山寺の境内にもStreet Viewが設定されているので、迷わずに廬山寺陵へ進むことができるようになっている。

 廬山寺墓地の入口を左に曲がり、本堂の東壁に沿って北に進むと慶光天皇廬山寺陵が現われる。慶光天皇とは光格天皇の父、閑院宮第2代典仁親王である。この廬山寺陵については改めて別の項で説明するとし、ここではそれ以外の宮家の人々の墓を見て行く。

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廬山寺墓地 入口
廬山寺陵参道の道標が建つ

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廬山寺墓地 墓地への参道 左塀の裏側は源氏庭


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廬山寺陵

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廬山寺墓地 仁孝天皇皇子鎔宮と孝明天皇皇子寿萬宮の墓


 墓地入口付近に塀で囲われ中を覗くことの出来ない墓がある。仁孝天皇皇子鎔宮墓と孝明天皇皇子寿萬宮墓の墓であることが管理している宮内庁の駒札から分かる。
仁孝天皇は光格天皇の第六皇子・寛宮で文化14年9月21日(1817)に、父である光格天皇より譲位され第120代天皇となっている。鎔宮は仁孝天皇の第二皇子として文政8年(1825)10月22日に生まれたが、翌9年(1826)2月13日には崩御している。後に孝明天皇となる統仁親王は天保2年6月14日(1831)に第四皇子として生まれている。仁孝天皇には多くの皇子、皇女が生まれたが成人したのは孝明天皇と姉の第11代桂宮を継いだ淑子内親王と妹の親子内親王、すなわち皇女和宮の3人のみである。いかに皇統の維持が難しいか分かる。ちなみに久邇宮朝彦親王は仁孝天皇の数多い猶子の一人である。親王は文政7年(1824)生まれであったので、天保2年生まれの孝明天皇にとっても頼もしい兄的な存在であったことが理解できる。仁孝天皇は弘化3年(1846)に崩御し、東山の泉涌寺内にある後月輪陵に祀られている。
 寿萬宮は孝明天皇の第三皇女として安政6年(1859)3月20日に生まれている。母は典侍の堀河紀子。寿萬宮も短命で翌々年の文久元年5月1日には崩御されている。孝明天皇の皇子皇女も短命で、明治天皇となった睦仁親王を除けば成人した者はなかった。孝明天皇の陵墓は後月輪東山陵である。第108代後水尾天皇以降、第118代後桃園天皇までの11代が月輪陵、その後の光格天皇と仁孝天皇の2代も同一敷地内の後月輪陵に祀られている。そして慶応2年(1867)12月25日に崩御した孝明天皇のために、月輪陵・後月輪と近接するものの新たな後月輪東山陵が築かれている。これは尊王思想の高まりに拠るものと考えてよいだろう。

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月輪陵・後月輪陵 2008年5月10日撮影

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後月輪東山陵 2008年12月22日撮影


上記の鎔宮墓と寿萬宮墓の東南に東山天皇の第四皇子寿宮の墓がある。元禄13年(1700)3月15日に新崇賢門院櫛笥賀子を母として生まれたが元禄14年(1701)11月9日に崩御されている。南北に細長く広がった廬山寺墓地の中央部に一般の墓地に混じって、鎮宮墓と周宮墓がある。鎮宮は閑院宮第3代美仁親王の第二王女で寛政3年(1791)に生まれたが同6年(1794)に亡くなっている。閑院宮は東山天皇の第六皇子直仁親王が初代となったため、第3代の子にあたる鎮宮は東山天皇皇玄孫女ということになる。周宮は東山天皇の第五皇子慶仁親王すなわち中御門天皇の第八皇女で享保20年(1735)に生まれるが同年中に亡くなっている。

 鎮宮墓と周宮墓の北側に、下記のように多くの宮家の墓が集中する。

後水尾天皇皇女・永光院墓
後水尾天皇皇子・霊照院墓
後水尾天皇第3皇子・若宮墓(1628)
後水尾天皇第11皇女・宗澄女王墓(1639〜80)
後西天皇第6皇女・円光院墓(1663)
霊元天皇皇女・智光院墓→第1皇女・知光院墓(1669)
霊元天皇第3皇子・三宮墓(1675〜77)
霊元天皇第14皇子・嘉智宮墓(1709〜13)
東山天皇第4皇子・寿宮墓(1700〜01)
東山天皇皇孫・梅芳院墓(1723 閑院宮直仁親王第1王子)
東山天皇皇孫女・蓮香院墓(1727 閑院宮直仁親王第2王女)
東山天皇皇曾孫女・弥数宮墓(1765〜68 閑院宮典仁親王第1皇女)
東山天皇皇玄孫女・苞宮墓(1791〜92 閑院宮美仁親王第3王女)
東山天皇皇玄孫女・敬宮墓(1793 閑院宮美仁親王第4王女)
東山天皇五世皇孫女・茂宮墓(1811 閑院宮孝仁親王第1王女)
東山天皇五世皇孫女・永宮墓(1815 閑院宮孝仁親王第2王女)
中御門天皇第2皇女・三宮墓(1723 妙智院)
中御門天皇第5皇子・信宮墓(1734 妙光院)
光格天皇皇女・開示院墓(1789 流産)
光格天皇皇女・受楽院墓(1792 流産)


 後水尾天皇第11皇女の宗澄女王を除けば、いずれも若くして亡くなられた皇子や王子等の墓である。そして墓が造られた帰還は、後水尾天皇の皇子皇女から第4代閑院宮孝仁親王の王女まで凡そ200年に渡っている。やはり慶光天皇廬山寺陵がこの地に築かれたことからも閑院宮家に関連する方々の墓が多い。

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廬山寺墓地 御土居に沿って北側へ延びる


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